賀川先生「卓上語録」(2) 田中芳三編

 首相に何故ならなかった?

「先生は終戦後“総理大臣”になると云う人がありましたが、何故なりませんでしたか」
「僕は学者肌の方で、あんな処にじっと坐らせられたらたまらんよ、好きな自然科学の研究でもしている方が余程面白いね。また僕は15歳で受洗した時、“一生伝道者の業をいたします”と神様に約束したのだもの・・・」
紀州粉河の児玉充次郎牧師は一生田舎牧師で終わってしまいましたが、自分が望めば、自分が首相にもなれたでしょうに、尊いことですね」
「児玉さんは明治学院時代から50年以上も知っているが、おの人は首相にはなれないよ、だってあの人は聖人でウソが言えないもの」(私の家で)

 天皇制について
「民主主義の時代に封建主義の遺物の如き天皇制がない方がよいと思いますが、先生が天皇制が必要だとおっしゃるから、そうかなと思ったりします」
「僕は天皇制の必要を言うのに二つの理由がある。(1)経済的=大統領の選挙を何度もやって見よ、莫大な経費がかかる。2600年も続いた天皇制があれば結構じゃないか、外国の使者に会って貰うにも一番都合がよい。(2)日本は天皇制のあるお陰で案外うまく治まっている、今の日本に天皇制を廃止すれば内乱が起こるよ」(1959年1月4日、一麦寮の応接室で)

 キリストの運動
「僕は戦後“新日本建設キリスト運動”を起こし、また“キリスト新聞社”を創った。僕の運動は“キリスト教運動”とか“キリスト教新聞”とかの教えの宗教ではないのだ。人の尻拭きの、キリストの運動なんだ」(私の家で)

 三ベンの旅行
「先生の鞄の中の袋に入っているのは何ですか?」
「僕は腎臓が悪くて小便が近い、終戦後汽車が混んでトイレにも容易に行けないのでベン器を持つようになった。座席も容易にとれないので小さな折りたたみ式のベンチも持っていた。此の他にベン当も持つから、僕の伝道旅行は三ベン旅行だ。パウロの伝道難にもなかった汽車の難があるよ」(私の家で私の家内と)

 いざ最寄の村々に行かん
「君、此処を読んで見給え」と怒気を含んでマルコ伝1章38をお開きになった。“イエス言い給う、いざ最寄りの村々に行かん、我かしこにも教えを述ぶべし”
「僕はね、都市の伝道よりも、共産党の入らぬ前に農村にキリストを入れたいのだ」(和歌山線橋本駅のプラットフォームで)
 そして、その日の午後粉河町から大谷村の夜の伝道に向かう途中、オート三輪の荷物代の蜜柑箱に腰かけて、田舎のデコボコ道でヨロメキながら
「此の前、松山常次郎君の長男望君の選挙運動の時、この道をこのようにして走ったが、今度はキリストの選挙運動だネー」
と子供のように喜ばれた先生(紀ノ川の流域で)

 大きな祈りをせよ

 或る集会の始めに
「賀川先生の健康を守り給え」
と祈った処、先生の大目玉をくらった。
賀川豊彦はどうなってもよい。来る者の足を早め給えと祈らなくても来る人は来る。此の世界の危機に何故もっと大きな真剣な祈りをしてくれないのか。日本の教会の祈祷会は、余りにもお上品で活版刷りの題目を並べているから振るわないのだ。全正解の平和の為にもう少し祈ってくれたまえ」(粉河教会にて)
 序ながら此の先生の祈りが今の大阪クリスチャンセンターの超教派の早天祈祷会と発展し、更に全国にと展がりつつあるが、その第一回を開かせたのは賀川先生であった。

 祈りながらポンプを
「僕は火事の時なら、祈りながらポンプを押すね。口先だけで、きれいな言葉で、いくら祈っても駄目だよ。祈りが行動とならねば駄目だ」

 賀川の伝えたキリスト伝
「先生の“小説キリスト”は寧ろ“賀川伝”とすべきでしょうね。だってマタイの見たキリストはマタイ伝、ヨハネの見たキリストはヨハネ伝なら、あれは賀川の見たキリストだから“賀川伝”ですね」
「君は面白いことと云うね。ありがとう。あれは小説だよ。僕の書いた“キリスト”が他の人の書いたのと違う処は、ヨハネ6の14、“イエス己をとらえて王となさんとするを知り・・・”革命の王としてかつがれんとしてキリストを書こうとしたのだ。日本人は余り読んでくれないが、アメリカではとてもよく読んでくれた。しかし大事な贖罪愛のところを抜いて翻訳している。山上の垂訓のそう見て考えると面白いね。始めに5000人集まり次には少し人気が落ちて4000人集まった―と、僕等のように労働運動をした者にはよくわかるね―」(1947年1月一麦寮の二階の先生のお部屋で)

 宇宙目的論
「先生の宇宙目的論はむつかしくて何度聞いてもわかりません、もっと一般によくわかる話をされた方がよいと思います。先生は戦前にはとても感激的で涙が出て、奮い立つようなお話をよくされましたが・・・」
「戦後あんな話をしたら、みんな発狂してしまうよ。君ももっと勉強して賢くなり、僕の宇宙目的の話くらいわかるようにならんと駄目だね。1948年は共産党宣言が出てから丁度100年になるが、今後益々共産党は盛んになってくる。此の共産党に理論的に負けないしっかりしたものを持っていなければ駄目だよ」(1956年夏、北摂山荘の一室で)

(『神わが牧者 賀川豊彦の生涯と其の事業』田中芳三編から転載)