賀川の仲間

武内勝先生を語る 中村竹次郎 「雲の柱」昭和12年4月号から

「私は若い時、体を八つ裂きにして此の一身をキリストに捧げたいと思った。唯十字架の死を憧憬るるだけでは物足りないので」 武内先生のかく語らるる言葉を聞いた時、私は慄然として先生の温容を今更の如く見守ったことだった。温容の言葉に相応しい先生のあ…

馬島?とイエス団友愛救済所

鳥飼慶陽先生の賀川豊彦のお宝発見 馬島医師の神戸における働きは少しの期間であるが其の足跡は大きいものがある。 今回の「玉手箱」のなかに、馬島医師から武内勝宛に留学先から送られた二枚の絵葉書が残されている。これの消印をみると留学中のシカゴ大学…

與謝野晶子が訪ねたスラムの賀川

與謝野晶子は1920年4月に、夫寛とともに、神戸に賀川豊彦を訪ねている。 つぎの訪問記は「横濱貿易新報」(1920年5月16日号)に掲載されている。 神戸の貧民窟を觀て 私は今度の旅行で、神戸の葺合にある大貧民窟を見ました。案内して下すつた賀…

野坂参三が見たスラムの賀川豊彦

1914年、後に共産党員になる野坂参三は神戸の葺合新川に賀川豊彦を訪ねる。野坂は賀川より4つ若いから22歳の時である。慶應義塾在学中と思われる。野坂は後に書く自伝『風説のあゆみ』の中でその時の驚きを書いている。以下『風説の 「賀川は、そのこ…

童心 小田切信男(賀川豊彦全集・月報8 昭和38年4月)

世にはエライ立派な人は少なくありません。しかし、そのような人で心から好感のもてる人はそうざらにあるものではありません。徳冨翁が同時代の日本人の、しかも対照的な内村・賀川の両先生を讃えたことは特筆すべきことでありますが、私には両先生こそ最も…

製本屋の女工としての誇り 賀川ハル

京都大学大学院の本山美春教授の『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』(ビジネス社、2006年3月)のあとがきに賀川ハルさんの自叙伝『女中奉公と女工生活』からの引用がある。 製本屋の女工として勤務していた賀川はる子は、その自叙伝『女中奉公と女…

中ノ郷質庫信用組合の初代組合長となった田川大吉郎

田川大吉郎(1869-1947=明治学院総理、中ノ郷質庫信用組合初代組合長) 明治2年、長崎に生まれ、20歳で早稲田大学の前身東京専門学校を卒業。18歳のころから筑水生のペンネームで報知新聞に論説を書き、矢野龍渓に認められて大学卒業後、同社の論説記…

豊幸農場と共益社の思い出 木本郁

昭和15年と云う年は皇紀2600年の年であり、国の内外で各種の記念行事が行われたが、私自身にとっても文字通り記念すべき年となった。此の年の10月、大阪中の島公会堂に於いて、大阪キリスト教青年聯盟主催の2600年記念奉祝伝道講演会が催される…

庶民に尽くした久留米藩当主 有馬頼寧

有馬頼寧(ありま よりやす=1884(明治17)-1957(昭和32)=政治家、農林大臣) 山本一生『恋と伯爵と大正デモクラシー』(日本経済出版社、2007年9月17日)を読んだ。有馬頼寧の物語である。頼寧は旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男とし…

賀川先生「卓上語録」(7) 田中芳三編

百三人の賀川伝 先生は私の顔を見るなり、嬉しそうに「今度、君の言い出しでキリスト新聞社から"私達の見た賀川豊彦"を多くの人から原稿を求めて出す事になった。面白いネ! こんなのは世界中未だ何処にもない」「先生、それは違います。ルカ伝の初めには"−…

賀川先生「卓上語録」(6) 田中芳三編

自然療法 「先生、わたしは昔、胸が悪く、41人徴兵検査を受けて、38人甲種合格したのにわたしは丙種でした。それで私は先生のお書きになった"我が闘病"で療養生活をしました」「君ね。人間の体の中にも、(1)創造(2)保存(3)修繕と三位一体の原則が働いて…

賀川先生「卓上語録」(5) 田中芳三編

共産党 「共産党は僕を一番こわがっているらしい。だから母港は何時やられryかわからん! キリストは33歳で死なれたのだから、死は覚悟している。僕も22歳の時、一度死んだのだから、今の生命は儲けものだよ」(1949年1月3日、一麦寮にての座談…

賀川先生「卓上語録」(4) 田中芳三編

人生の目的とは何か 「先生、人は何故此の世に生まれて来たのですか。"人生の目的"とは何でしょうか」「それはイエスの友の5綱領にある−(1)イエスにあって敬虔であること(2)貧しい者の友となって労働を愛すること(3)社会の為に奉仕すること(4)純潔なる生活…

賀川先生「卓上語録」(3) 田中芳三編

予言 「先生は先年、講演で“四国は将来二つに割れる”とおっしゃいましたが・・・」 「君もよく知っているだろう! 大歩危小歩危のあの奇岩を! あれは吉野川を中にして東と西とに割れている姿だよ。今から何万年か後に東と西とに真っ二つに割れるね。」「戦…

賀川先生「卓上語録」(2) 田中芳三編

首相に何故ならなかった?「先生は終戦後“総理大臣”になると云う人がありましたが、何故なりませんでしたか」「僕は学者肌の方で、あんな処にじっと坐らせられたらたまらんよ、好きな自然科学の研究でもしている方が余程面白いね。また僕は15歳で受洗した…

賀川先生「卓上語録」(1) 田中芳三編

紀州粉河の同志たち 二十数年間交わっている紀州粉河のイエスの友の同志、武本昭夫氏は、数年間に亘って修養会の私の話を全部筆記して9冊の謄写版刷りにしてくれた。その武本昭夫氏をイエスの友に導いた田中芳三氏は、大阪市阿倍野区文の里の自宅に泊まって…

社会運動の開拓者 村島帰之

大正6年夏、大阪府知事官邸の社会事業の集会で私は初めて賀川先生と相知った。それから44年、交友は絶えることなく、私の人生のコースはこの人を知った事により大きな影響を受けた。 私は44年前の初対面の日の事を忘れない。先生はアメリカ留学から帰朝…

大宅壮一の賀川豊彦素描 加山久夫

大宅壮一は少年時代に賀川豊彦と出会い、彼からキリスト教の洗礼を受けている。彼はしかし、『「無思想人」宣言』において、知識人の「帽子」としての思想を捨てるとともに、宗教についても、「無宗教で生きていくつもりである」と宣言し、つぎのように述べ…

日本人は草を喰え 大田俊雄

池田勇人氏は戦後「貧乏人は麦飯を喰え」といって大いに非難された。賀川先生は戦前に「日本人は草を喰え」と力説してこられた。このことを次のように語られたことがある。 「日本のようにやせた、狭い土地にたくさんの人間がウヨウヨしていて、食糧難だ、食…

祈っているかね 金田弘毅

昭和10年(1935)の夏、イエスの友夏期聖修会がヤマトの多武峯で開かれた時だった。午後の講演を終えた賀川先生は「金田君、一緒に風呂に入ろう」と誘ってくださった、そしてお風呂の中で先生は「僕は暫くアメリカを廻って来ることになると思う、君は…

噫々 賀川豊彦先生 大宅壮一

明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。 西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾太郎、湯川秀樹などと云…

日本農民福音学校 金田弘毅

西宮市郊外の瓦木村にあった「日本農民福音学校」は昭和2年2月11日から3月10日まで1カ月毎年開かれ、昭和17年、太平洋戦争で閉鎖されるまで15年続けられた。 最初は校舎もなく賀川先生が自宅を開放して教室とされた。校長は杉山元治郎先生で、校…

徳冨蘆花と賀川豊彦 1/15

新宿から京王線に乗り二○分、上北沢駅を下車して五分のところに、賀川豊彦記念松沢資料館はある。上北沢からさらに二駅先の芦花公園から一〇分ほど歩くと、そこには緑豊かな蘆花恒春園がある。明治四○(一九○七)年、徳冨蘆花(健次郎)(明治元[一八六八]…

與謝野晶子の賀川豊彦素描 1/7

與謝野晶子(一八七八[明治十一]年〜一九四二[昭和十五]年)は、近代日本の歌壇を代表する女流歌人として実に多くの作品を世に送り出している。歌の世界に疎い人びとの間でも、彼女の「君死にたまふこと勿れ」はよく知られている。しかし、今日、晶子が…

世界連邦運動の先覚−インドのプラタップ公

宮島 政巳 戦前のことである。中央線の国分寺の駅から30分ほど入った小平村の津田英学塾の前の草むらに「世界連邦日本本部」なる立て看板が立っていたが、通りがかりにこれを見て訪ねて来る人もなかった。玉川上水に沿って小道を一丁ほど入ると畑の真ん中…

フレッチャー・ジョーンズ物語

1年ほど前の9月7日、オーストラリアのSBSテレビで1本のドキュメンタリーが放映された。「The Fabric of a Dream Fletcher Jones Story」という。同国のフレッチャー・ジョーンズというアパレル王の成功物語である。驚いたのは冒頭から日本の社会運動…

賀川豊彦を世に出したのは村島帰之さんです

神戸賀川記念館館長の村山牧師から、意外な話を聞いた。 「賀川豊彦を世に出したのは村島帰之さんです。先生の片腕だった。毎日新聞の記者ですよ」 この連載を始めたころ、労働記者の草分けで賀川のベストセラー「死線を越えて」出版の橋渡しをした先輩がい…

清水安三の北京時代

桜美林創立者:清水安三の北京時代(桜美林学園のホームページから転載) 桜美林学園理事長/学園長 清水 畏三 ■ご挨拶: 本日は、北京大学(北大)の創立100周年を記念して開かれるシンポジウムであります。従ってまず北京大学の先生方に、心から「おめでとう」…

雪印乳業と黒沢酉蔵

日本のフォルケ・ホイスコーレについて語るとき、忘れてはならないのが黒沢酉蔵翁である。雪印乳業設立者の一人だった。昭和57年、95歳まで生きて、農村高等学校としての酪農学園(現酪農学園大学)を経営し、農村青年の育成に努めた。 雪印がもともとは…