ESD実践の草分けとしての賀川豊彦 阿部志郎

 阿部志郎氏のスピーチ

 1995年1月17日午前5時40分、この地は激震に見舞われた。6434人が命を失った。この知らせは全世界に伝わった。南カリフォルニア救世軍はすぐに救援隊を組織して空港に集まった。日本政府から受け入れの準備ができないといわれ、一晩空港で夜明かししている。スイスの救助犬は狂犬病の注射を受けていないという理由でしばらく留め置かれた。しかし村山総理がこの地に来たときには彼らの活動はすでになされていた。どこからともなくボランティアが集まってきた。神戸大学の学生救援隊もあった。賀川豊彦の息子も孫も寝袋と大工道具とガスボンベを担いで賀川記念館に駆けつけた。澎湃として140万人のボランティアがこの地に来た。想像することも出来ない画期的なことだった。それを見た政府はそれまでばらばらだったボランティアの施策を18の省庁が集まってボランティア協議会を設置し、いまも機能している。
 私は神戸の中山手に子どもの施設があってそこの消息を得るのに30時間かかり、やっと職員の一人がなくなったが、子どもたちは全員無事という消息を得た。困っているのは医療機関、薬局がなくなって子どもの薬がないという。下痢を起こし風邪をひいて夜泣きをする薬が欲しい。何を持っていこうか聞くと「水とトイレ」といわれ、だいたい察しが付いた。病院で薬を6キロ調合して貰った。旅行社に頼んで神戸に入るルートと止まれる宿を調べてもらった。答えがあった。天保山から船が出るが6時間待ちで行列をしている。止まれるホテルはポートピアホテル。ただし、水がない。料理は出来ない。素泊まりならと。ただ行く道は確保されていない。私はやむなく三田から神戸にそして施設に向かった。すでにたくさんのボランティアが働いていた。たまたま知っていた横浜の建築学の教授と建築技師が耐震の診断に来てくれていた。救援物資が山 積みになっていた。中に厚生省が送った赤ちゃんの離乳食があるのを見て、行き届いていると思ったが、一方でそれぐらい当たり前とも思った。その2週間後に妻が緊急車両に乗せてもらった神戸に入った。その施設は妻の祖父が119年前に始めた孤児院だった。妻の反応は違った。戦争で空襲を受けて全焼し防空壕で子どもたちと一緒に住んだ。食べ物がない。配給は子どもたちがいるのに一世帯分しかくれない。孤児は戦争遂行にとってお荷物だったからだ。これを救ってくれたのは出入りの商店だった。毎日差し入れをしてくれた。
 今度の震災でも最初に駆けつけたのは地域の商店だった。むかしの子どもたちが駆けつけてくれた。たくさんの救援品とボランティアに取り巻かれている。妻は隔世の感を感じたようだった。
 災害で一番大きな被害を受けたのが長田区だった。長田区で救助された4人に3人は市役所でなく消防でなく警察でなかった。近隣の人によってだった。隣の人が倒れた家屋から助け出した。助け助けられる。愛し愛される。サービスは一方的である。長田区の人たちは在日韓国人の老人ホームの人々を受け入れた。どこにいっても嫌な顔をされる老人ホームの人を長田区の人たちは温かく迎えた。
 140万人のボランティアの人々は今どうしているのだろうか。この地で経験をした助け助けられるをどのように今の生活に生かしているのか知るよしもない。災害を救援し、待ちを復興させる。しかし、行政は神戸市役所がぺちゃんこになったように大きな被害を受けている、職員も被害を受けているという状況で、貝原兵庫県知事、笹山神戸市長、民間を代表して飯野神戸大学長、コープこうべの高村会長、さきほど挨拶があった今井さんの3人が行政とチームを組んで救援と復興の計画に取り組んだ。それを神戸大学、コープ、YMCA、ロータリークラブその他がサポートした。ここに官と民の協力を超えた公共の「公」の世界が生まれ、新しい動きが起きたことに感銘を受けた。
 このことは賀川豊彦の行った事業を想起させる。それより73年前、1922年9月1日午前11時58分。上下動の激しい自信が東京を襲った。9万9000人が犠牲になった。46万5000戸が焼失した。この知らせを賀川豊彦が受けたのが翌9月2日、神戸だった。知ったのは新聞だった。まだテレビがなく情報が遅かったが、賀川はすぐに反応した。材木と数名の青年を伴って山城丸に乗って9月3日に東京に着いた。
 東京をつぶさに調べた。人々が何を必要としているか、今でいうニーズを調査した。神戸に戻って9月7日から募金活動を始めた。ハル夫人は子どもを背負って街頭に立った。この募金によって食料、衣服、寝具を伴って再び東京に行った。本所駒形にいくつかのテントを張って焚きだしをした。食料と衣料の配給もした。入浴サービスもした。神戸では水がなく2週間も風呂に入れなかった経験があるが、賀川はそれを東京でやった。保育をし、学校に代わって子どもたちの勉強をみた。児童クラブ、医療、健康、法律相談も始めた。いわゆるセツルメントという事業を始めた。産業青年会というセツルメントだった。ユヌスさんの発想に近いと思うが、困っている人たちにお金を貸そうとして質屋をつくった。そして江東消費組合を組織し、さらに医療購買組合、これが病院へと発展する。こうした事業が今日、中ノ郷質用組合や賀川記念館、東駒形教会、雲柱社など8つの施設として息づいている。賀川の災害に対する対応は実にすばやく機敏だった。ボランティアという言葉のない時代に組織化しネットワーク化した。さらに東京市社会局などと協力して不良住宅を調査して報告した。山本権兵衛内閣に請願書を出している。それは「復興をした東京で公娼を認めるな」と。つまり売春だ。「東京市民に問う」という文書も発表した。「復興には精神的向上を欠かすことが出来ない」ということを主張した。
 こうした賀川の活動を思い、阪神の災害を思うとき、災害の救援にはいくつかの段階がある。まずレスキュー。倒れている人、埋もれている人を救い出す。そして、レリーフ。衣食住を確保しなければならない。このときライフラインという言葉が生まれた。
 普通の災害救助はここで終わるが、賀川はリハビリ、住居、医療、福祉、教育を元の状況に戻そうという努力をした。リコンストラクション、復興の働きが生まれるのだ。1923年、すでに賀川が展開したのは。レスキュー、レリーフ、リハビリ、リコンストラクションへと結び付け発展させることをしている。
 このリハビリとリコンストラクションという発展がなければ、持続可能な開発、復興がでいない。リリーフに終わらず、それが復興、町づくりへと結び付いたところに持続可能な社会があるという新しい希望をもって生みだされる。
 いかにして可能にしたのか。今回の神戸の震災で一番心にひびくのは神戸市民がいたずらに行政に依存しなかった。自分の足で立ち、自ら汗を流して生活を取り戻そうとした。自律的で連帯的な市民がそこにあった。
 これは市民の成長であり、市民社会形成の芽生えがみられるのである。それに行政がサポートし市民の生活の維持に努めたことは関東大震災にはみられない行政の格段の充実である。さらに全国からボランティアが駆けつけた。140万人。テレビをみて居ても立ってもいられない気持ちでこの地にやってきた。それを支える広い援助があった。関東大震災では太平洋上の軍艦がすぐに救援に参加、食料を供給した。ニューヨークでは次の日曜日に工場が稼働した。その収益を義捐金として東京に送ってきた。ロックフェラーは復興のためいくつかの公共施設を寄贈している。こうした背後からの支えがあった。
 阪神地震には1900億円という義捐金が集まった。互しゅう性、レシプロシティーという。結婚式の引き出物がお返し主義、互しゅうである。欧米では結婚式にお金を包む人はいない。葬式もそうだ。しかしわれわれは新しくなった社会でまだ互しゅう性を維持している。青森からリンゴを積んだトラックがやってきた。4年前に台風で被害を受けて義捐金が集まった。そのお返しだった。北海道では共同募金の募金額の3倍のお金が集められ送ってきた。奥尻の災害の救援に対する感謝の意だった。互しゅうはアジアの特色。互しゅうで成り立っているといってもいい。今度の災害でも生きていた。
 互しゅうはペイバック。当事者に返すものだが、そのお返しを第三者に協力する方向に持っていくのが課題。140万はその大きな表れと言っていい。こうした要素が重なって持続可能な開発に導かれていくと思う。賀川豊彦は災害に対して弱さを持つ人々に最大の配慮をした。阪神の災害でいくつかの問題を残している。神戸の町は復興したが、本当に復興したのか。残された問題はないのか。災害に対する問題はプラス面とマイナス面とあるはず。それを発信をしている責任が世界に対してある。福祉の立場からいえば、大地震で親を失った子供が556人いる。子どもの危機である。県内外の施設に入ったのはわずか。子どもたちはどこにいったのか。さっするに親族網が受け入れたのだと思う。家族崩壊がいわれているが、親族網が機能したといえまいか。追跡調査をしたとは聞いていない。ぜひやってほしい。
 傷害を受けて、心の傷を受けた人のアフターケアも心配。もう一つは孤独死仮設住宅での孤独死はクローズアップされた。568人が孤独死したという報告を聞いている。それは社会的な孤立でもある。これは社会の責任である。こうした問題にソーシャルワークはどんな働きをしなければならないのか。考えなければならない。賀川豊彦の友人に有馬四郎助という人がいた。関東大震災で小菅刑務所の所長をしていた。1200人の受刑者は食堂に集まって、昼のカレーライスを食べる号令を待っている時に、震災にあい、庭に逃げ出した。建物も刑務所を取り囲む3メートルの塀も崩れた。逃げる絶好のチャンス。みんな逃げようとしているときどこからともなく声がした。「有馬の顔をつぶすな」。お互い声をかけあって逃げなかった。みんながこん棒などをもって「怪しいやつはいれるな」と刑務所を守った。普通、受刑者は番号で呼ばれるが、有馬は固有名詞にさんをつけて呼んだそうだ。
 阿部さん、ハイ。
 逃げたらそんな所長に迷惑がかかる。とうとう一人も逃亡者をださなかったというエピソードを生んだ。刑務所でひとつのコミュニティーが生まれていたのだった。なぜそのコミュニティーを私たちはつくれないのだろうか。賀川豊彦、ユヌスさんはこのコミュニティーの形成を目指しているに違いない。このコミュニティーの形成こそが持続可能な社会を築く基礎的理念なのではないだろうか。私たちはどのようなコミュニティーをつくるかを問われている。(完)