書評『賀川豊彦』(隅谷三喜男著)=松尾尊允

 兵庫県関係のすぐれた歴史書を推薦せよとの依頼を受けてとまどった。神戸には学生時代からしばしば訪れ、最近惜しまれつつ閉店した後藤書店をよくのぞいた。楠公さん近くには父の従兄の俳人岩木躑躅接骨院を営んでいた。虚子門下の最長老である。川西氏には娘が住んでいる。なじみの深い地域ではあるが、関連する史書となると思い浮かばぬ。ふと思いついたのが表記の本である。賀川豊彦兵庫県人ではないが、青壮年期の11年間を神戸葺合のスラムで送り、日本の社会運動史上不滅の足跡を残した人物だから、依頼者の意にそむくことにはなるまい。
 実のところ私は食わずぎらいで賀川の文章を余り読んでいない。郷里鳥取の生家には大正期の大ベストセラー『死線を越えて』はあったが、読んでいない。私の本来の専攻分野であった社会運動史研究の必要上、彼の文章は読んだことは読んだが、深く心にとどまることはなかった。
 その私が賀川への関心を失わなかったのは、賀川と直接深い関係にあった学生時代からの一友人のゆえである。その名は横関武。同志社大学時代に生活協同組合運動に入り、最終的には京都生活協同組合理事長と日本生活協同組合連合会副会長を勤めあげた。私が内弟子同然であった北山茂夫の戦時下田辺中学教師時代の生徒であり、葬儀委員長をつとめた。
 横関は中学時代すでにほとんど視力を失い、戦時下役立たずとして配属将校にいじめられ、戦争と飢えの無い世界を希求するようになった。視力のため上級学校への進学の途を絶たれた横関は、中学卒業の翌年の1948年家出して大阪の飯場に入り土方になった。1年後衆議院議員総選挙があり、賀川は社会党応援のため飯場に演説に来た。「働きびとに主は在せり」の題で、社会事業による福祉国家の建設を説く賀川に、横関は社会事業では労働者は救われない、賀川は山師ではないかと喰ってかかった。賀川はかえって横関を見込んで西下するごとに飯場を訪れ、1951年、眼が悪くても学べる学校として同志社大学神学部に連れて行き入学手続きをとった。
 賀川は横関を労働者伝道の牧師にするつもりであったが、砂川反対運動などに参加した横関は神学部にあきたらず、社会科学を学ぶべく転部を賀川に報告した。賀川は労働組合の書記になりたいという横関に「静かな革命」運動としての生協運動の意義を説き、その道に入ることをすすめた。このとき横関は戦時下における賀川の生き方を問い、「自分は徹底的に戦争と戦うことができなかったことを心から恥じている」との言を聞いて、はじめて賀川を信頼する気持ちになったという。
 横関は今でも賀川を「人の痛みがわかる、寛容の精神の人である」として尊敬している。いわく、賀川の唱えたのはこの社会のおだやかな変革−日本国憲法を実質化することだ。その手段として労働運動や生協運動における統一戦線を希求した。その賀川を改良主義者として片付けることはできない。(2007年12月12日談)
 経済学者の隅谷三喜男賀川豊彦評価の方法は横関のそれに類似している。眼の不自由な横関の場合、賀川の文章によらずその言動によって賀川を評価した。隅谷はいう「ひとりの人物を評価する場合に、単にその思想の表皮のみによって、判断するのは正しくない。人物はその人格の独自性によって、苦しみ、悩み、戦い、十字架を負った。その全人格の在り方そのものによって、評価されなければならない。思想の体系はその不完全な表現にすぎない」(199〜200ページ)。文章に表現される思想だけで人を評価すべきでない。行動に示される全人格の在り方によって評価すべし、という点で横関と一致する。隅谷は「賀川の生きた時代の具体的状況をふまえて、そのなかでかれの活動と思想がどのような意味を持ったか、を明らかにすることに努めた」(226ページ)。
 隅谷は1909年に賀川が結核を病む身で新川のスラムに入って伝道を始め、貧民問題の解決を志すところから、労働運動、農民運動、無産政党運動、さらには協同組合運動と社会運動の全分野にわたってその基礎をつくることに貢献し、満州事変前、キリスト教界振興のための「神の国運動」を展開するまでの生涯を簡潔に描出する。
 隅谷は賀川のキリスト教の弱点として、当時の自由神学の影響を受けて、信仰と自然科学(進化論)を連続的にとらえ、人間の力で社会悪を克服できるとする原罪の契機の弱さを指摘する一方、賀川が全ての社会運動において、その目標として「人間の全人的解放」を掲げたことを重視する。
 こういう隅谷の賀川理解は、隅谷自信の学問と経験に基礎づけられている。隅谷は戦前来の社会政策学を労働経済学に転化させた開拓者であるが、近代日本史にも造詣が深く、ベストセラーとなった中央公論社版の『日本の歴史』でも22巻『大日本帝国の試練』(1966年)を担当しているくらいである。父の仕事の関係で東京のスラムの中で育ち、受洗し、東大生のとき結核で1年休学した上、治安維持法違反で3カ月留置された。1941年卒業後は満州鞍山の昭和製鋼所に労務担当として就職し、その仕事ぶりにより戦後鞍山名誉市民に推された。敗戦後はじめて東大研究室に入り、退官後は東京女子大学学長、日本学士院第一部長と学会の頂点にまで達したが、常に社会的関心を失わず、あの成田空港問題もいわゆる隅谷委員長によって初めて解決された。自伝として『激動の時代を生きて−社会学者の回想』(岩波書店、2000年)がある。こういう単なる学者にとどまらない生き方が、賀川への共鳴を育てたのである。
 本書は1966年に日本基督教団出版部によって刊行されたが、1980年以降再販されず、1995年にようやく岩波書店「同時代ライブラリー」に加えられて入手可能となった。一度絶版となったのは、隅谷が「日本の貧民研究史上不朽のもの」(25ぺーじ)と高く評価する賀川の『貧民心理の研究』(1915年)が差別文書として糾弾されたからである。
 賀川の全集が1962年から2年がかりで全24巻発行され(発行者武藤富男、発行所きりスト新聞社)、『貧民心理の研究』が第8巻に収録されたとき、すでに第7巻のうち「穢多村の研究」の節全文削除の要求がキリスト者部落対策協議会から提出された。このとき話し合いがついて削除せず、武藤富男の、賀川の部落民異人説や差別表現は「若気のあやまち」とする解説をつけて刊行した。ところが1981年全集第3版刊行に際し、キリスト教界内に部落差別問題がクローズアップされ、武藤は第7章全部と同巻収録の『精神運動と社会運動』(1919年)の中の一部を削除した。
 ところがさらに日本基督教団部落解放センターなどから、第8巻そのものが差別文書であるとの非難が加えられ、1990年まで11回の話し合いの末、キリスト新聞社はその創立者たる賀川を「差別者」と断定し、全集第8巻の「補遺」として『資料集『賀川豊彦全集』と部落差別』を刊行するにいたった(1991年)。
 たしかに今日の高みからみれば賀川の叙述は差別文書といえよう。しかし20世紀初頭の知的水準からみると如何。当時賀川の叙述を批判しうる水準に達していた文献が他にあったか。存在しないからこそ部落出身の京大社会学担当講師(前記資料集は「教授」としている。キリスト新聞社は、米田がその出身ゆえに教授昇任(1920年)がおくれたという有名な風評を知らなかったとしか思えぬ)米田庄太郎は賀川の「見解や、論結」について「反省を促したい」といいつつも「本書の如き良著作を公にされた著者の労を謝」し「我邦の読者社会に推薦する」という「貧民心理之研究序文」を賀川の求めに応じて与えたのである「差別文書」を推薦する米田もまた「差別者」として糾弾を受ける資格がありそうだ。
 『全集』第8巻は原著に一切手を加えず、歴史の一資料として適切な解説をつけるべきではなかったか。隅谷は『賀川豊彦』の「あとがき 追記」で「その諸説によって被害を受ける人々に対しては充分考慮しなければならないが、それをもって論者の人格を否定することは私は採る所ではない」と書き、『貧民心理の研究』への「高い評価」を変えていない。
 その後鈴木良により賀川と創立期水平社との関係が具体的に明らかにされ、鳥飼慶陽・倉橋克人・浜田直也らによって賀川の諸側面が検討されつつある。隅谷本以降の研究をふまえた新しい賀川評伝の刊行が待望される。(松尾尊允=まつお・たかよし、京都大学名誉教授)
(『歴史と神戸』(神戸史学会)第47巻2号 No.267 2008.4特集 私のこの1冊(4〜7頁)より)