賀川豊彦献身100年−近代日本化のグランドデザイナー(下)2008年5月28日付け徳島新聞

 賀川豊彦記念館館長 田辺健二(徳島新聞2008年5月28日掲載)
 賀川豊彦は、1888(明治21)年7月10日、賀川純一とかめの二男として神戸市で生まれた。しかし、4歳の時、両親が相次いで亡くなり、93(明治26)年、徳島県板野郡(現鳴門市大麻町)の賀川本家に引き取られた。
 堀江高等小学校、徳島中学を卒業後、明治学院予科、神戸神学校を卒業した。徳島中学2年の時、結核を発病、終世の多病の因となる。4年時にキリスト教の洗礼を受けている。豊彦が生まれたのは神戸市だが、それは父の仕事(海運業)の関係でそうなったので、4歳からは板野郡で育っている。従って賀川の古里は徳島県である。
 彼の名が一層有名になったのは、1920(大正9)年に改造社から発売された自伝的小説「死線を越えて」が空前の大ベストセラーとなったからだ。上中下巻を合わせると、400万部以上が売れたと推定されている。当時のベストセラーが数万部程度であったというから、驚異的売れ行きであったことが分かる。
 その後は多種多様な事業を展開することによって、日本だけでなく、世界的に著名人となってゆく。
 とりわけ欧米のキリスト教国での人気は高く、「日本のフランシス」「日本のガンジー」と呼ばれたり、ニューヨークでは「世界の三大偉人−カガワ・ガンジー・シュワイツァー」という本が出版されたり、ワシントンの大聖堂には日本人としては新島襄と2人だけ像が建てられたりしたのである。さらに1955(昭和30)年と60年にはノーベル平和賞の候補にも推されている。
 それに比べて、日本での知名度はあまり高くない、それはなぜか。原因についてはさまざまのことが考えられるが、私見を一つだけ挙げてみたい。
 大宅壮一は、近代日本の偉人として、西郷隆盛伊藤博文夏目漱石湯川秀樹らを挙げて、この人たちの仕事の範囲はそう広くないのに対して、カガワの仕事は「現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる」「およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発している」と述べている。
 日本人の得意なものは、一つの技術や文化を徹底的に磨き上げて。完ぺきなものを作り出すことである。「この道一筋」の芭蕉宮本武蔵を高く評価するのである。
 そういう物差しを賀川豊彦に当てるとどうなるか。「経済学は素人」「小説は大衆文学」「労働運動は初期形態」ということになる。その道の専門家から見ると、賀川の仕事は未完成なのである。そこで賀川を無視することになる。
 しかし、あの膨大な事業を始めた賀川に完成品を求めるのは筋違いである。彼は専門家ではない。スペシャリストでもなく、ゼネラリストなのである。日本の近代化のグランドデザイナーであり、種まく人であった。完成品を作るのは、専門家の仕事である、賀川は、日本の近代化のための設計図を描き、事業を始め、多くの人を動かした。日本の近代化に伴う数多くの矛盾、特に社会的弱者へのしわ寄せに異を唱え、これを改革しようとしたのである。
 現在、資本主義の矛盾が極限にまで現れ始めている日本にとって、賀川の思想と実践とを再評価すべき時であると思う。
 彼は「資本主義でもない、共産主義でもない、第三の道=協同組合主義」を提唱した。日本のあらゆる側面が崩壊の危機に瀕している今こそ、賀川豊彦を再評価しべきである。来年は賀川献身100年の節目に当たる。