「無私」の心で新事業拓け ポスト金融危機の新たなモデル

 日本経済新聞2009年5月2日朝刊9面インタビュー「世界を語る」

 世界経済を混乱に陥れた米国発の未曾有の金融危機。背景には利益至上主義の行き過ぎもあったが、新たな均衡点は見えないままだ。2006年にノーベル平和賞を受賞したバングラデシュ出身の経済学者ムハマド・ユヌス氏は、自分自身のための利益を求めない「無私」に基づく新しいモデルの導入が資本主義を完成させるカギと説く。
 ―金融危機では何が問題だったとお考えですか。
「危機は一握りの向こう見ずな人たちによって引き起こされ、その影響は世界中に広がった。世界は直前まで食料危機の問題で一色だったが、金融危機で隅に追いやられてしまった。エネルギーや環境問題も依然深刻だ。これらは個別の危機ではなく、経済の構造的な問題が様々な形で表れているだけ。今こそ根幹にある株価至上主義や効率至上主義から意識を切り替え。抜本改革に取り組む必要がある」
 ―具体的には?
「人間は本来、利己的な部分と『無私』の部分を併せ持つ多面的な生き物だ。ただ、これまで『無私』が経済に組み込まれることはなかった。私の提案はこの『無私』に基づいたビジネスを創造し、資本主義に取り入れることでゆがみを正し、完成形を造り上げようというものだ。そうしたビジネスを私はソーシャルビジネスと定義している」
「自分の利益を守ろうと思った瞬間に判断力は曇る。だからソーシャルビジネスに金銭的な見返りがあってはならない。100万ドル出資したら、10年後でも同じ100万ドルが戻ってくる。配当や利息はないが、他人に何かできるという喜びや満足感、他人を変えていくうれしさが配当のように存在する。人の役に立ちたいという思いは人間誰しも心の中にあるはずだ」
 ―金銭的な見返りがなくても資金は集まりますか。
「社会目的の多くの慈善団体や政府機関がある。こうしたチャリティーのお金は通常、戻ってくることはないが、持続可能なソーシャルビジネスへの出資なら資金のリサイクルが可能だ。企業の社会的責任(CSR)の資金も最近は企業広報の色彩が強い。本来の趣旨に立ち返ってソーシャルビジネスに出資するよう提唱している」
 ―具体的にはどんなビジネスが考えられますか。
「貧困、病気、環境など社会問題の解決に本領を発揮する。ソーシャルビジネスに関心を持った独フォルクスワーゲンが私を招いた。私は幹部に『あなたたちの社会的目的は、バングラデシュの村民のための車を製造すること』と提言した。雨期の泥道を走れ、乾期にはエンジンを外して灌漑用に使え、モンスーンの季節には地域が水浸しになるのでボートにそのエンジンを搭載できる。発電もできたほうがいいが、農民に手が届く価格でないと意味がない。こんな議論を重ね彼らは動き出している」
「独アディダスには『あなた方の会社の目的は“はだしの人のいない世界”の実現ではないか』と説き、1ドル以下の靴を世に出すソーシャルビジネスを提案した。しかも製造工程で郊外を出さないグリーンシューズだ。日本企業も技術レベルは素晴らしい。それをソーシャルビジネスに注ぎ、世界を変えて、感謝されればどんなにいいだろう」
 ―日本でも経済産業省が『ソーシャルビジネス研究会』を立ち上げました。ソーシャルビジネスの普及や定着には何が必要ですか。
「専門の経済学修士(MBA)が必要だ。どう効率的にビジネスを運営していくかなどを研究する。学位としてまだ認められていないが、仏有力ビジネススクールのHEC経営大学院はソーシャルビジネスのコースを提供しており、学生や企業の社長らが受講している。米カリフォルニア州立大学チャンネル・アイランド校は『ソーシャルビジネス研究所』設立を決めた。日本では立教大学が企業などとグラミン銀行との連携を支援する拠点『グラミン・クリエイティブラボ』を設置するなど広がりを見せている」
 ソーシャルビジネスを手がける企業が上場する株式市場も設立したい。ストリートチルドレンを救済している企業はどこか、医療のソーシャルビジネスはどこか、すぐに探して投資することができる。私の身近にいる学生たちはインターネットを使った市場の創設などを議論している。上場する際には厳正に審査し、本当に適合する企業だけが上場する仕組みを作る。上場はその企業に認証を与えることになるので、知名度向上にも役立つ」
「まずは始めることだ。小さな一歩でもいい。例えば、若い人たちが集まって『この国の飲み水の問題を解決しよう』などと考える。始めたらあまりにエキサイティングなので、周囲の人も参加したいと思うに違いない。こうやってソーシャルビジネスは広がっていく。フランスでは最初に食品大手のダノンが踏み出し、水資源のヴェオリア・ウォーターや金融のクレディ・アグリコルが続いた」
 ―ノーベル平和賞を受賞するきっかけになったマイクロファイナンスには、オバマ米政権も関心を寄せているそうですが。
オバマ氏が幼少時に住んでいたインドネシアで、母親がマイクロファイナンスに携わっていた。1995年に北京で開かれた世界女性会議には彼女や私、マイクロファイナンスの理解者だったヒラリー・クリントン氏(現米国国務長官)がパネリストとして招かれていた。オバマ氏の母親は病気のために来られず、その後亡くなった。とはいえ金融危機震源地である米国の中枢に理解者がいるのは心強い。今後、マイクロファイナンスやソーシャルビジネスが米国の財政政策や途上国支援の政策にもいい影響を与えてくれることを望んでいる」
「深刻な危機に陥っているときこそ最大のチャンスだ。我々のライフスタイルや経済の仕組みをデザインし直し、再構築して、新たな方向性を見つけるいい機会だ。私の夢はホームレスやストリートチルドレンが存在しない世界の実現。貧困は博物館にあればいい。貧困を知らずに育った子どもが博物館に見学に行き、大人が『貧困と云いうのはひどいものだった』と語ってみせる―そんな社会を2050年までに実現させたい」

ESDシンポジウム in Kobe 持続可能な社会づくりにおけるソーシャルワークの意義

 3月7日から3日間の日程で「持続可能な社会づくりにおけるソーシャルワーク」をテーマにESDシンポジウム in Kobeが神戸大学などで開催された。ノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌス氏を招いた講演を中心に神戸大学の大学院生らが準備した。初日は学生らが「ESD」「マイクロクレジット」「ムハマド・ユヌス」「賀川豊彦」の研究成果を披露。2日目はユヌス氏と阿部志郎氏の講演、引き続いて上野谷加代子氏の司会によるユヌス・阿部対談。3日目はシンポに携わった学生らがユヌス氏を囲んでの2時間におよぶトーク
 ユヌス氏の講演は500人収容の神戸国際会議場の大ホールがほぼ満員。ユヌス氏の人生を賭けたグラミン銀行の取り組みに真摯に耳をかたむけた。一方シンポを準備した学生たちは2日間、ユヌス氏と時間を共有する幸運に恵まれた。それぞれにユヌス氏と語り、一生忘れられない思いでをつくったに違いない。うらやましいと感じた。(伴武澄)
 シンポジウムのフォトギャラリー

3月7日 プレセッション
3月8日 挨拶 野上智行 今井鎮雄
ムハマド・ユヌス氏講演「グラミン銀行が提起する新しい方向」(1) (2)
阿部志郎氏講演「ESD実践の草分けとしての賀川豊彦
ユヌス・阿部対談「ESDに資するソーシャルワークの現在・過去・未来」司会:上野谷加代子
3月9日 ユヌス氏を囲んで本音でトーク1
      ユヌス氏を囲んで本音でトーク2

ESDに資するソーシャルワークのの現在・過去・未来

 上野谷 これから加代子の部屋にユヌスさんをお呼びします。二人の話を聞いていかがでしたでしょうか。テーマは「ESDに資するソーシャルワークのの現在・過去・未来」。阿部先生の本から言葉から紹介します。「昨日に目を閉ざす者は真摯に今日は生きることはできないし、明日への夢がなければ今日の思想も活動も支えられない」。持続可能な社会をつくり、発展をさせていくことは歴史に学び、明日への夢を持ち続けることだと思う。二人の講演を踏まえてそれぞれの関心を話していただきたい。
 ユヌスさん、先ほど阿部先生はコミュニティー形成が未来に向けて一番大切なことといいましたが、どう思いますか。

 ユヌス 危機への対応を話されましたが、危機は大きければ大きいほど何か新しいものを生みだす引き金となる。日本でいえば1995年、バングラデシュでは1974年の大飢饉だ。その後、どんな反応が起きたかを話した。災害なら人命救助が必要となる。地震津波、洪水では世界から助けがやってくる。1998年、バングラで史上最悪の災害があった。それらは見えるものだが、貧困は見えない災害だ。毎日起きている。人道的な救済が起きるにはショックが必要だが、貧困に対しては違うレスポンスが必要。持続的なレスポンスが必要だ。あるときボランティアが助けてくれるが、それは最終的なソリューションではない。最終的なソリューションのためにはもっと持続的なものが必要となる。先進国では政府が福祉を行っているが、助けるだけだ。われわれのやっているのは貧困から抜け出すための支援だ。宗教団体やNGOが多くの支援をしてくれているが、われわれはさらに先を行きたい。将来的に支援を不要にさせるサポートだ。
 私はすべての人間は無限の可能性を持っていると考える。最貧の人々でも無限の創造力を持っている。路上で生まれた子どもも宮殿で生まれた子どもも、ともに無限のキャパを持っている。どうしてその可能性を解き放してやれないのか。そう思う。
 上野谷 苦しんでいる人々こそが改革の主体者になるというとらえ方をしないと世の中代わらないという話でした。われわれが一番悩んでいることだ。
 阿部 1998年はバングラの3分の2が洪水で埋まった。毎年、洪水で困っている。この年、世界から日本からボランティアが行った。物資も配った。子どもたちが行列をつくって救援物資の袋を一つずつもらう。私だったらもらった後そっと開けておいしいお菓子をポケットに隠すだろう。バングラの子は誰ひとりその場で袋を開けなかった。大事そうに抱えて帰った。それは家族と分かち合うためだ。実にやさしい子どもたちだ。
 ユヌスさんの話でやさしさを感じた。やさしいという日本語は「憂いに人が関わる」と書く。苦しみをともに分かち合う意味だ。苦しみを分かち合うのがコミュニティーであり「愛」だ。愛するとは理解することだ。愛するとは信頼すること。喜びも悲しみもともにすること。行動すること。正義を愛する。許し合うこと。信頼することならば、ユヌスさんは人をとことん信頼している。そこからユヌスさんの仕事が始まった。協同組合に信条は「ワーク・フォー・オール、オール・フォー・ワン」だ。
 ユヌスさんの話では一人から始まった。人を信頼すると同時に土、その土地を愛している。賀川はスラムに入って、身を粉にして働いたが、そのスラムを出た。そのときどんな気持ちだったか。スラムが原点となって幾多の社会活動が生まれるのだが。ソーシャルワーカーの私としては「なぜ賀川がスラムを去ったのか」という思いがぬぐい切れない。ソーシャルワークの原則は地域から離れないということ。人を地域から離さないということ。
 そこからユヌスさんの新しい理論がつくられている。現在世界を支配しているのは資本の論理だ。戦後の貧しい時代にイワシ一匹のカロリーを分け合った。それが経済発展の時代に入るととたんに競争社会になって互いに蹴落とす社会になった。アジアからはエコノミック・アニマルと軽蔑された。その利益の追求が現在の経済危機を招いている。毎日、世界で2万5000人が飢えで死んでいる。世界の軍事費のわずかを削ればこの人たちを救えるのにそれがせきない。資本の論理は戦争さえ利用する。毎日1200億ドルの金融取引がある。その中で生産活動の取引は10%に過ぎない。
 こういう資本の論理に対してユヌスさんが主張するのは人間の論理だ。人が生きるのはパンのみにあらず。パンは不可欠だが人間はそれ以上の目的を持つべきだ。「持続可能な」という表現を言い出したのはノルウェーのブルントランド元首相。1987年、国連へ提出した「Our Common Future」という報告書で初めて使った。翌年にタイム誌のman of the yearは人ではなく、地球が針金にまかれて海岸に打ち上げられるイラストだった。これが持続可能という言葉を広げた契機だった。つまり地球の問題だ。地球が生きられるからという問題さえ問われた。
 確かに経済はグローバル化したが、社会システムは遅れている。このシステムをこれからどうするか。それをグローバルにするためにユヌスさんが打ち出したのがショーシャルビジネス。これまでは投資、出資する。倒産リスクはあるが配分を受ける権利を持った。企業はそのわずかを社会貢献に使ってきた。
 ユヌスさんはソーシャルビズネスという。利益配分はない。どれだけ魅力を持つか聞きたい。ソーシャルビズネスの持つ普遍性、可能性はどうなのか。もう一つ、女性が会員の97%といったが、信頼がないから女性に貸した、それだけなのか。女性のエンパワーメントは?
 上野谷 最初の問題は日本はソーシャルビジネスという研究であったり、北欧のソーシャルエンタープライズの研究だったり、あるいは企業の社会貢献、この三つは大きなうねりになりつつある。ユヌスさんにはソーシャルビジネスこそが世界を変えるといっているがその普遍性について。また日本での可能性についてもお話下さい。
 ユヌス 日本には期待しているがまだ話はない。サステイナブルという点が大切。そうでなければソーシャルビズネスではない。持続可能にするために利益は不可欠だが、利益は会社の中に保留される。オーナーは投資金を引き出すことができる。たとえば100万ドルを投資し、5年とかの一定期間の後にちょうど100万ドルを引き出せる。人々の頭の中から投資と利益のリンクを取り外したいと思っている。どうして投資するか、それは会社を愛しているからで、その事業を続けたいからにすぎない。
 ソーシャルエンタープライズとの違いについてだが、多くの場合違いを定義するのは難しい。利益を上げつつ社会のためにもなっている会社があるが、そういうビジネスをいっているのではない。ソーシャルビジネスは個人の利益と切り離したビジネスであり、持続的であり、社会的目的を持っていることが不可欠。ヨーグルトでいえばまったく同じ商品を利益型企業で生産することも可能だ。栄養があって安い。でも利益をあげたいという目的がある。私が社員だったら、年度末にCEOに「いくらいくら売り上げを上げた」と報告するだろう。ソーシャルビズネスでは「何人の子どもを栄養失調から救い出した」と報告することになる。私の喜びは救った子どもの数となって現れるのである。それがわれわれの目的だからである。私は質問するだろう。「去年はうまくいかなかった。どうしたら救えるこどもの数を倍増できるか。ヨーグルトをもっと広めるために投資を増やすか効率化を図るか」。質問も変わるのだ。
 システムも違うから、始めるときにいくら稼がなければならないなど心配する必要はない。子どものことだけを心配すればいい。それから環境のことについても話したい。私はヨーグルトの容器にプラスチックを使うなといった。子どもがヨーグルトを食べて健康になればそれでいいというものではない。問題は、貧しい人たちが食べられないものにどうしてお金を払わなければならないのかということである。われわれは現在の技術に挑戦したい。頭のいい人たちがどうして解決できないのか。ソーシャルビズネスは環境的にも社会的にも持続的でなければならないのである。ここらが、ご質問のほかの概念との違いということになる。
 上野谷 そういう意味ではESDが目的としている教育的要素が実践の中に含んでいる感じがした。もう一つ女性の力を引き出すポイントを。
 ユヌス 講演で少し説明した。最初のゴールはマジョリティーではなかった。社会的不正義を質したかった。女性は完全に銀行から取り残されていた。旧来のバングラの銀行ではただの一人も女性の借り入れはなかった。それは間違いだと思った。それで50%は女性に貸さなければと考えた。それが達成できたとき気付いたのは、同じお金を貸した場合、女性の方が男性よりよっぽど家族のためになっていることだった。同じお金で大きな違いが生まれていた。われわれの目的が家族を困難から救うことなら、女性に貸した方が目的を速く達成できると考えた。
 講演でいくつかの例を紹介した。子どもを就学させる目的は100%達成できている。どうして成功したかというと母親に貸したからだ。もし男性への貸付が97%と逆だったらわれわれはまだ就学問題で苦労していただろう。バングラの貧しい家庭における父と子の関係はかなり距離があるが、母親は極めて緊密なのだ。バングラだけではないが大災害で食べるものがなくなったりする時、多くの男は家からいなくなる。子どもを置いて母親がいなくなるなどということは聞いたことがない。母親は子どもが何人いようが、まず子どもに食べさそうと努力するものだ。食べ物があればまず子どもにというのが母親なのだ。
 われわれが女性にお金を貸したことによって女性が力を得て、バングラでこの25年にドラマチックなことが起きたのだ。すべてが変わった。女性の立場も。
人口増加率は3・5%から1・4%に大きく改善した。欲しい子どもの数を女性自身が決められるようになったのだ。健康問題でいえば、25年前はインド亜大陸で最悪だったが、今ではインドやスリランカよりいいのだ。女性に力を与えることによって達成できたと思っている。女性にお金を貸すという判断はわれわれが最も成功したことの一つである。
 上野谷 男性は危機的状態になると逃げるそうですが、日本でもそうですか。どうですか。阿部先生
 阿部 インドにこう言う民話がある。母親の馬と子どもの馬と二頭いる。どうやって見分けるか。間に餌を置くと最初に食べるのが子どもの方で、母親は決して先に食べない。保育士、看護師、栄養士の語源は母親があかちゃんに乳を含ませる授乳ということだ。その母親の愛を専門職は受け継いでいかなければならない。
ユヌス ソーシャルビジネスで言い忘れたことがある。お金はどこからくるのという疑問である。最初はチャリティー基金にチャレンジした。最初、彼らは少額を投資してくれて、なかなかいいということになって金額を増やしていった。たとえば500万ドルの基金があって、チャリティーに出すと一度でなくなるが、100万をソーシャルビズネスに、400万をチャリティーに出すと、1年たっても100万ドルはまだある。1年後に損益やバランスシートを見て、200万投資しようかということになる。チャリティーが不要といってはいない。人道的に緊急に必要な場合も少なくないのだ。だが人道を超え次のレベルになるとソーシャルビジネスの方がうまくいくと思っている。
二番目の資金源は企業の社会貢献会計だ。多くの企業はチャリティーに使っていて、広報活動の一環として利用しているにすぎない。ロックミュージックのスポンサーになって企業のロゴを大きく宣伝している。それはそれでいい、だがほんの少し、ソーシャルビジネスに回してはどうか。会社がもっている技術な人力などポテンシャルをつぎ込んでほしい。そして新しいビジネスの種を生みだすことが出来る。
第三のソースはわれわれ個人の100ドル、1000ドルだ。ソーシャルビジネス・マーケットが将来生まれる可能性もある。たとえば困っている女性のためのビジネスや孤児を育てるビジネスに投資したい人もいるかもしれない。そうした人たちが投資できるマーケットである。重要なのは何をしたいかということ。いったん決まれば動きだすのだ。
上野谷 ユヌスさんはすでにフランスでソーシャルビズネスを上場させる実験を行っている。阿部先生、共同募金などもっと考えられるか。日本でも。
阿部 先ほどユヌスさんは福祉の制度が充実すると人々が制度に依存して努力しなくなるといった。日本は残念ながらそういう方向にある。戦後、福祉国家を標榜した。国家責任を強調した。そんな中で共同募金反対運動が起きた。民間の金を使うのは行政の責任の転嫁であると。国家に依存する姿勢を持ち続けているときに、長田区のように助け合ったのは貴重な経験だった。福祉は与えられるのではなく、住民が作り上げていくものだ。日本でいうと、社会福祉の基礎構造を築くのに50年かかった。いまのユヌスさんの話は、文化の話でいうと、日本は多くの援助をアジアに出しているが、日本の不満はアジアの国々は感謝しないというもの。アジアから見ると与えて受ける、恵みを分かち合う、われわれは与える機会をつくってあげている。ありがとうというのはあなたがたの方だという文化がアジアにはある。アメリカの例でいうと与える文化をつくった。日本で一番大きな基金は500億円、ビル・ゲイツは一人で4兆円出している。個人寄付は日本の30倍、税金の申告で寄付控除がある。これを利用している人が10万人いる。アメリカは70%の人が申請している。ヨーロッパは「与える文化」をつくった。アメリカには受ける文化がない。アジアに欠けているのは「与える文化」。日本は両方とも未成熟。これから「与え」「受ける」文化をつくっていく上でソーシャルビズネスは大きな活用になるかもしれない。
上野谷 阿部先生は50年にわたって横須賀のキリスト教社会館における活動をしてきた。行政依存を排除するために補助金はもらわないとか、募金活動はしないという自立した活動を続けてきた。二人に聞きたいのは活動を支援してきた仲間、印象的な人たちを紹介してほしい。
ユヌス その前に補足させてほしい。グラミン銀行は貧しい人たちによって所有されている。借り手がオーナーなのだ。お金はどこからくるのか。銀行は預金を集めて人々に貸す。グラミンは国内に2600支店がある。それぞれにやり方がある。預金を集め貸す方法が。新しい支店を開くとき、マネジャーにお金をあげない。その地域だけを与える。12カ月で収支を合わせなければならない。3年も4年もかけてはいけない。80%の支店はちゃんと実現する。できなければ14カ月、16カ月をかけて努力することになる。支店ごとに収支を合わせることになっている。自己完結だ。
貸すためには預金がいる。バングラでは洪水やサイクロンがたびたび国土を覆う。災害の後人々は生活をやりなおさなければならない。その時の原資がいる。そのとき他の支店に依存することは出来ない。それぞれの支店は災害が起きても貸し出しを続けられるようにしておかなければならない。しかも利益を上げていなければならない。経済危機がやってきたとき、われわれの強みは支店ごとに経営できる力を持っていたことだった。
グラミンは毎月1億ドルのお金を貸している。1年で10億ドルを超えるが、これらはすべて人々の預金から貸し出している。グラミンはグラミン・ダノンなど会社に投資している。まさに投資であり、寄付という行為は一切ない。ビジネス環境を自身でつくりたいのだ。女性が自立することはグラミンの自立にもつながる。彼女たちに貸すだけでなく、彼女たちの預金がグラミンに貢献している。住宅ローンもやっている。貧しい女性がリタイヤしても安心して暮らせる。そんな社会をつくりたいと思っている。
上野谷 借り手が株主で、自ら自立するために融資を受けてという互助グループの典型。まさにソーシャルワークだ。行員がグループワーカーのように上手にニーズをキャッチして、話し合いながら新しいプログラムをつくる。このあたりはコミュニティーワーカーの教科書を読んでいるような気がする。ユヌスさんからみてそれはソーシャルワークの展開ではないのか。ソーシャルビズネスの展開にお互いが支え合う。内面的なエンパワーメントをし、コミュニティーを開発していく。われわれの言葉ではソーシャルワークとなるのだがそう解釈してもいいか。
ユヌス それぞれの理解があるでしょう。だが私は違う解釈です。ソーシャルワークには言外の意味がある。人のためにつくり、お金はとらない。グラミンは働いて給料をもらうのだ。ただ行員はお金の貸し借りだけのために働いているのではない。管理職として多くの仕事がある。たとえば「五つ星」制度がある。ホテルのように「一つ星スタッフ」「二つ星スタッフ」がいて、支店もまた「四つ星」「五つ星」とある。貸し出しより預金が上回れば「星」を一つ与える。利益を上げればもう一つ「星」を得る。返済率が100%に達したらさらにもう一つ「星」を得る。支店は約4500人の村単位にあるのだが、その地域のすべての子どもが就学したら四つ目の「星」だ。その村の人全員が貧困の水準を脱したら最期の「星」が与えられる。支店や行員にはお金のためでない責任があるのだ。どの支店に行って聞いてもいい。「われわれは三つ星で、赤星、青星、緑星だ」というはずだ。それぞれの星には色もあるからだ。たとえば「貧困ラインを脱していない家族が200ある。そこを努力している。7カ月を目標に克服したい」といった返事が返ってくるだろう。それがミッションだ。こういうことを通じて行員は昇格し、給料をもらうのだ。普通の会社と同じように行員はこれを楽しんでいる。楽しむという意味ではショーシャルワークと同じだが、他は会社員と同じなのだ。同僚にどうだ「五つ星」もらったぜと自慢したり、おまえの支店よりうちの方が上だなんてことを言い合うのだ。
上野谷 ソーシャルビズネスについて、もっと勉強し社会実験をしなければという思いになってきた。日本におけるソーシャルワークの可能性という意味でもっと接近しなければならないと思う。阿部先生の50年を支えてきた人間はどういう人たちだったか。
阿部 若いとき、大学にいた。大学は居心地がいい。現場に出ることに躊躇があった。優柔不断の私の背中を押したのは妻だった。施設の貧しい住居にいた。雨が漏り、日が差さず、娘がぜんそくになった。犠牲を強いた家族にまず支えられた。一緒に働いた組織では自由にさせてくれた。一緒に働いた職員、家族、何百人といる。同僚であり同志だ。そしてそこを利用して巣立った子どもたち。白井君という友人がいる。私の「もう一つの故郷」という本を最近出版してくれた。この人は50年前に母親に連れられてきた障害児だったが、自立更生した。50年間友情を交わしている。一人例をあげれば女性がいる。ハンセン病で働いていた井深八重さんには決定的な影響を受けた。25年前、NHKで八重さんと1時間の対談をした。途中で、ディレクターが「ご本人の話を聞き出してください」と書いた紙を出した。わたしはムカッとした。見事にひきだしているでしょうと思っていたが、数分後に同じ紙が差し出された。ハッと起こった。八重さんの周辺の話ばかりで、八重さんの喜怒哀楽が語られていないことに気付いた。そこで「いちばん嬉しかったことは」という質問に切り替えた。最期の15分を八重さんが淡々と気持ちを話してくれた。放映されたのが12月25日の朝だった。井深八重は己に厳しく人にやさしくという生き方を貫いた同志社の卒業生。私もその後をついていきたいと思っている。
上野谷 つらい仕事ある。反貧困と叫んでも私たちが貧困に接近して、それをなくす活動に接近しにくいことに対して罪悪感だとか、内省しすぎてうつ状態になったりする。二人の話を聞きながら、いま地球規模で起きているさまざまな課題、とりわけ貧困に、家族の崩壊の問題に接しながら、体をはってでも止めていきたい。きょうはそういう決意をもった人々も多いと思う。これからの後継者についてどう考えているか。
阿部 賀川豊彦が100年前にスラムに入って献身した。大きな影響を与えたのはサミュエル・バーネットだった。バーネットはイギリスで最初にセツルメント運動を起こした。社会の改善者に必要な資格は「ポエット」つまり詩人であることといった。賀川豊彦は詩人だった。信善美を追求した。詩人であれということは夢を見ろということ。それが若い人に望みたい一つ。なぜか、感性にかかわるからだ。月を見る。いまもウサギがいると思っている。餅をついているのはメスのウサギだ。だから地上のオスのウサギが踊るのだ。子どもの時にそう教わった。いまでもそういう気持ちを持っている。早稲田大学をつくった大隈重信外務大臣をしていたとき、襲撃されて負傷し、自宅で療養していた。看護教育が明治18年から始まるが、その学校の4人が大隈の家に派遣された。大隈夫人が学生にいたく感動して、「患者の意をおさえ、声なきを聞き形なきを見る」と称賛した。なんとすばらしい言葉ではないか。賀川、ユヌス、二人ともその仕事をみるとたくさんの欲求がある。だが「金をくれ」といわれても恵まない。たくさんの欲求の背後のニードを見ようとした。これが洞察であり、感性だ。二人とも実に感性豊か。氷が溶けたらどうなる。「水になる」。正解だ。北国で「氷がとけたらどうなる」と聞くと「春が来る」と答える。答案はバツだが、なんとすばらしいロマンなのか。この夢を豊かな感性を持つ人々を育てなければならない。ホームヘルパーの会合で質問を受けた。「地震が来た、介護していた老人に抱きついた。いけませんか」。私の答えは「いけません。でも逃げようと思えば逃げられたのにそれをしないで老人をかばったのは立派な専門職だ」と答えた。いいたいのは実践を大切にしたほしいということ。体で覚えるというプロセスが大事。私の町の日蓮宗の住職がいる。日蓮宗では百日荒行がある。何をするか。起床5時、就寝11時。1日7回「みずごおり」をし、その間に座禅をし、読経をする。食事は朝晩の2回。1椀のかゆとみそ汁だけ。住職がいうにはまず眠くなり、腹が空く。食堂へ行くと配膳されている。どの茶わんに米粒が多いかみそ汁に具が多いかを見分ける。その席が取り合いになる。それが30日、40日、50日と続く。不思議なことに60日をすぎると、それが変わって風邪をひいた仲間が出るとおかゆを持ち寄るようになる。そうして最後はにっこり笑って分かれた。聖書の言葉に、艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むとある。苦しいことに絶えることによって自分を高め、そして希望を生みだす。実践は苦しいがそこに希望が生まれるということでもある。若い人たちに実践を大事にしてほしい。
上野谷 30数年前、民家を借りて地域実践を始めたとき、とても悩んだ。横須賀の阿部先生を訪ねて、飛び込んだ。駆け出しの学者だったが、後から聞いてお父さまが入院していた。それを契機に地域に根ざして実践しなければ学者になれないといわれたことを忘れない。ユヌスさん自身がバングラの若者、世界の若者に求めるものはなんしょうか。
ユヌス 最初にいいたいのは、若者君らはラッキーな世代であるということだ。史上、最もパワフルな人類だ。これまでにないテクノロジーを持っている。親の世代がわからないテクノロジーだ。テクノロジーは平等ではない。若い世代の方がよく知り、もっと速く知り、もっと深く知ることができる。コミュニケーションにおいて特権がある。一人でない。10年後の技術がどうなるか想像できないほど進歩も速い。今起きていることはサイエンスフィクションのようだ。問題はそれをどう使うかだ。これだけは自分で考えて答えを出さなければならない。人生の目的は何なのか。世界的な視野で考えなければならない。もはや君らはわれわれの世代のようにローカルな人間ではないからだ。グローバルな個人だ。毎日、世界の多くの人と通話し、通信できる。小さな出来事があっという間に何千もの人々に伝達される。アイデアがキーとなる。なぜなら君は単なる地球の乗客ではなく創造者なのだ。むかしの人たちはただ町でデモ行進するのが関の山だったが、君らにはパワーがある。アイデアが固まったら実践する。それは特権である。たった一人の人間が世界を変えられるのだ。何のために変えるかは君が決めなければならないことなのだ。地球のパイロットならどちらの方向に行くのか決めなければならない。君らはこの地球をどの方向へも動かせるパワーがある。それをしないと地球は漂流するばかりだ。それがパワーと持つことの責任だ。だからこの世界をどうしたらいいかイマジンすることが不可欠となる。最初はどんな世界をつくりたいかのアイデアをリストアップすることだ。それが終わったら実践に移すことだ。だから「プリーズ、イマジン」。
上野谷 今日は歴史に学ぶ必要があるということを確信した。二人の話の通り、私たちが自ら動かなければならないことを学んだ。活動家に戻らなければならない。研究者も実践者でなければならない。実践者も研究しなければならない。お互いがエンパワーメント関係をもう一度、このESDシンポジウム・イン・コウベからつくりあげたいと思った。持続可能な社会づくりは矛盾や葛藤、複雑な問題をはらむだけに私自身も逃げたくなることがある。今日のすばらしい話を聞く中でやはり逃げては駄目だ。あらゆる人々が徐々にいいから接近していく。引っぱってもらっても押してもらってもいいから、接近をして、内からの視線で参加しようではないかという思いになってきた。ソーシャルワークというスキルを与えてもらったから、社会正義と愛とウエルビーングを目指して実践することを再確認し、多元的多層的に協働の関係をつくりながら持続可能は社会にむかって行きたいと思います。お二人の話をどこまで引き出せたか自信がありません。お二人のお話でかんにんどっせということで終らせてもらいます。(完)

ユヌス氏を囲んで本音でトーク1

  • Q ソーシャルワークとソーシャルビジネスの違いは
  • A お金を持っているほど銀行は相手にしてくれる。現在、世界の人口の3分の2の40億人は銀行システムの外にある。銀行は信用力がないというが、われわれは挑戦している。マイクロクレジットは世界の1億5000万人に提供されている。1億3000万人が女性だが、まだまだ行き渡っているとはいえない。教科書には貧困解決のためには雇用が大切だと書いてある。だが途上国のどこに雇用があるというのだ。投資も必要だが外資に頼らざるを得ない。雇用を創出するときには女性のことも考えてほしい。男がやしなうだけでない。女性も働けるのだ。マイクロクレジットは特に女性に使い勝手がいい。工場にいかなくてもすむ。賃金を貰わなくてもいい。自分で仕事を始めればいいからだ。ウシを飼う、牛乳を売る、それを繰り返していけば収入が増える道ができる。グラミンは生活を変えるためにお金を貸すのだ。
  • Q マイクロクレジットが日本で広がらない理由について。宗教も原因しているか
  • A ニーズがあまり高くない。宗教も重要だ。取り残された人々をケアする役割が宗教にはある。イスラム教では、富の2・5%を差し出すことが求められている。重要な五つの柱の一つである。収入ではなく、持っているものという意味で、多くの人がやっている。キリスト教でもチャリティーが重要で、教会が役割を果たしている。モルモン教徒は10%を差し出すことが求められている。教徒は2年間ミッションでボランティアしなければならない。政府の後押しも必要だが、限界があり、そこにボランティアの役割がある。財団への寄付の非課税も大きい。その分、政府が差し出していることになる。アメリカでは多く行われ、財団を通じて何十億ドルが使われているが、ほとんどが国内で国外に流れるのは10%以下である。
  • Q ソーシャルワークのいい点は
  • A ソーシャルワークとソーシャルビジネスは対立しない。同じことを目指している。ソーシャルワークはすぐに始められる。人道や災害支援で駆けつける場合だ。ソーシャルビジネスは準備や設計をして投資を呼び込むが必要がある。ソーシャルワークの後にソーシャルビジネスが来る。ソーシャルワークは人助けでソーシャルビジネスはそれを乗り越えたところにある。ソーシャルビジネスは利益のことを考える必要がない代わりに地球のこと環境のことをだけを考えればいい。
  • Q グラミン銀行の成功の秘訣は
  • A まずすぐに反応したことだ。それほど準備はしなかった。時に誤ることもあったが、翌日あらためた。ケースバイケースで、個人が対応できたし、学生たちの役割も重要だった。とにかくやって経験を積み重ねたことだ。アカデミックの世界は理論を求め俯瞰的に見ようとするが、われわれは地上からの視線でいろいろと細かく見える。止まらないで避けることもできる。目前のことしかみえないからミミズの目だ。上から見ると細かく見えない。いろいろ想像してしまう。もちろん両方の視点が必要だ。グラミン銀行の引き金は高利貸の存在だった42人の借金がたった27ドルで、頭を悩ませることなくやっただけ。グラミン銀行は32年間に32以上の会社をつくってきた。年に一つだ。失敗例もあるが次々とつくってやってみている。経験を積み重ねることも重要だ。
  • Q ESDを学んでいる。研究室にこもらない研究だ。洪水にあった人が助けてくれた人には返せないが、そういう例はあったか。
  • A ボランティアワークは続かないことが多い。グラミンはボランティアでもできたが、しなかったのは、やりたいときにだけやるのでは永続しないと思ったから。銀行は特定の責任を求められる。責任を取れないのがボランティアの弱みでもある。パートタイムの仕事と使い分ける必要がある。
  • Q グラミンはどうして5人グループ制をとっているのか
  • A グラミン銀行では5人チームで責任者を選ぶ。メンバーがお金を借りるとき、委員会にかける。使い道や金額が適当かどうかを話し合う。それからわれわれが掲げた16条件についても話し合う。協力が重要なのだ。
  • Q ?
  • A 4年前、特別プログラムを組んだ。乞食にお金を貸すという。調査を始め、そうして乞食を始めたかをまず聞き出す。一件一件回って「もらったお菓子やおもちゃを売れば」と問い掛ける。そうするとあなたのオプションが生まれる。乞食はいいアイデアだった。人気が出て「自分もやりたい」と1000人ものスタッフが手掛けるようになった。ただ、一人で一人の乞食しか世話してはいけないと言った。グラミンには2万8000人ものスタッフがいるから2万8000人の乞食を助けられる。もっと世話をしたいということになって「二人まで」とした。グラミンは今では10万人の乞食の世話をしている。これはあくまでボランティアの世界で責任はない。
  • Q グラミン銀行は万能ではないとユヌスさんの著書にあった。
  • A グラミン銀行とグラミンフォンはそれぞれ独立している。私がつくった組織にグラミンとつけているだけだ。グラミンフォンの株は持っているが、融資はしていない。グラミンテレコムという投資会社が投資している。パートナーはノルウェーのテレノール。アメリカのソロス財団が1100万ドル投資してくれて、グラミンテレコムを通じてグラミンフォンに入れた。結果的に38%の株式を支配することになった。6年後にテレコムがテレノールの持ち株を買い入れることになっていて、ソーシャルビジネスにするつもりだったが、約束は単なる紳士協定だといってまだ実現していない。いまバングラデシュには6社の携帯電話会社があり、利用端末は4500万人だが、グラミンは53%のシェアを持っている。

ユヌス氏を囲んで本音でトーク2

  • Q グラミンの雇用について教えて欲しい
  • A まずいきなり支店長になるコースがある。修士取得者以上の人で、幹部候補生である。次いで一般行員コースは高卒者。この二つのコースがある。後者は少しずつ上がり支店長になることもある。
  • Q きのうのセッションで仲間について話し合い、「敵こそが仲間」という考えも示された。(藤本)
  • A 私も大嫌いと思うこともある。反対意見にはネガティブになるが学ぶこともある。他の側面を考えていなかったことに気付くこともあるし、指摘された意見を自分の考えに取り込むこともできる。着想は小さいが磨いて大きくする過程で批判は重要な要素だと思う。
  • Q 人間不信になったことはあるのか?(奥秋)
  • A 何か新しいことを始めると反対に遭うのは普通のことだ。批判に出合わないことの方が驚きで心配。女性にお金を貸すことに対しておかしいとされたが、批判されたということは私の存在を認めていることにつながる。政治家たちはいつも反対した。70年代は急進的左翼が多くいて、私のことを反革命だと指摘した。社会主義運動を破壊しようとしているとも批判だれた。金もうけだけのことを考えているという人もいた。右翼にも宗教家にも反対された。左翼とは対話が必要だった。私は何万の村を相手にすべきで、スピーチだけでなく行動こそが重要だと主張した。
  • Q 理念の対立でなく、裏切りとかはなかったか。
  • A マイクロクレジットのアイデアは世界に広がったが、マイクロクレジットといいながらわれわれと違うことをしている場合がある。グラミンのやっていることは農業銀行や普通銀行の融資とも違い、協同組合の融資とも違うのだ。方法論が違う。第一に担保を取らないのに取っている。南米では「テレビを買えます」とか言って貸しているがこれでは消費者ローンだ。利子が高いものも少なくない。高利貸では意味がない。こういうことを多く経験している。
  • Q 賀川豊彦についてどう思うか(片岡)
  • A あまりよく知らないが、すばらしい取り組みをしてきた人物。多くの人が賀川と同じようなことをした。協同組合をつくった。ヨーロッパのライファイゼンは農業者にお金を貸した。ヨーロッパでマイクロクレジットの話をすると、みな「あー協同組合と同じ」という。それほど協同組合の原則は強く根付いている。賀川も同じ範疇の仕事をしたのだと思う。
  • Q ソーシャル・ビジネスで営利企業と違う投資基準を明確化することは可能か?(井沼)
  • A 心配していない。重要なのは何をしたいかである。指標は目的に資するために作られたものであり奴隷になる必要はない。何がしたいのかに沿って考える。金もうけなのか社会のためなのか。ソーシャルビジネスをどう計るか。貧困でなくなる水準が基準となるし、カロリー摂取量もあるが、一応10のルールがある。家に屋根があるか。ベッドで寝ているか。衛生的トイレがあるかなどが基準となる。
  • Q グラミングループの成功の要因について、ニーズやインフラ、コミュニティーなどが挙げられる。日本ではどのような形でソーシャルビジネスが発展し得るか?
  • A 日本にどういう問題があるかリストアップしてほしい。麻薬問題なのか、ホームレスなのか。そそれを確定させることが、ビジネスモデル形成の第一歩である。全部の問題に取り組む必要はない。一つの町の一つの問題から始めて成功させればいい。
  • Q 自伝に「貧困は博物館へ」という言葉がある。貧困がなくなったらユヌスさんは何をするのか?(赤瀬)
  • A それは職を失うということかな。博物館づくりも楽しいかもしれない。町ごとに県ごとにつくっていけばいい。ただ「試験」に徹のは難しい。一人でも神戸から貧困者がなくならなければならないからだ。福祉に頼っている人が一人でもいればだめだ。コペンハーゲンから手紙が来た。「貧困を撲滅して3年以内に博物館をつくりたい。その時、ユヌスさんのテストに通りたい」と言ってきた。
  • Q 貧困を考えるとき、貧困の原因として明確な障害が確定できる際の解決策は(柴野)
  • A 問題に注意を向けるということ。具体的な解決策として「物乞い向けプログラム」をやったことがある。ある物乞いは元シェフで障害者となって職を失った。その人に物売りを提案したが、歩けないという問題があった。ならばということで、歩けないならほかの人が注意を向けられる場所を探した。その物乞いは再び食べ物をつくって売るようになった。
  • Q ユヌスさんのストレス解消法と趣味を教えてください(小林洋司)
  • A 自分が楽しめることをしてれば、ストレスはたまらない。仕事も趣味も同じだから、休暇を取っても同じことをしている。画家の仕事は絵を描くことだが、画家に休みのとき何をするか聞けば、たぶん「絵を描く」というだろう。
  • Q 新しいビジネスで成功をおさめられたが、資本主義であるかぎり利益を追い求める人はなくならない。そして格差もなくならないと思う。貧困をなくすためには資本主義でも社会主義でもない新しい「○○主義」が必要だと思う。なにかないでしょうか(富士)
  • A あなたたちに考えて欲しい。資本主義の中でもソーシャルビジネスのチャンスはある。利益の創出に目がいきがちだが、ソーシャルビジネスに注目が集まると違ってくる。資本主義か○○主義かという二者択一ではない。利益追求のみが幸福ではない。人の生活を改善することも幸福であり、金もうけよりも意味がある。ただやったことがないだけなので、やってみるよう勧誘しよう。お金は単なる手段であり、これを使って社会を変えることが最終的な目的である。代替的なよりよいシステムをみなさんが作ってくれることを信じています。
  • Q 学生だからこそできること。学生へのメッセージをお願いします(中村)
  • A 学生のメリットは自由であること。なんでもできるということだ。心が自由な状況にあるので、自身の考えを徹底して追求できる。だから、何をやりたいのかを考えないといけない。どういった世界が望ましいのかを考える。これらを確定できれば、そしてそれが世界の理想にとって合致できれば行動する。(自分の幸福)を追求してください。他の意見に従うのではなく、自分の意見で歩んでいってください。

ESD実践の草分けとしての賀川豊彦 阿部志郎

 阿部志郎氏のスピーチ

 1995年1月17日午前5時40分、この地は激震に見舞われた。6434人が命を失った。この知らせは全世界に伝わった。南カリフォルニア救世軍はすぐに救援隊を組織して空港に集まった。日本政府から受け入れの準備ができないといわれ、一晩空港で夜明かししている。スイスの救助犬は狂犬病の注射を受けていないという理由でしばらく留め置かれた。しかし村山総理がこの地に来たときには彼らの活動はすでになされていた。どこからともなくボランティアが集まってきた。神戸大学の学生救援隊もあった。賀川豊彦の息子も孫も寝袋と大工道具とガスボンベを担いで賀川記念館に駆けつけた。澎湃として140万人のボランティアがこの地に来た。想像することも出来ない画期的なことだった。それを見た政府はそれまでばらばらだったボランティアの施策を18の省庁が集まってボランティア協議会を設置し、いまも機能している。
 私は神戸の中山手に子どもの施設があってそこの消息を得るのに30時間かかり、やっと職員の一人がなくなったが、子どもたちは全員無事という消息を得た。困っているのは医療機関、薬局がなくなって子どもの薬がないという。下痢を起こし風邪をひいて夜泣きをする薬が欲しい。何を持っていこうか聞くと「水とトイレ」といわれ、だいたい察しが付いた。病院で薬を6キロ調合して貰った。旅行社に頼んで神戸に入るルートと止まれる宿を調べてもらった。答えがあった。天保山から船が出るが6時間待ちで行列をしている。止まれるホテルはポートピアホテル。ただし、水がない。料理は出来ない。素泊まりならと。ただ行く道は確保されていない。私はやむなく三田から神戸にそして施設に向かった。すでにたくさんのボランティアが働いていた。たまたま知っていた横浜の建築学の教授と建築技師が耐震の診断に来てくれていた。救援物資が山 積みになっていた。中に厚生省が送った赤ちゃんの離乳食があるのを見て、行き届いていると思ったが、一方でそれぐらい当たり前とも思った。その2週間後に妻が緊急車両に乗せてもらった神戸に入った。その施設は妻の祖父が119年前に始めた孤児院だった。妻の反応は違った。戦争で空襲を受けて全焼し防空壕で子どもたちと一緒に住んだ。食べ物がない。配給は子どもたちがいるのに一世帯分しかくれない。孤児は戦争遂行にとってお荷物だったからだ。これを救ってくれたのは出入りの商店だった。毎日差し入れをしてくれた。
 今度の震災でも最初に駆けつけたのは地域の商店だった。むかしの子どもたちが駆けつけてくれた。たくさんの救援品とボランティアに取り巻かれている。妻は隔世の感を感じたようだった。
 災害で一番大きな被害を受けたのが長田区だった。長田区で救助された4人に3人は市役所でなく消防でなく警察でなかった。近隣の人によってだった。隣の人が倒れた家屋から助け出した。助け助けられる。愛し愛される。サービスは一方的である。長田区の人たちは在日韓国人の老人ホームの人々を受け入れた。どこにいっても嫌な顔をされる老人ホームの人を長田区の人たちは温かく迎えた。
 140万人のボランティアの人々は今どうしているのだろうか。この地で経験をした助け助けられるをどのように今の生活に生かしているのか知るよしもない。災害を救援し、待ちを復興させる。しかし、行政は神戸市役所がぺちゃんこになったように大きな被害を受けている、職員も被害を受けているという状況で、貝原兵庫県知事、笹山神戸市長、民間を代表して飯野神戸大学長、コープこうべの高村会長、さきほど挨拶があった今井さんの3人が行政とチームを組んで救援と復興の計画に取り組んだ。それを神戸大学、コープ、YMCA、ロータリークラブその他がサポートした。ここに官と民の協力を超えた公共の「公」の世界が生まれ、新しい動きが起きたことに感銘を受けた。
 このことは賀川豊彦の行った事業を想起させる。それより73年前、1922年9月1日午前11時58分。上下動の激しい自信が東京を襲った。9万9000人が犠牲になった。46万5000戸が焼失した。この知らせを賀川豊彦が受けたのが翌9月2日、神戸だった。知ったのは新聞だった。まだテレビがなく情報が遅かったが、賀川はすぐに反応した。材木と数名の青年を伴って山城丸に乗って9月3日に東京に着いた。
 東京をつぶさに調べた。人々が何を必要としているか、今でいうニーズを調査した。神戸に戻って9月7日から募金活動を始めた。ハル夫人は子どもを背負って街頭に立った。この募金によって食料、衣服、寝具を伴って再び東京に行った。本所駒形にいくつかのテントを張って焚きだしをした。食料と衣料の配給もした。入浴サービスもした。神戸では水がなく2週間も風呂に入れなかった経験があるが、賀川はそれを東京でやった。保育をし、学校に代わって子どもたちの勉強をみた。児童クラブ、医療、健康、法律相談も始めた。いわゆるセツルメントという事業を始めた。産業青年会というセツルメントだった。ユヌスさんの発想に近いと思うが、困っている人たちにお金を貸そうとして質屋をつくった。そして江東消費組合を組織し、さらに医療購買組合、これが病院へと発展する。こうした事業が今日、中ノ郷質用組合や賀川記念館、東駒形教会、雲柱社など8つの施設として息づいている。賀川の災害に対する対応は実にすばやく機敏だった。ボランティアという言葉のない時代に組織化しネットワーク化した。さらに東京市社会局などと協力して不良住宅を調査して報告した。山本権兵衛内閣に請願書を出している。それは「復興をした東京で公娼を認めるな」と。つまり売春だ。「東京市民に問う」という文書も発表した。「復興には精神的向上を欠かすことが出来ない」ということを主張した。
 こうした賀川の活動を思い、阪神の災害を思うとき、災害の救援にはいくつかの段階がある。まずレスキュー。倒れている人、埋もれている人を救い出す。そして、レリーフ。衣食住を確保しなければならない。このときライフラインという言葉が生まれた。
 普通の災害救助はここで終わるが、賀川はリハビリ、住居、医療、福祉、教育を元の状況に戻そうという努力をした。リコンストラクション、復興の働きが生まれるのだ。1923年、すでに賀川が展開したのは。レスキュー、レリーフ、リハビリ、リコンストラクションへと結び付け発展させることをしている。
 このリハビリとリコンストラクションという発展がなければ、持続可能な開発、復興がでいない。リリーフに終わらず、それが復興、町づくりへと結び付いたところに持続可能な社会があるという新しい希望をもって生みだされる。
 いかにして可能にしたのか。今回の神戸の震災で一番心にひびくのは神戸市民がいたずらに行政に依存しなかった。自分の足で立ち、自ら汗を流して生活を取り戻そうとした。自律的で連帯的な市民がそこにあった。
 これは市民の成長であり、市民社会形成の芽生えがみられるのである。それに行政がサポートし市民の生活の維持に努めたことは関東大震災にはみられない行政の格段の充実である。さらに全国からボランティアが駆けつけた。140万人。テレビをみて居ても立ってもいられない気持ちでこの地にやってきた。それを支える広い援助があった。関東大震災では太平洋上の軍艦がすぐに救援に参加、食料を供給した。ニューヨークでは次の日曜日に工場が稼働した。その収益を義捐金として東京に送ってきた。ロックフェラーは復興のためいくつかの公共施設を寄贈している。こうした背後からの支えがあった。
 阪神地震には1900億円という義捐金が集まった。互しゅう性、レシプロシティーという。結婚式の引き出物がお返し主義、互しゅうである。欧米では結婚式にお金を包む人はいない。葬式もそうだ。しかしわれわれは新しくなった社会でまだ互しゅう性を維持している。青森からリンゴを積んだトラックがやってきた。4年前に台風で被害を受けて義捐金が集まった。そのお返しだった。北海道では共同募金の募金額の3倍のお金が集められ送ってきた。奥尻の災害の救援に対する感謝の意だった。互しゅうはアジアの特色。互しゅうで成り立っているといってもいい。今度の災害でも生きていた。
 互しゅうはペイバック。当事者に返すものだが、そのお返しを第三者に協力する方向に持っていくのが課題。140万はその大きな表れと言っていい。こうした要素が重なって持続可能な開発に導かれていくと思う。賀川豊彦は災害に対して弱さを持つ人々に最大の配慮をした。阪神の災害でいくつかの問題を残している。神戸の町は復興したが、本当に復興したのか。残された問題はないのか。災害に対する問題はプラス面とマイナス面とあるはず。それを発信をしている責任が世界に対してある。福祉の立場からいえば、大地震で親を失った子供が556人いる。子どもの危機である。県内外の施設に入ったのはわずか。子どもたちはどこにいったのか。さっするに親族網が受け入れたのだと思う。家族崩壊がいわれているが、親族網が機能したといえまいか。追跡調査をしたとは聞いていない。ぜひやってほしい。
 傷害を受けて、心の傷を受けた人のアフターケアも心配。もう一つは孤独死仮設住宅での孤独死はクローズアップされた。568人が孤独死したという報告を聞いている。それは社会的な孤立でもある。これは社会の責任である。こうした問題にソーシャルワークはどんな働きをしなければならないのか。考えなければならない。賀川豊彦の友人に有馬四郎助という人がいた。関東大震災で小菅刑務所の所長をしていた。1200人の受刑者は食堂に集まって、昼のカレーライスを食べる号令を待っている時に、震災にあい、庭に逃げ出した。建物も刑務所を取り囲む3メートルの塀も崩れた。逃げる絶好のチャンス。みんな逃げようとしているときどこからともなく声がした。「有馬の顔をつぶすな」。お互い声をかけあって逃げなかった。みんながこん棒などをもって「怪しいやつはいれるな」と刑務所を守った。普通、受刑者は番号で呼ばれるが、有馬は固有名詞にさんをつけて呼んだそうだ。
 阿部さん、ハイ。
 逃げたらそんな所長に迷惑がかかる。とうとう一人も逃亡者をださなかったというエピソードを生んだ。刑務所でひとつのコミュニティーが生まれていたのだった。なぜそのコミュニティーを私たちはつくれないのだろうか。賀川豊彦、ユヌスさんはこのコミュニティーの形成を目指しているに違いない。このコミュニティーの形成こそが持続可能な社会を築く基礎的理念なのではないだろうか。私たちはどのようなコミュニティーをつくるかを問われている。(完)

挨拶

 野上神戸大学学長

 ESDは聞き慣れない言葉。Education for Sustainable Developmentの頭文字。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の国内委員会の新しい委員たちがそもそもESDとは何か聞かれた。ESDの具体的な中身はそれぞれのテーマで違う。意見交換で違いがあっていい。違いがあった方が未来に向かって違った実践ができるということになった。共通の理解は地球上の人類が連携をしながら未来が安全で平和であるよう一緒に考えていくための教育をするということだった。
 とりわけ大切なのが人と人とのつながりを教育の視点から考えることだ。ESDの下で連携して教育する営み。神戸大学賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会とジョイントして、ノーベル平和賞受賞者のユヌス氏を迎えてシンポジウムが開けることを嬉しく思う。
 ESDは日本が提唱したもの。責任を持って我々が子孫のために努力する営みを続けなければならない。これまで2回シンポジウム開催してきた。前回は国連大学長のファンヒンケル氏、今回はユヌス氏を迎えた。ソーシャルワークとソーシャルビズネスに視点を当てて考えてみようと思う。ソーシャルワーカーの原点である賀川豊彦の実践、阿部志郎氏の実践を中心にシンポジウムを組み立てている。献身100年委員会、文科省などの多大な協力で実現した。神戸の地から未来にむかっての新たな営みが発信できることを祈っている。

 今井鎮雄・賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会神戸プロジェクト実行委員長

 賀川豊彦の名前を若い人たちは覚えていないかもしれない。神戸で生まれ徳島で育ち東京で勉強し、その後神戸に帰って、新川の貧民窟に入った。いまでいう契約社員だとか失業者が住んでいる中で、この人たちと一緒に住むためには生活協同組合をと考え、いまのコープこうべをつくった。貧しい農民のために農民組合をつくった。むかしの新聞に「運動と名のつくものすべては賀川が始めた」と書いてある。当時、アメリカで出版された本に「Tree Trumpets Sound」というのがある。三つのトランペットはマハト・マガンジー、シュバイツアーと賀川。この3人が世界の曲がり角でトランペットを吹いて私たちに新しい社会の指標を与えたというのだ。賀川先生はいろいろなことを考え実践した。亡くなってから先生を記念して賀川記念館を神戸につくった。いま古くなり、立て替え中だ。賀川を追憶するのではなく賀川が考えたことを新しい時代に考え直す仕事をしよう、新しい時代に提案できる場をつくりたいと考えてきた。
 いまムハマド・ユヌス教授を迎えます。教授の始めの仕事はマイクロクレジットといって日銭のない農村の女性に小さなお金を貸すことだった。自分で原料を手に入れて自分でつくって自分で売ることによって暮らしを向上させる。同時にソーシャルビズネスといって、金もうけのためではなく社会のために還元する社会をつくろうと提案している。自分たちのためだけを考える資本主義ではいまの時代もうやっていけない。分かち合うとはどういうことかを実験している。ユヌス教授は経済学者であるとともに実践家でもある。目の前にあることから遠い将来に向けてどういう世界つくるかまで考えている。ソーシャルワークという言葉の中には社会を開発していくという意味を含んでいる。これこそ賀川が望んだことだと考えた。
 嬉しいことに神戸大学がこの「限りない前進」を考えていた。賀川記念館から発信しなければならないことと一緒だ。めずらしい組み合わせだ。大学とわれわれ、そしてユヌス教授である。先人達がどれほど苦労しながら、どういうふうに世界を切り開いてきたかというを考え、そのことを私たちが身をもって追って事実を考えていく、その役割の決心をすることのこの会である。記念館は12月に完成する。賀川が新川に入ったのは21歳のとき。それから100年。兵庫県知事も神戸市長も神戸から新しいことを発信することを一緒にやろうといってくれている。
 今日を出発点に新しい時代を切り開いていくその夢をみんなで一緒に考えることができることを感謝したい。