(12)−献身・涙の二等分

第二章 賀川豊彦の献身

 涙の二等分

 賀川豊彦は1919年に『涙の二等分』という詩集を発表しました。無名の伝道者の詩をよく出版社が本にしたものです。神戸市葺合新川の貧民窟に入ってまもなく、「貰い子殺し」という「商売」があったことを知り、なにより悲しみました。「貰い子殺し」というのは貧困や何かの理由があって育てられなくなった不義の子どもを5円とか10円でもらって来て飢え死にさせる商売です。
 貧民窟という語は死語です。メディアでは使ってはいけない言葉の一つになっています。当時の雰囲気を伝えるためにあえて使います。賀川豊彦は『人間苦と人間建築』の中で「貧民窟10年の経験」を次のように書いています。
 明治の末期といっても「貰い子殺し」がまかり通るはずもありません。犯罪です。でも産まれたばかりの子どもの「間引き」がまだまだ社会の必要悪として横行していました。新川に入って一週間後、賀川は立て続けに「貰い子」の葬式をするはめに陥ります。

 私は最初の年に、葬式をした14の死体中、7つ8つ以上はこの種類のものであったと思います。それは貧民窟の内部に子供を貰う仲介人が有って、そこへ口入屋あたりから来るものと見えます。そしてその仲介人を経て、次へ次へと貧民窟の内部だけで、4人も5人も手を換へて居ります。それで初めは衣類10枚に金 30円で来たとしても、それが第二の手に移る時には金20円と衣類5枚位になり、第三の手に移る時には金10円と衣類3枚、第四の手に移る時には、金5円 と衣類2枚位で移るのであります。之と云ふのも現金がほしいからで、それが欲しい計りに、段々いためられてしまった貰い子を、お粥で殺して、栄養不良として届出すものです。

 ある時、賀川は警察署で貰い子殺し容疑で検挙された産婆が連れていた乳飲み子をもらってきて育てようとしました。この子が手に小さな石を握っていたことから「おいし」と名付けました。でも長生きはできませんでした。まもなく賀川の腕の中で死んでしまいました。
 賀川豊彦の一途さの一断面を理解していただくために、その一部を掲載したい。賀川の膨大な著作は不思議なことに『涙の二等分』を含めて最近まですべて絶版となって古本屋でしか求めることができなくなっていました。

  涙の二等分

  おいしが泣いて目が醒めて
  お襁褓(しめ)を更えて乳溶いて
  椅子にもたれて涙くる
  男に飽いて女になって
  お石を拾ふて今夜で三晩夜昼なしに働いて
  一時ねるとおいしが起こす
    ………… 略 …………
  え、え、おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ
  力もないに
  こんなものを助けなくちゃならぬと教えられた私
  私も可哀想じゃね
    ………… 略 …………
  あ?おいしが唖になった
  泣かなくなった
  眼があかぬ死んだのじゃ
  おい、おい、未だ死ぬのは早いぜ
  南京虫が──脛噛んだ──あ痒い
  おい、おいし!
  おきんか?
  自分のためばかりじゃなくて
  ちっと私のためにも泣いてくれんか?

  泣けない?
  よし………
  泣かしてやらう!
  お石を抱いてキッスして、
  顔と顔とを打合せ
  私の眼から涙汲み
  おいしの眼になすくって………
  あれ、おいしも泣いてゐるよ
  あれ神様
  あれ、おいしも泣いてゐます!

 歌人与謝野晶子は、この詩集に序文を寄せました。
「賀川さんのみづみづしい生一本な命は最も旺盛にこの詩集に溢れています」
「現実に対する不満と、それを改造しようとするヒュマニテの精神とは、この詩集の随所に溢れていますが、私は其等のものを説教として出さずに芸術として出された賀川さんの素質と教養とを特になつかしく感じます」
 すでに与謝野晶子は賀川の貧民窟での活動に注目していました。詩人は人生や世の中の苦しみや悲しみ、時として喜びを表現する人々です。身の回りの日常を素材にして人々の心を揺り動かすのが詩です。金子みすゞの詩の世界を思い起こさせます。
 日露戦争に勝利し、明治も終わりになろうとしていたころ、日本には「貰い子殺し」などという習慣があったことに驚きを禁じ得ません。数年前、熊本市の病院が「あかちゃんポスト」と称して、お母さんが育てられなくなった赤ちゃんを引き取ることを始め、賛否両論、大きな議論を巻き起こしましたが、100年前には「貰い子殺し」は多く起こりすぎて新聞に載るほどの事件でもなかったのです。
 「おいし」を読んで私は胸をぎゅっとつかまれた思いに捕らわれました。特に「おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ」の段は涙なしでは読み過ごすことができません。肺結核を患いながら貧民窟に入って自らを犠牲にしながら貧しい人たちと共に生きる。話したり書いたりすることは簡単です。賀川豊彦という人はアメリカ留学を挟んで約15年間も神戸の葺合新川地区に住み続けたのです。