ヴォーリズに集った兄弟たち 伴 武澄

 11月28日、賀川豊彦ゆかりの団体の人々が近江八幡市近江兄弟社に集い、勉強会が開かれた。近江兄弟社側は、財団、学園、株式会社の主要3団体が迎えてくれた。

 JR能登川駅に降り立った東京組は、池田学園理事長の案内で、安土城址、セミナリオ(南蛮寺)跡、安土教会を見学、通称朝鮮人街道を通って近江八幡に入った。

 筆者にとっては30年ぶりの安土城址だった。当時はそれほどの問題意識もなくこの地を訪れたが、今回はいささか違った。セミナリオ跡があったことも知らず、なぜ安土城だけが「天守閣」を「天主」と呼んだのかについても疑問はなかった。

 多少の歴史的関心を持って訪ねる旅は趣きが違うし、今回は地元の名解説者付きの恵まれた小旅行だった。

 今回の旅の主目的は賀川ゆかりの団体の交流だったが、池田理事長は「ヴォーリズ賀川豊彦」と題する勉強会をちゃんと設定していた。神戸の「番町出合いの家」の鳥飼慶陽牧師の講演があり、兄弟社関係から20人ほどの参加があり、心温まる交流があった。

 ヴォーリズ近江八幡商業の英語教師として1905年、日本にやってきた。宣教師の資格はなかったが、放課後にバイブルクラスを行い、生徒たちにキリストの教えを熱心に伝える「伝道の人」だった。

 最近、建築家としてのヴォーリズ再評価が進んでいるが、建築設計やメンソレータムの販売は伝道を支えるための資金源として行われた。英語教師としての生活は2年で終ったが、ヴォーリズ近江八幡にYMCA会館を自力で建設、バイブルクラスで育てた教え子を中核に据えて伝道を開始した。自らも肺を病んでいたヴォーリズは日本の肺病者たちのために無料のサナトリウム(現在のヴォーリズ記念病院)をつくった。また、ガリラヤ号という船を浮かべて琵琶湖の湖岸を伝道した。

 勉強会の関心は「賀川とヴォーリズとの出会い」だった。「近江ミッション」と呼んでいたヴォーリズの事業は昭和9年(1934)、「近江兄弟社」と名付けられたが、これは賀川のすすめによったものらしい。二人は終生、信頼し合い、協力しあったが、いつどこで二人は出会ったのかはまだ明らかになっていない。

 大正12年5月にヴォーリズの弟子である吉田悦蔵が警醒社から出版した『近江の兄弟ヴォーリズ』に賀川は「跋」としてあとがきを寄せている。内容から見て既に親しい関係であったことは明らかである。その中で賀川は「ヴォーリズはその弟子の吉田を通じて知り合った」と明かしている。また「近江ミッション」が出版していた「芥種」という雑誌は賀川の妻ハルが勤めていた神戸福音印刷会社で印刷されていて、賀川はヴォーリズと出会う前から「貧民窟で愛読」していたという。

 さらにさかのぼって賀川の『地殻を破って』(福永書店、大正9年)という本には軽井沢のヴォーリズを賀川が訪ねる1919年8月7日の記述がある。鳥飼牧師の説明はそこまでだったが、なるほど、大正8年(1919)の夏には既に二人は親しい間柄だったし、少なくとも賀川は「芥種」を通じてヴォーリズの活動を詳しく知っていたことは確かなことのようだ。(続く)

 東京からは雲の柱の杉浦氏、そして国際平和協会の伴。神戸からイエス団の高田氏、賀川督明氏、番町出合の家の鳥飼氏、神戸文学館の義根さん、神戸新聞の河尻氏が参加した。

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