1909年クリスマスイブ 牧野仲造

 明治42年(1909)のクリスマスイブに、21歳の賀川先生が荷車に身の回り品を積み、引っ越していったところは、その50年前に屠殺場だった賤民部落でした。ここに住んでいるのは病人、身体障害者寡婦、老衰者、破産者といった落伍者でした。

 家賃は1カ月5銭、薪1把2銭、木炭1山2銭、1畳間に夫婦2組で同居し4畳半に11人家族が住んでいることもありました。1戸当たり平均4・2人がすんでいました。職業は仲仕、土方、手伝人夫、日雇人夫、ラオすげかえ、下駄直し、飴売、団子売、辻占、屑屋、乞食などで、児童の通学者は100人の中3人、新聞購読者は1人もなく、婦人でハガキの書ける者はありませんでした。
 そこは暴力の街で、腕力の強い者が兄貴になり、最強者が親分でした。傷害罪を犯したことが自慢の種となり、殺人罪の前科は親分の資格になるというわけでしたから、弱いものだけが苦しみつつ働いているのでした。
 賀川先生は幽霊屋敷に設けられた救霊団(神戸イエス団の前身)を根拠として、晴雨に拘らず毎夜路傍に立って、こうした人々に伝道しました。先生は「わたしが来たのは善人を招くためにではなく罪人を招くためである」(マタイ伝9の12)というみことばをこれらの人々に実行し、神による人間の再生を行おうとしたのです。鬼の婆さん、無頼漢の杉本、ヤソの豆腐屋、軽焼の新造、豊年屋のお作、猫の婆さんなどはこの時先生によって霊的に救われた人たちです。
 先生は教会内にイエス団友愛診療所を設立し、無料診療を始めました。最初の医師は馬島?氏でした。馬島氏が外遊した後は於保泰造氏が担当しました。馬島ヒサ姉と賀川先生の義妹本多歌子姉が奉仕して病人を親切に看護しました。ここで治療を受け、いやされた病人は数知れません。
 貧民窟に設けた施設は、天国食堂、青年男女のための夜学校、授産場、大正歯刷子製造所、林間学校(杉山健一郎兄担当)などです。春子夫人を中心に訪問看護が行われ、歳末には正月餅の配給がなされ、古着市が開かれました、もらい子殺しを職業とする者から、乳児を引き取って、涙を分かつ悲しみを歌ったものが『涙の二等分』という詩であり、今なお涙なしに読み返すことができません。
 神戸イエス団における日曜礼拝は、午前5時に始まり、6時に終わりました。礼拝がすむと一同で賛美歌を歌いつつ街を歩き、午前9時から日曜学校が始まりました。礼拝出席者は誰でも朝食をいただくことができました。賀川夫人の母芝ムラ姉が未知の人をも差別なく親切に迎えて、朝食を準備してくださるのでした、
 当時、私は賀川先生のもとに書生となり、2年余の感お世話になりましたのでこのことをよく覚えているのです。賀川先生の贖罪愛にふれることにより多くの人々がキリストへの信仰に導かれました。或るゴロツキが改心してキリストに従うようになり、街に立って「善に立ち返れ――オイ!」と号令をかけ、道行く人と自分とに言い聞かせておりました。
 貧民窟の夜学校から賀川春子夫人や武内勝氏(神戸中央職業安定所長、神戸生活協同組合長、神戸協同牛乳会社社長)が生まれたのです。神戸イエス団の友愛診療所には義妹の芝八重姉が永く医師として奉仕していましたが、同姉は現在岡山県邑久郡にある光明園の医師をしています。
 賀川先生はセッツルメント事業だけでなく、関西における労働運動の指導者として活躍しました。先生が開設した大阪労働学校は同志杉山元治郎、村島帰之、西尾末広、久米弘三、高山義三(京都市長)、大矢省三など労働運動の指導者たちを世に送り込みました。井上良一代議士も若い時またここに学んだのでした。
 先生が指導した川崎三菱造船のストライキは惨敗に終わりましたが、先生はこれに屈せず労働組合を中心にして神戸消費組合と大阪共益者(消費組合)を設立し、労働者の互助運動を通してその生活向上を図りました。
 こうしたセッツルメント事業を通じ、先生の教育を受けた人々が中心となって、社会改造運動は進められたのでした。現在、神戸貧民窟は取り除かれましたが、貧民は後をたちません。先生が伝道を開始したゆかりの地にあって、神戸イエス団は今なおその地域の教化と保育のための使命を果たしつつ活躍しております。(牧野仲造、『百三人の賀川伝』から転載)