世界国家22 科学と宗教の調和その2(1948年7月号)

 成長にも、成長を早くしていいか、遅くしていいかに就ての選択性が働いている。一方に成長素があると、他方に成長を抑制する抗成長素(AVITON)がある「+」の「成長」力「−」の反成長力がうまく組合わされて、調和している。卵ではきみに成長素があると、しろみに抗成長素がある。
選択性が字宙に漲つていて、偶然をさえ利用し、その選択の方向は宇宙の目的に合致せんとしている。選択性とは合目的的な作用の一つであるが、これが極端に発達しているのが、細胞の中の染色体である。細胞の核分裂の際、染色体は紐状となり、何万という遺伝因子がそれについている。遺伝因子は水素イオンのイオン性によつて結合するため、実に合目的的で多重選択となり、而も方向がきまつている。核分裂の時の光線はラデイオ・レーダーの様な指向性をもつている。玉葱等はこの光線の指光性によつて、細胞を上へ上へと導いて、中空な葉になるのである。
 偶然的と考えられる変化の中にも、先験的確率をもつて、エネルギー水準を整数倍によつて配置し、選択の方向をきめ、生命のあり方を合目的方向にまで導いてゆく事は単純な選択では出来ない。どうしても選択には選択を重ねて多重的、綜合的、複合的、調和的な選択性でなくてはならない。而もその上に指向性がないと生命はあらわれない。
 従つて、生命現象は単なる偶然の結果では決してあり得ない。目的論的な指向性なしには人間も決して現われて来ないのである。
 かゝる多重的指向的選択性をもつて、合目的的に生命をつくるためには元素集中が必要である。少くとも十五種位の元素が集中しないと生命はあらわれない。そして四十五種以上の元素が生命に貢献しているのである。元素集中のためには、結合力のつよい週期律の第四価のものが極めて大切になる。
 地球化学を研究したヴエルナドスキーは生命の選択性の世界にさぐりを入れ、宇宙には選択的理念が実在し、自然環境は偶然ではなく、生命中心の目的性をもつて出来上つていると考えた。この思想は元々米国エール大学のローレンス・ヘンダーソン教授のものである彼の著「自然環境の適応性」は翻訳されて創元科学叢書の中に収められている。この学派はさきにのべた週期律第四価族即ち C(炭素)、Si(珪素)Ti(チタニウム)、Ge(ゲルマニウム)、Zv(ジルコニウム)、Sn(錫)、Hf(ハフニウム)、Pb(鉛)、Th(トリウム)を重視する。Cは有機物の根源をなし、Siは有機物の根基である。地球の上に元素集中しようとすればまず原子価が四価で、結合力のつよい Siを用いなければならぬ。Siは高温度で化合する。地球の表面十キロは岩石であるがこれは地球の高温時にSiALの化合して、元素集中をしたものである。そこへ植物、つまりCを中心とする有機物があらわれ、更にその元素集中を利用して動物が生活する。我々が見ると、生存競争はいかにも偶然的な、非合理的な非目的論的に見えるが生物化学者であるウエルナドスキーの考えによれば必ずしもそうではない。ある細胞或いは微生物はある元素例えば鉄マンガン等と特別の関係をもつて存在しているものがある。今日のマンガン鉱、又鉄鉱――蒙古の竜烟鉄鉱はその顕著な例である――は微生物がカンブリアン紀即ち今より五億年前にこれ等の元素を集めたのが水成岩の問にはさまつて出ているのである。マンガンや、鉄で見られた如く、地球に含有された微量の元素を微生物、植物、動物が集め、それに寄生し、更に寄生して高等動物が現わる。之れを見ると物的世界をつらぬいて、ある力が働き、生命を育成するという目的をもつてある元素が集中している事かに気がつく。この集中は唯物論のいう様に簡単なものでなく、大宇宙の目的を果すため生命活動に進まんとする衝動が物体を通して脈として働いているのである。         
 最初の地殼、即ちSiLAの世界のコロイドの量は地球の水とか風とか光線等の力で一定している。例えてみれば、卵が孵化して・雛になつて行く時、その方向性は原始的な卵から鳥類にまで進化するけれども、卵の時と、系統器管の出来上つた時とコロイドの量はかわつていない。丁度その様に、カンブリアン紀以来、コロイドの量わつていないが、系統的にはどんどん高等動物に進化してゆく。この過程が食物競争としてあらわれ、生存競争は人間の目には激烈に見えるが、その中にあつて高等な動物があらわれて来る。之を見ると、より高いものが地球を支配しているという事が分る。これが宗教的宇宙観へと我等を導く。
 即ちかく考えると元素集中の為めに下等動物の出現が必要であり、この下等動物を基礎として高等動物は元素集中の形を通して進化することになる)。
 この方面に功績をあげている化学者としてアレキシス・カレルとホールデン、最近にはルコント・ド・ノイがある。
 カレルには「人間」という著書があるが、彼の考えによればヘンダーソンの自然環境の適応性を考えないと人間は分らない。人間は自らを知らない。人間にはまだまだおどろくべき霊能性が与えられているという。一例をあげれば、血液は誠におどろくべき合目的性をもつている。免疫性を研究する血清学などは血液の合目性を考えないと成立しないと云つてよい。又血液によつて何処の傷でも癒されるのは、血液の細胞の中に身体中のあらゆる部分を自由に治す力をもつているからである。血液という極端な局部にも、全体を修繕する目的性が含まれているのを知る時、その選択性に驚かざるを得ない。又普通の人には血液の培養などという事は考えも及ばない事なので、全然気がつかない事であるが、カレルが非常に多額の費用を費し、複雑な設備を用いて、血液が試験管の中で培養するのに成功した時、驚いた事には、血液は自然に循環系統をつくり、循環する様になつた。血液は循環系統をつくる目的性をもつ。多くの学者はそこまで研究しないので、機械的に見、而もその機械は偶然につくられたとする偶然的機械観に陥るのであるが、機械は決定論的なものであり。偶然は無限の変化をもつている。この間の論理的矛盾をとびこえて、機械だから偶然だというけれども、之は間違いである。

 ビタミン及びホルモンと撰択性

 更に血液に含まれている元素の問題、或いはビタミン・ホルモンの問題を考えるとき、我々の想像もつかぬ程霊妙な撰択性が血液の中に働いている事を知るのである。血液に含まれている砒素は、卵子が八百匁の赤坊にまで大きくなるためには必要なのであるが、妊娠していない時は不必要であるばかりか有害でさえあるのでこれを排泄する。血液中の砒素の関係であろうか、女子の癩病患者の数は男子に比し三分の一にすぎない。かくの如く母となるべき身体は護られているのである。硫黄もマンガン等も又血液中にあつて作用している。有名なマツカラムの栄養新説によれば、マンガンを微量、哺乳動物に与えると、子供に授乳し、マンガンが少いと、する事を厭がるそうである。更にビタミンについて面白い事は、ヴイタミンCのある食物と、入つていない食物を与えて、その乳の中のヴイタミンCの量をしらべると、Cを欠いた食物を与えた時にも、乳の中には赤坊に必要なヴイタミンCが含まれている。これはどうしても母の体内でヴイタミンCを創造しているとしか考えられない。それ程母体は不思議な合目的性をもつている。乳も又血液のもつ免疫性と同じ様な合目的性をもつている。乳は赤坊が吸うまでは脂肪や血であつて、乳房は乳の瓶ではない。赤坊が吸う瞬間に原子価の差を利用して血や脂肪が乳に変る。これは想像もつかない程早い機械的作用である。牛は一年間に何万ポンドという乳を出す。
 仔牛はその栄養によつて育つ、これは大宇宙に内在する合目的性を考えないと分らない。ホールデンは「ある動物は何故小さいか」という事を研究した。蟻や蜂は呼吸作用――即ち酸素を吸収するのは皮膚から出来る。というのは半インチまでならば、皮膚から空気が入り得るからである。それ以上に、身体が大きくなると、奥まで空気が入るためには肺が必要になつて来る。こういう事情のために、昆虫の大きさは現在の程度で止つたのである。
 感覚器官についても同様な制約があつて、目についていえば、波長即ちオングストロム(A)(一億分のIセンチメートル)の関係から目の大きさもきめられる。人間の目には五十万の細胞がならび、色を見分ける事が出来るが、鯨、象だからといつて大きい目は不必要である。又あまり小さいと、蟻や蜂などは複眼にして、その不便を補つているが、遠くを見る事が出来ない。
 その他、水、酸素についても約束がある結果、動物の空間に占める位置について制約が生ずる。動物は事情の許す限り、大きくなろうとするが、大きくなると構造が複雑になる。合目的論によつて考えないと、生物の構造の説明がつかない。又合目論的宇宙観をもたないと動物の進化を理解する事が出来ない。進化というのは物的世界の傾向――方向性を意味し、どの物体も、光も、電気も、超短波もすべて方向性をもつ。それに選択性が与えられ、ある方向、ある部分の撰択が目的として現われる。それがコロイド膜にあらわれ、原子価にあらわれ、広く、物理的、化学的、生理的世界にあらわれ、更に心理的世界に現われ、最後に良心的撰択性として合目的の世界をあらわすのである。           
 宇宙は、十九世紀の中頃、簡単に唯物論で説明された様な機械的なものではない。物理学、化学、生垣学の奥深い研究が進むにつれて、宇宙が生理的世界より心理的世界へ更に霊的世界へのび上つてゆく指向性をあらわしている事が明かにされはじめ、精神的宇宙観が獲得された。我々の中には生命の出発における第一原理、即ち先験的確率性が存在し、我々をして絶対自由の世界、大きな生命衝動の内部に伏在する目的性の世界へあこがれしむる様に指さしている。生命の世界は決して、無秩序、無組織な中にはあらわれない。安定性のない所には生命は実現し得ない。目的のある世界をつくるためには、安定と持続と保存性の機械的構造が必要である。機械なくして目的なく、目的なくして機械はない。目的が大なれば大なる程、機械性を大きくせねばならぬ。機械性とは組立性であつて、あらゆる変化性と力と成長性と更に選択性と法則性とをあわして組立てた世界が機械である。機械性の中に撰択性が窺われ、機械性を通して大きい生命があらわれる。機械的宇宙観と目的論的宇宙観とは二律背反に陥ると考え、宇宙に目的のある事を否定する。然しかゝる誤つた思想をすてゝ、偶然をも利用し、撰択して、発展してゆく宇宙の意匠を見なければならない。その時はじめて、大宇宙は生命の世界に向い、更に心霊の自由の世界にのび上つて行く事がはつきりと把握されるのである。
 今後にますく発展をつゞける新しい物理学、新しい化学こそ、我々の新しい宇宙観を第一原理の方へ導くものである事を認識する。かくして、新しい科学と直観的宗教生命観との間に再び一致を見出し得るのである。(一九四八年七月号)