東京医療利用組合の先駆的役割

 『賀川豊彦全集9巻』は賀川の協同組合論の理論的文献を網羅している。賀川イズムの理解のための必須の資料であると考えている。添付の冊子に黒川泰一が「物心両面の支え」という興味深い文章を書いている。
 「先生の事業は、いづれの方面でも他人が手をつけない、先駆的であり、開拓者的なものばかりであるが、協同組合運動もその例外ではなかった。消費組合然り、質庫信用組合然り、医療組合、保険(共済)協同組合等々みなそうである。そしてこれらは日本のみならず、国際的関係を含めての協同組合運動に大きな影響を与えているものであるが、残念なことには、既刊の賀川先生の伝記には、その記録も評価も不充分であり、軽く扱われていることである」
 筆者もずっとそのことを考えてきた。誰もやらないことをやってきたのが賀川豊彦である。今ある信用組合が何のためにあるのか考えた人はいない。銀行になれない地方の金融機関だと考えているのだとしたら大間違いであろう。生協にしてもJA厚生連にしても社会的に大いに役立っているにもかかわらず、単なるスーパーや病院であるとしか位置付けられていないのは非常に不満である。
 一年ほど前に生活協同組合法が全面的に改正された。特徴的なのは会計基準である。法人企業並みの厳しい基準が導入された。現在の霞ヶ関は基本的に「性悪説」に基づいての本を統治しようとしている。「疑う」こと協同組合の精神に反することなのである。にもかかわらず霞ヶ関に疑われるということは現実に「疑われる」ような経営をしている協同組合が多いからであろう。現存する協同組合的組織が限りなく普通の株式会社や医療法人と同列に扱われるのは何ともなさけないではないか。
 一方で、黒川氏がいみじくも述べているように賀川よ多くの先駆的事業の役割が「既存の賀川伝」に書かれていないということは多くの後継者たちに賀川の「聖者」としての畏敬の念はあっても社会事業家としてのパイオニアであったという認識に欠けているといわざるを得ない。
 東京医療利用組合(現在の中野総合病院)は1932年に認可された世界的にも特異な法人である。協同組合が病院経営までするとは賀川以外に考えなかった。それまでも産業組合に医療部を設けて細々と医療行為が行われていたが、賀川は大恐慌以降の疲弊した日本の農村部にこそ組合医療が必要だと考えたが、世間に訴えるには「目立つところ」で始めなければならないという考えだった。あえて東京での認可を求めた。
 好都合なことに医師会が大反対した。メディアで組合医療の是非論が掲載されることは多分、賀川にとって計算済みのことだったに違いない。おかげで認可が出るまでに1年以上がかかり、秋田県での産業組合に先を越されることとなったが、東京で認可されると組合医療は「燎原の火のごとく」列島に広まった。
 現在、全国に100カ所前後あるJA厚生連の多くの病院は、賀川が火をつけた結果誕生した農民たちのための組合病院に源を発するのだ(伴 武澄)

ジュネーブ講演が火を付けた賀川ブーム

 Think Kagawaの読者は1936年のロチェスター大学で賀川豊彦が行った「Brotherhood Economics」と題した講演が英文で出版され、欧米を中心にセンセーションを巻き起こしたことはご存じのことだと思う。賀川はその後、ヨーロッパに渡り同年8月6日ジュネーブ大学講堂の演壇に立った。米沢和一郎氏が明治学院大学キリスト教研究所から出した『賀川豊彦の海外資料2』からその様子を書き写したい。

                                                                                                                      • -

 新渡戸稲造が1926年講演したジュネーブ大学講堂の同じ演壇に、賀川は10年後の1936年8月6日に立った。ジュネーブ市庁の下に広がるバスチヨン公園にあるジュネーブ大学講堂の真正面には、公園をはさんで対極に宗教改革記念碑がある。その(カルバン)宗教改革記念400年祭の記念行事として開催されたジュネーブ大学エキュメニズムセミナー講演のためであった。このエキュメニズムセミナーは、その後欧州のオランダ、イタリア、バチカンローマ法王を元首としていたアンゴラでの出版や、シンポジウムがなされている。そうした派生展開から要請を受け、賀川がToppingを派遣したのは1937年のことである。話を賀川講演に戻すと、のちにWCCのトップとなるオランダ人のヴィッサー・トッフトをはじめとして、回勅で反ナチズムを鮮明にしていたピウス11世が派遣したバチカン使節も聴衆のなかにいた。本題は、エキュメニズムであったが、なぜか、講演冒頭で時局を投影したような話から入ったと記憶していた人がいた。このセミナーで賀川の英語講演をフランス語に通訳していたアーノルド・モップである。主宰者アドルフ・ケラーに促されて演壇に立った賀川は下記の冒頭の言葉を発したという。
 「凡てのものが成長する。都会が成長し、機械が成長し、資本主義が成長する。だが魂と愛だけが成長しなかった。そこに地球の悩みがあるのではないか。宗教的精神が涸れる時、各民族は痛ましくも流血の中に喘ぐ。その実例を最もよく示したのが欧州の歴史である」

                                                                                                                    • -

 1936年、すでに戦争の暗雲が立ち込めていた欧州で、賀川は再び「Brotherhood Economics」を説いたのである。戦争を避けるために、共に生きるための協同組合精神を訴えたことが、欧州の人々の心に響き、各国での翻訳出版が相次いだほか、各地でシンポジウムが開催され、賀川の代理としてヘレン・タッピングが派遣されたということである。賀川ブームが欧州を席巻したといえばいいすぎか。(伴武澄)

ロッチェスターの戦争 『世界を私の家にして』から

「ロッチェスターの戦争」といふ初号の見出しを、保守派の宗教新聞がつけている位、故ラウゼンブッシュ教授の記念講演は、私が同市に行く前からセンセーションを起こしていた。
 あまり人の批評を気にしない私も、、学校が学校だけに、先方に対して気の毒だと思った。ロッチェスターには全米商工会議所会頭が住んでいるといふ理由もあったが、超綱領派のノリスは、私が8回講演すると聞いて、私を8回攻撃すると新聞に発表した。それより先、市の公会堂を私のためには貸すなと市長に講義した団体があった。それは、市在郷軍人会で、それに愛国的婦人団体も参加していた。愛国団体は私の平和主義が米国の軍備を虚弱ならしめ、私の協同組合主義が、米国を破壊するから不可だと主張した。新聞紙はこれを面白がって書き立てる。ロッチェスター神学校は全責任をもって、私が決して危険人物で無いことを証明しようとしても、保守派の牧師達はきかない。論議につぐ論議毎日新聞紙上にのり、遂に新聞社の社説までが、私の思想傾向を論説に書くやうになり、「自由思想を許して来たロッチェスターはカガワの説を先ず聞き、しかして後に彼に反対すべし」と正論を吐いた。この論説などが利いたと見えて、市は在郷軍人団の要求を退けて、私に公会堂を開放してくれた。
 ところがその夜、私の反対者フランク・ノリス氏は他の大講堂を借りて、「カガワ論」を大いにやったさうである。面白いもので、あまり無茶な攻撃をするので、聴衆が怒り出し、ノリス氏に質問演説を始める人間が現はれ、会場が混乱したので、ノリス氏は巡査を呼んで、質問者を捕縛すると怒号したとのことであった。殊に同市にある独逸神学校の学生及び教授が、ノリス氏の狭量と独断に反対したので、翌日よりは独逸神学校の学生を監視する者をつけたとの事であった。
 私は保守派に対して何等批評を加へず、私の信ずるキリスト教的社会改造論を主張したので、三夜の連続講演を、静粛に大衆がきいてくれたのは嬉しかった。
 かうして三日間の激動の後に、同市の新聞の社説や投書は、ノリス氏を反駁する記事で満たされていた。
 ある投書の如きは「何人がノリス氏に会場を貸したか、市民の公安を害したのは彼であった」と書いていた。で、私の無抵抗主義が或種の効果を納め得たことを私は喜んだ。
 然し納まらないのはノリス氏である。最後の晩に、彼は「カガワを送還するめに、諸君はワシントン政府に電報を打て」と叫び、更に「これより私は、シカゴに行き、カガワ反対の大道団結を作り、彼の仮面を剥いでやる」と断言したさうである。
 実際、その後、私に反対するパンフレット及びリフレットが全国で発行せられ、私も数種土産として日本に持って帰ったが、これだけ反対せられた米国訪問客も少ないであろうと私は思った。
 ところが反対が加はれば加はるほど、米国人は私の演説会に雲集して来た。それで私を慰める人々はこんなことを言うた。「カガワ、米国人は賛成する前に一度、反対してみて、どれ位忍久力があるか試す癖があるから、君、反対せられても悪く思ひ給ふな」と。米国人の心理が何処にあるか、かうなるとよくわかる。

『乳と蜜の流るゝ郷』がJAを知る好著と評判

 9月復刻されたばかりの賀川豊彦著『乳と蜜の流るゝ郷』(家の光協会)が農協(JA)関係者の間で注目されている。特に小説の舞台となった福島県のJAでは「協同組合の本来のあり方を易しく教えてくれる格好の教材」との評価が高まり、総代会で組合員に配布する考えが浮上しているそうだ。
 JA関係者によると「最近ではJAが何のためにあるのか教える人もいない。暮らしと営農のためにあるのに経営ばかりが叫ばれて本末転倒している」という。

 賀川豊彦全集の編集を担当したキリスト新聞社の武藤富男氏は『乳と蜜の流るゝ郷』について、次のように書いている。

 この書は昭和10年11月6日、東京の改造社から発行された。この年2月から7月まで、賀川はオーストラリアに講演旅行をなし、12月には中山昌樹とともに、アメリカ・キリスト教連盟及びアメリカ政府の要請により渡米し、主として協同組合運動について指導したのであった。本書は「家の光」に昭和9年1月号から同10年12月号に至るまで24回に亙って連載されたものをまとめたものである。協同組合運動と立体農業とを鼓吹することにおいて、本書は『幻の兵車』以上の迫力を持っており、筋の運びも変幻自在で、賀川の想像力がもっとも自由奔放に駆けまわり、目まぐるしいばかりである。47歳の時において、賀川のロマンティシズムはその絶頂に達したといいうるであろう。

 小説のあらすじを読みたい方はここ。

 福島県会津の寒村に育った青年田中東助は、繭の安値と旱魃のために、一家の生活の立たないのを見て、信州上田に養子に行っている兄彦吉を頼って行く。汽車賃がないので何日もかかって歩いて行くが、山小屋に泊めてもらって、仙人から木の実の食べ方、その効用を聞かされる。

 上田の彦吉の家は魚屋兼料亭であり、東助はここで働くことになったが、出入りする春駒という芸者に惚れられる。春駒をかかえている芸妓屋、鶴屋の女将おたけは春駒を養女にして東助をめあわせて後をゆずりたいというが、東助は福島県の村を救いたいからと云って応じない。彼は兄の店のため魚の行商をしながら、浦里村の信用販売利用購買組合に出入りするようになり、農村経営の仕方を学ぶ。東助はこの組合に鮮魚部を設けて、そこに雇われて働くこととなった。

 彦吉は東助を鶴屋の養子にしようとしてすすめるが、東助がきかないので彼に乱暴する。東助は春駒にとりなされて鶴屋に連れて行かれ、女将に会う。女将は東助の話を聞き、産業組合運動に賛成し、そのため自家の身代を全部投げ出そうと申し出る。東助は夜おそく鶴屋を辞し、浦里村に向かうが、途中で春駒が悪人たちに誘拐され、東助は警察に留置される。(続きはここ

医療で町を元気に 駅に診療所、にぎわう商店 【朝日新聞】

 長野県の佐久病院はJA長野厚生連の協同組合病院だ。戦後まもなく若月俊一先生が赴任して、地域の人々の中に入って医療を立ち上げた。10年以上も前から親しくしていただいている色平哲郎さんは若月先生にあこがれて佐久にやってきて最近まで南相木村の診療所を守ってきた。色平さんのホームページに佐久病院の「経済効果」について書いている朝日新聞の記事が転載されていた。興味深いのでThink Kagawaにも再転載させてもらった。(伴武澄)

                                                                                                                                                    • -

医療で町を元気に 駅に診療所、にぎわう商店 長野・佐久総合病院「赤ひげ」、医師集まる  
朝日新聞 「列島けいざい09」 09年3月7日

 不況で地域経済が痛むなか、医療や福祉分野の経済波及効果が注目されている。長野県では、地域ネットワークを築いてきた佐久総合病院を軸とした「町づくり」が動き出している。 (佐藤章)
 長野県東部、千曲川に沿って走るJR小海線の小海駅。改札口を抜けてすぐ左側の駅舎に「診療所」の入り口。明るい待合室で、お年寄りたちが診察の順番を待っていた。
 JA長野厚生連が運営する佐久総合病院の小海診療所。開設された00年当時、駅舎内の有床診療所は珍しかった。
 「医者に診てもらい、食事して買い物して電車で帰る人がたくさんいた」。診療所に隣接するレストラン店長の新津次男さんは言う。駅前の商店街では改装する店舗が相次いだ。「診療所がなくなったら、駅前はさびれてしまう」
 周辺町村には、この駅舎内をはじめ診療所が六つある。中心となるのが、佐久総合病院小海分院だ。分院から6診療所に医師が派遣され、24時間救急往診体制を敷く。小海分院を核とした「医療ネットワーク」だ。
 ネットワークが地域に及ぼすのは、いつでも医療サービスが受けられるという「安心」だけではない。街のにぎわいを取り戻し、雇用を増やすという経済的効果もある。
 佐久総合病院の職員数は医師を含め約1800人。本院、小海分院、老人保健施設などを合わせ約1200のベッド数を抱えるが、本院が手狭になり、「地域医療センター」(300床)を残し、佐久市中心部に高度医療を担う「基幹医療センター」(450床)を設ける。2、3年後にオープンする計画だ。平尾勇・長野経済研究所理事らが、移転に伴う経済効果をはじいた。新築などで誘発される雇用は2360人、職員や患者、見舞客らの消費が増えることによる「雇用誘発効果」は3年間で6300人という結果だった。
 JA長野厚生連の盛岡正博専務理事は「医療による地域経済活性化」を掲げる。協力を打診された小池民夫・小海町長も「医療を中心に町おこしをやる」と応じる。4月から、町と病院、町観光協会などで検討委員会をつくり、具体的な観光政策を話し合う。小池町長は「分院の人間ドック利用者に、民宿や町営温泉施設を使ってもらう方策を検討してはどうか」と話す。
 08年度の厚生労働白書も、医療・介護など社会保障分野の経済効果は、公共事業より高いと説く。医師でもある盛岡氏は「どの町にも、お年寄りや、医療サービスを必要とする人はいる。病院を中心に町づくりをすれば、公共事業に頼らなくても、どこでも発展できるはずだ」と語る。

「赤ひげ」、医師集まる

 だが、すべての病院が地域の「核」になれるわけではない。厚労省によると、90年に1万を超えた病院は07年には約8900に減った。主な原因は医師不足だが、佐久総合病院は人材に恵まれてきた。
 同病院勤務が19年目となる由井和也・小海分院診療部長は「私は医療に恵まれない地域で頑張ってみたかった。この病院には、そういう医師が多い」と語る。09年度の初期研修医を15人募集したところ、37人の応募があった。定員割れを起こす病院も多いなか、高い人気を保っている。
 佐久総合病院は、「農民とともに」を掲げた故若月俊一・元院長の徹底した地域密着医療で知られる。住民に尽くす「赤ひげ」的イメージが医師の卵たちをひきつけてきた。
 盛岡氏は「志のある医師が集まると患者が集まる」と言う。佐久市だけでなく、県外からも患者が来る。新たな「基幹医療センター」が必要になったのはこのためだ。
 もちろんイメージだけではうまくいかない。盛岡氏は「殉教者的な医療ではなく、医師が普通の生活で、よい医療を提供する方が大事だ。それを可能にするのはしっかりした経営だ」と言う。
 盛岡氏は、医療法人徳洲会で病院建設に携わり、経営手腕で知られた。医事評論家の川上武氏によると、徳田虎雄理事長に次ぐ「実質的なナンバー2」。病院の経済効果に気が付いたのも82年、埼玉県羽生市徳洲会グループの病院院長をしている時だった。若者が首都圏から地元に戻り、病院に勤めるようになった。病院の周辺には商店が増えた。
 「病院を建てると、地域経済に力を呼び戻すことができると気がついた」
 95年、若月氏に招かれた後、早朝から経営勉強会を開き、全職員の年度末手当の一部を積み立てた。土地取得や新築費用に困らなかったのはそのためだ。「いい医療を提供する病院は暮らしを支え、地域経済の核になりうる。そういう意識を、医師も職員も共有しなければならない」と盛岡氏は話している。

賀川豊彦の経済観と協同組合構想 松野尾 裕(愛媛大学)

賀川豊彦の経済観と協同組合構想 松野尾 裕(愛媛大学

アマーティア・センの次の一文を読むことから議論を始めよう。「たしかに,私たちが生きるこの恐るべき世界は−少なくとも表面上は−あまねく全能の慈悲心の支配が及んでいる世界のようには見えない。(神の)情け深い世界秩序が,どのようにして苛酷な悲惨,執拗な飢え,欠乏と絶望の暮らしに苦しむこれほど多くの人を含み得るのか。…もちろんこれは新しい問題ではない。神学者たちはこのテーマを論議してきた。神は人間が問題に自分で対処することを望んでいるのだ,という主張は知的にもかなり支持されてきた。私は宗教を持たない人間として,この論争の神学的価値を評価する立場にない。しかし,人間には生きる世界を自分たちで発展させ,変える責任があるのだという主張の持つ力を認めることはできる」(セン2000; 325頁)。全能の神がつくった世界になぜ不幸や悪や苦難があるのかという問いは,神学者の金子啓一によれば,「神はどこにいるか」(神義論的問い)と「人間はどこにいるか」(罪責問題的問い)という二つの問いからなる(金子1995; 332頁)。第二次世界大戦後のキリスト教神学は,戦時下あるいはそれ以前のキリスト教のあり方への反省に立って様々な課題を開拓した。それは第二バチカン公会議(1962~65年)を機に始まったカトリックの解放の神学のめざましい成長もあり,フィリピンや韓国などのアジアの神学運動や,フェミニズム神学,障害者神学,反差別神学などエキュメニカルに(教派・教会を超えて)多様な展開をみせている。
 続きは下記サイトで。
http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/shet/conference/72nd/72paper/18matsunoo96.pdf

賀川豊彦の協同組合思想と日韓現代社会ーBrotherhood Economics の可能性

賀川豊彦の協同組合思想と日韓現代社会ーBrotherhood Economics の可能性」 濱田陽・李珦淑


一 賀川協同組合思想の現代的意義

 この度、賀川豊彦のBrotherhood Economicsが日本に先駆けて韓国で翻訳・出版された。協同組合システムの理念を根源的に問い、平和的発展可能な社会を構築しようとする賀川の思想が、金融危機の真只中にある現代に紹介されることは、きわめて意義深い。しかも、それが、隣国である韓国でなされたことは、十分に注目してよい。(以下略)

二 韓国語版にみる賀川豊彦への関心

三 Brotherhood Economics の可能性

 (以上略)

 つまるところ、筆者が望むのは、Brotherhood Economicsを完成された理論と見るのではなく、一つのたたき台として吟味し、批判し、その可能性を引き出すことである。これは、そのような講演であり、著作である。

 今日なお、賀川の協同組合の思想が、十分に実験され、乗り越えられているとはいいがたい。現代の日本社会において、一般市民が、協同組合の理念とシステムに深い倫理的価値づけを想起することはほとんどない。各種協同組合間の本格的な相互連携も今後の課題とされている。生協に限ってみても、二〇〇七年に法改正がなされはしたが、都道府県を越えた広域事業連携や組合員外の利用においてなお課題を残しているといわれる。

 日本社会は、賀川の没後、さらなる経済成長と情報革命を経験した。今日では企業の社会的責任が問われ、市場の機能を貧しい人々にも役立てる仕組みをつくり出そうとする創造的資本主義(ビル・ゲイツ)のような主張も登場している。このような時代に協同組合と社会の関係を見つめ直すためには、個別の組織論にとどまらない、広い視野に立った抜本的研究が必要である。 

 賀川には、広い視野があった。筆者は、自由や平等など二〜三の価値に限定せず、生命からはじめ、労力、交換の自由、成長、良き選択、法秩序、良き目的の七種の価値を分ちがたく結びついたものととらえた賀川の発想、これらの価値にそれぞれ互助の社会システムを対応させた構想力、しかも七種の価値の源泉を宗教的倫理の知恵から説き及ぼうとした胆力を興味深く思う。このような賀川の試みは、協同組合のみならず、一般企業や各種NGOに関わる人々にとっても大いに参考になるのではないだろうか。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 人間は、純粋な理念やシステムだけでは満足することができない。そこに文化や宗教による意味づけが求められる余地が生じる。文化や宗教の根をもつときに、理念やシステムは、その時々の現実社会が求める要請に応答しやすい、血の通ったものとなる。

 なぜ、協同組合なのか。それは協同組合が生命にはじまる尊い価値を社会のなかでより良く保障できるからだ。どこから、その価値が来るのか。人間が、史上、受け継いできた尊い知恵から来る。このように賀川は考えていたのだろう。