童心 小田切信男(賀川豊彦全集・月報8 昭和38年4月)

 世にはエライ立派な人は少なくありません。しかし、そのような人で心から好感のもてる人はそうざらにあるものではありません。徳冨翁が同時代の日本人の、しかも対照的な内村・賀川の両先生を讃えたことは特筆すべきことでありますが、私には両先生こそ最も敬し愛しうる稀な人格でありました。しかもこの両先生には特に心ひかれる共通点を見出しているのであります。それは、その人の偉大さにおおわれてしばし見失われがちな童心であります。もちろんこれは神を父と呼ぶ子の自覚から自然に流れ出たものでありますが、私は、この神による童心にこそ愛すべき「人」を見出したのであります。なぜなら童心の人なる信仰者には老人なく、英雄・超人・聖人もあり得ないからであります。
 賀川先生は診察の目的ではなしに新宿時代の小院をご訪問下さったことがあり、無理に尿を採って顕微鏡検査を行ったことがあります。その折、短い会話の中で終生敬愛すべき童心の人を発見したのであります。その後四谷の医院新築感謝会において、激励のお言葉を頂いたことも忘れ難い感謝であります。
 私の5人の子供等は賀川先生の松沢教会の幼稚園や日曜学校で育てられ、いずれもすごい賀川先生のファンでありました。夕の祈りに、賀川先生のご健康とお仕事とを守り給えと祈る小さな末の娘の祈りには、ハッと心を打たれるものがありました。それが人を尊敬することを知らぬご時勢であっただけに、子供達に「尊敬の人」賀川先生のあることは誠に嬉しいこと、有り難いことでさえありました。
 昭和35年4月23日夜、私はお宅にお見舞いをかね、渡独のご挨拶にお伺いいたしました。その時奥様から、先生は4時間程前から意識不明と告げられ、驚いて二階のお部屋に伺ったのであります。ベッドに横たわり、その身に「キリストの傷痕」(ガラテヤ6・17)を刻む先生のお顔には、もはや生気なく、意識なく、血圧も極めて低く辛うじて計れるくらいのものでありました。慢性の肝炎から心筋梗塞、そして、その後しばしば出没性の垂下性肺炎に襲われ、次第に心力を低下し、今や危篤状態に陥ったものと判断せざるを得ませんでした。しかし、常に巨人な人格はヨハネ伝の宣言にも似て(11・25−26)そのまま不死であります。ご家族の方々は、たとえ死の不安を抱いていたとしても、今がその時とは到底考えられないという、その心情はよく分かります。もちろん入院中も、しばしば危篤と告げられながら幾度も危機を脱し、そのため賀川先生には医学的判定は定め難いと医師達をして嘆かした程でありました。しかし「今」が「その時」であると知った医師は真実を語らなければなりません。奥様はじめご家族の皆様にご臨終の近接を告げると共に、私は病院から最後の治療としての注射薬を急ぎとりよせたのであります。
 特にうす暗くしてある電灯の下に、先生の喘ぐ呼吸の荒々しさは、きびしい定めの時に急ぎつつあるものの如く、人々の心に痛みとして反響して来ます。父と子との繋がりを手に握りしめるご長男、或いはベッドに寄り添い見守る人々、奥様はやや離れて祈るが如くでありました。側に立つ私は突如先生が−あたかも眠りより今目覚めたかの如く目を見開き、あの童心の微笑を浮かべて、挨拶なさいましたのを見てびっくりいたしました。しかも、そのまなざしは、その瞬間天を仰いで祈るように見えました。「先生!」と呼びかけますと、先生は重々しく頭を廻らしはじめ、周囲の人々を見渡されるのかと思わしめましたが、その頭の重さを支えかねるものの如く、ガクッと左側に頭を落とすと共に、世を去られました。大いなる「瞬間死」の終焉! その時奥様はツト手を差し延べ、先生の頭にやさしく触れ「よくお働きになわれました」「御苦労様でした」と万感を胸に秘めてお別れのご挨拶を述べられました。
 私はアンカレッジよりハンブルグへの空の旅で賀川伝を読み続け、来た独乙巡回講演の旅ではしばし求められて賀川先生を語り、会衆の共感と偉大な日本人キリスト教徒の死に対する弔意をうけたのであります。
 ドクトル・カガワは独乙では「世紀の聖者」であり、私には大いなる、神の「童心の人」であります。(小田切病院院長=当時)