ボクハマッテル 北村徳太郎

 大正の末期、『死線を越えて』が全日本を動かしている頃、佐世保の教会は賀川先生を招いて伝道集会を開きました。私はその宣伝に工夫をこらし、大型の厚いダンボール紙を買ってきて、これに活字体で「賀川豊彦聖書講演会」と切り抜いて原版を作り、群青の絵具で手工印刷し、ポスター、立看板を作りました。佐世保に着いた賀川先生は、夏の暑い時、青い色彩で、くっきりと印刷された「賀川豊彦聖書講演会」という単純な表示を見て大へん喜び、その製作方法を私に尋ねましたので、私がこれを説明すると、原版のボール紙を欲しいと言いましたので、これを進呈しました。
 講演会には佐世保の芸者が多ぜい出席しました。それは『死線を越えて』の中に、新見栄一が芸者の子だと書いてあるからでした。講演の中で、賀川先生は自分の生い立ちを告白したので、芸者たちは涙を流し、決心カードに記名したのでした。
 先生は佐世保を訪れる度毎に、私の宅に泊まって下さいました。夕食がすむと先生は、お膳を両手にもって台所まで運ぶのが常でした。家内や女中が、そんなことをなさらないように、と申すと、先生は「いや私は、こうすることにしております」と言いますので、いつも先生のするがままにしました。朝起きても、寝床は必ず自分でたたみました。
 或る時、集会がすんで私の宅に帰る途中、先生は全精力を傾けて大講演をしたため疲れ切って、私の肩につかまったまま歩きました。相生町というソバ屋の前まで来ると、先生は
「きたむらん、うどん食おうか」
と言いました。北村はんというところを先生は「きたむらん」と呼ぶのが常でした。
 私はソバ屋に入り、注文しましたが、先生は「わしゃケツネや」と言いました。これは「きつねうどん」の意味です。
 私が経営の責任をもつ親和銀行は、賀川先生の口ききで信者を採用して、支配人格として用いました。この人は能力はありましたが、婦人関係で、まちがったことをしていましたので、問題がありました。先生はこのことを知るや、「キミ、イエスニカエレ、ボクハマッテイル」という電報をこの人に打ってよこしました。しかしこの人は先生のことばに従いませんでした。すると先生は重ねて「キミハヤクカエレ」と打電しました。こうして時をおいて5回も電報を打ってきました。その人はついに婦人関係を清算し、もとの生活に戻りました。(衆議院議員 北村徳太郎=『百三人の賀川伝』から転載)