世界の賀川

上海からの二人のお客様

賀川豊彦記念松沢資料館の杉浦秀典学芸員のブログが最近のおもしろい。「上海からの二人のお客様」を転載させてもらう。 - 先々週、中国上海の復旦大学の大学院生の方がこられて、資料を探してゆかれた。学部時代は米国アイビーリーグで人類学を修められた方…

友愛のコペルニクス的転換 賀川、鳩山、オバマ 【三条ネットカフェ】

第84回 友愛のコペルニクス的転換 賀川、鳩山、オバマ 財団法人 国際平和協会 伴 武澄 http://fm797thinktank.seesaa.net/article/130321312.html 10月15日に開催された京都の同志社大学での賀川講演会の折り、京都のFMミニ局、三条ネットカフェの「Thinkt…

ジュネーブ講演が火を付けた賀川ブーム

Think Kagawaの読者は1936年のロチェスター大学で賀川豊彦が行った「Brotherhood Economics」と題した講演が英文で出版され、欧米を中心にセンセーションを巻き起こしたことはご存じのことだと思う。賀川はその後、ヨーロッパに渡り同年8月6日ジュネーブ大…

ロッチェスターの戦争 『世界を私の家にして』から

「ロッチェスターの戦争」といふ初号の見出しを、保守派の宗教新聞がつけている位、故ラウゼンブッシュ教授の記念講演は、私が同市に行く前からセンセーションを起こしていた。 あまり人の批評を気にしない私も、、学校が学校だけに、先方に対して気の毒だと…

賀川豊彦の名を世界的にしたタッピング一家 女優長岡輝子

賀川豊彦の名を世界的にしたタッピング一家 長岡輝子 資料館ニュース1997年12月1日 明治の終わりから大正、昭和にかけて大人になった日本人で、賀川豊彦の名前を知らない人はいないでしょう。それに反して、その背後で彼を支え続けたアメリカ人宣教師タッピ…

上海基督教経済会議を終えた賀川の竹内勝への葉書

賀川豊彦は1920(大正9)年8月、「上海日本人基督教青年夏季自由大学講座」に招かれ内山完造や孫文とも出会った事は第18回目「賀川の初めての中国の旅から」で触れたが、その7年後、1927(昭和2)年8月には「上海基督教経済会議」(8月18…

This day in HIstory Born Toyohiko Kagawa

121年前のきょう、7月10日。賀川豊彦が神戸で誕生した。長老派ヘリテージセンターのサイトにも記されている。写真は留学時と思われる若き賀川である。若き賀川は眼鏡をしていないのである。 On July 10, 1888, Toyohiko Kagawa (shown) was born in Kobe, J…

プリンストン大学図書館の賀川豊彦の肖像画

筆者は訪ねたことはないが、プリンストン大学の図書館に賀川豊彦の肖像画があるそうだ。昨夜、晩飯を一緒にしたプリンストン大学神学校に留学している名古屋出身の学生は「うれしいですよ。図書館には2枚しか肖像画がありませんが、その一つが賀川豊彦なの…

伴武澄講演「海外の賀川」2008年7月12日神戸

賀川豊彦講座「海外の賀川豊彦」 講師:伴 武澄氏 日時:平成20年7月12日 場所:神戸市の賀川記念館3階集会室 司会 皆様こんにちは。暑い中、お出でいただきまして、ありがとうございます。 この賀川記念館、昭和38年から活動しておりますが、ご存じの…

1945年8月15日、蒋介石総統の告文

以下は、1945(昭和20)年8月15日午前11時(日本時間)、蒋介石総統が、重慶より全中国と全世界に向けてラジオ放送されたものの全文です。 翻訳、長谷川太郎氏 掲載 佐藤邦宏 蒋介石総統の告文 「全中国の軍官民諸君、並びに全世界平和愛好の諸士、われらの対日…

日中戦争時における賀川豊彦の謝罪 小南浩一

東アジア総合研究所コラムから転載賀川豊彦(1888〜1960)は、1909年(明治42)、21歳の時に神戸の貧民窟(スラム)に入り、キリスト者として貧しい人々のために生涯を捧げる決意をした。以後、労働運動・農民運動・無産政党運動・消費組合(生協)運動・平…

賀川豊彦とバートランド・ラッセル(2)

バートランド・ラッセルを載せた營口丸(松下注:長崎三菱造船所が明治期に造船。もともとは郵便船らしい。)は、十七日午前十一時三十分、神戸港第二波止場に沿うて徐行して居る。此の日恰も大倉山公園に催された労働者の運動会にて勢揃いせる各労働組合会の…

賀川豊彦とバートランド・ラッセル(1)

バートランド・ラッセル氏は、愈々(1921年7月)十七日正午、神戸入港の栄口丸にて来朝せり。同じ思想の流れを汲む賀川豊彦氏真っ先に出迎え、同氏並びに改造社・山本実彦氏(=社長)の介添えにて、ラッセル氏は、目下罷業(=ストライキ中)の職工団と挨拶を交…

賀川豊彦とアインシュタイン(松岡正剛の千夜千冊から転載)

松岡正剛の千夜千冊 第七百二十二夜『改造社と山本実彦』から転載 山本は、儲けるだけでは気がすまない。なんとか日本を動かしたい。大向こうを唸らせたい。 そこで、まずはバートランド・ラッセルの招聘を皮切りに、海外の大物を呼ぶことにした。来日と出版…

賀川豊彦とガンジー(GAIAの日記から転載)

賀川豊彦とガンジー(GAIAの日記から転載)「わたしの非暴力1」125ページより1939年1月16日、当時の日本において有名なキリスト教伝道師であり、社会運動にも尽力した賀川豊彦がバルドーリにガンジーを訪問した。 当時日本は中国に侵略戦争を開始…

世界の賀川(8) Brotherhood  Economics

1935年の訪米で忘れてはならないのは、ニューヨーク州ロチェスター大学での講演だ。「Brotherhood Economics」と題した講演で、日本語では「友愛経済」「兄弟愛経済」とでもいえばいいかもしれない。この経済学の講演は直ちにニューヨークで出版され、1…

世界の賀川(7) アメリカでの毀誉褒貶

1950年、太田俊雄という牧師が、イリノイ州ネイバヴィルに留学していた時の有名なエピソードがある。近隣のオーロラの町では「賀川豊彦来る」が大きなニュースとなった。 「トシオについて行けばカガワに直接会えるかもしれない」「トシオ紹介してくれよ…

世界の賀川(6) 1935年のアメリカ

1935年の訪米は賀川にとって4回目のアメリカだった。1929年のニューヨーク株式市場の大暴落を引き金とした大恐慌が吹き荒れて、まだ収拾していない時期だった。一方で1917年のロシア革命が世界に広がり、資本主義の対抗軸として社会主義が台頭…

世界の賀川(5) 1925年のアメリカ

賀川は1924年から25年にかけてアメリカとヨーロッパを訪問するが、賀川がアメリカに到着したのが1924年2月だった。アメリカで排日移民法が7月に成立していた。これ以上、日本人を増やしてはいけないという風潮が高まってきた時期だった。賀川は…

世界の賀川(4) 宣教師が広めたKagawaの名前

賀川豊彦は1914年、初めてアメリカの土地を踏む。プリンストンへの留学だった。マヤス先生らキリスト教の恩師たちの力添えによって実現した。片道切符だけの留学で、授業料は免除されていたが、アルバイトをしながら3年間アメリカで過ごした。アメリカ…

世界の賀川(3) オーストラリアの賀川

もう一つ、エピソードを話そう。昨年春、賀川豊彦記念松沢賀川資料館の杉浦氏から「伴さん、こんなDVDをもらったんだけれども、ちょっと見てください」といわれた。オーストラリア人がつくった「フレッチャー・ジョーンズ物語」という1時間ほどのドキュ…

世界の賀川(2) 賀川リターンズ

5年も前だが、スコットランドのグラスゴー行った。その2カ月前、「賀川、賀川」と言っている牧師さんがいるということを友人から聞いて、正直びっくりした。70歳を超えて病身であるということで、これはぜひとも会っておかなきゃいけないと思ったのだ。 …

世界の賀川(1) 地球規模の発信 

戦前、日本のことを欧米語で発信した人は多くない。思い起こすのは岡倉天心、新渡戸稲造、そして賀川豊彦だ。もう少しいるかもしれない。 一番古いのは岡倉天心。日本の美術を世界に紹介し、東洋の美術を世界に紹介した。『茶の本』は日本の心を伝えた。『ア…

"I know Dr. Kagawa 高橋源次

賀川豊彦学会が誕生したのは昭和60年のこと。学会論叢の創刊号が11月に世に出た。その巻頭言を書いたのは当時の高橋源次氏。明治学院大学名誉教授である。1934年にロンドン大学に留学したときのエピソードを書いている。 "I know Dr. Kagawa" そう言…

ロチェスター戦争(3)

ドクター・カガワの身体は、一体どんな風にできているのだろう。6ヶ月にわたって、このような精力的を維持していることが不思議であった。不思議であるのに、なお余裕を示して、空を飛び地を走り、ある時は1日のうちに11時間立ったまま、一つの集まりから…

ロチェスター戦争(2)

こんなにファンダメンタリストの人々が、賀川を攻撃したのは、今にはじまったことではない、前年の12月22日に、テキサス州アマリロでは、賀川が「進化」をいう言葉を使ったこと取り上げて、彼を無神論者だとラジオで攻撃した。これに類した攻撃はアメリ…

ロチェスター戦争(1)

賀川は1936年4月14日、ニューヨーク州のロチェスターに戻ってきた。ここでは故ラウシェンブッシュ教授の記念講座で講義をすることになっていた。 ところが、賀川の救霊運動、協同組合運動、平和運動に対して、アメリカの軍需品製造業者、在郷軍人団、…

平和使節団の思い出 阿部義宗

特急電車を3分とめる 1941年、日米間の関係が悪化し、太平洋の風雲急なる時、日本基督教連盟(原罪のNCCに当たる)では代表8名を選び、米国訪問することになった。外務省(近衛内閣)に話したところ大賛成だったので、実行することになったが、費用…

Toyohiko Kagawa Revisited

Robert M. Armstrong, Former Scottish Baptist ministerLet me at the outset introduce myself and explain how I come to be writing about Toyohiko Kagawa. My name is Robert Armstrong and I am a retired Scottish Baptist minister living in Glasg…

フレッチャー・ジョーンズ物語

1年ほど前の9月7日、オーストラリアのSBSテレビで1本のドキュメンタリーが放映された。「The Fabric of a Dream Fletcher Jones Story」という。同国のフレッチャー・ジョーンズというアパレル王の成功物語である。驚いたのは冒頭から日本の社会運動…