(19)−農村の若者がつくった龍水時計

7 農村の若者がつくった龍水時計

 リズム時計の源流は賀川豊彦が戦後、埼玉県葛飾郡桜井村(当時)に創業した農村時計製作所だったと話すと誰もがびっくりします。

 現在の農協の原形をつくったのは賀川豊彦だった。1922年、福島県キリスト教の伝道の傍ら農業指導をしていた杉山元治郎と日本農民組合を大阪で結成した。小作料の引き下げなど農民の立場から団結して地主に対抗。250人で始まった運動は3年後には7万人以上の組織へと成長した。
 賀川は農民の社会的自覚を促す目的で農民福音学校を経営した。デンマークのフォルケ・ホイスコーレに倣ったもので、農閑期に農村青年を集めて教育した。賀川が主張したのは「立体農業」だった。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張した。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない“理論”だった。


1946年、桜井村にあった旧陸軍の信管工場跡地をGHQから譲り受け、時計工場と技術者養成機関としての「時計技術講習所」を設立しました。賀川の夢に手を差し伸べたのが全国農業会(全農=現在の農協中央会、全購連、全販連、共済連)でした。資本金350万円は全農が八割出資。会長には全農会長の柳川宗左衛門、賀川は相談役。講習所長は服部時計店の技術者、古川源一郎が就任しました。
 19万坪の工場敷地には2万坪の工場建屋と2000台の工作機械がすでにありました。同年3月28日、従業員1500人で月産3万個の目覚まし時計製造を目標にスタートしたのです。
約半年後の8月に第1号の3・5インチの目覚まし10個が完成しました。みんな抱き合って喜びましたが、売れませんでした。バリカン、電気開閉器にも手を出しましたがこちらも満足できるものはつくれません。1年足らずで3000万円もの損失が出たのです。
 そこへ大口出資者の全農に対するGHQの解散命令が出て、農村時計は満身創痍。経営は全農の農村工業部長に就任したばかりの谷碧(たに・きよし=後のリズム時計社長)に任され、なんとか生き残った。
 日本時計学会の雑誌『時計』昭和24年7月号表紙にはセイコーシチズンなどを押しのけて農村時計の目覚まし時計「Rhythm」が載っている。会社発足して2年の農村時計が存在感を示している。以下のような説明が書かれていた。
 「表紙写真はNOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythmを示す。Rhythmは日本業界最高級品として内地は勿論、世界各地---特に印度パキスタンシンガポール、メキシコ、バンコック等から註文があり毎月15,000個の輸出を目標に生産を進めている。株式会社農村時計製作所は終戦後興った時計工場としては最も整備された一貫作業工場であり・・・尤もこれは戦時中服部精工舎南櫻井工場として創られたものを技術者設備共其の儘同社が引継いだものであり・・・今後の進展を注目されている」
 苦難の連続だった農村時計は設立4年半で遂に行き詰まり倒産。昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承され、シチズンが大株主となったのです。
 日本の時計史に見え隠れするのが社会運動家賀川豊彦なのです。賀川の時計づくりには後日談もあります。
賀川には全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢がありました。宗教革命の折、パリの手工業者たちがジュネーブに逃れ、後に世界的な時計産業の基礎をつくったことは早くから知っていました。精密工業は大規模な資本が不必要な上、部品さえあれば、どこでも組立が可能です。「農村に精密工業を」「日本を東洋のスイスに」という賀川の想いはやがて長野県の北伊那で実現することになります。
 小説『幻の兵車』(1934年、改造社)で登場人物の三好克彦に岐阜県で時計工場をつくる夢を語らせる場面があります。

 三好は主人公、木村蔵像の故郷、岐阜県美濃で語っています。
「木村君、この付近は土地も広いから農村工業を作るには持ってこいだね。僕は年来の理想を、この付近で実現しようと思っている」
「僕は、懐中時計の部分品を、農村の青年の副業にしたいと思っているんだが、この付近なら出来そうだね」

 賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていました。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していたのです。
 賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていましたから、その実態をつぶさに知っていました。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもあったのです。
 時計技術講習所の第一期の入学生は昭和21年4月から、桜井村に集められました。脱落者もあったということですが、2年後に彼らは故郷に帰りました。講習所には長野県の青年が多かったのです。岡谷工業という学校の果たした役割が大きかったとされています。その卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれました。千曲川は長くは続きませんでしたが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がったのです。
 北伊那の辰野町に近代時計博物館があります。1996年に野沢和敏さんが自費で建設したのです。2008年9月、その博物館を訪ねました。
 野沢さんはリズム時計の役員でサラリーマン生活を終えましたが、実は時計技術講習所の第一期生でもあり、龍水時計の「創業者」の一人だったのです。岡谷工業高校の3年の秋、父親から講習所の話を聞かされたそうです。父親は地元の農協の幹部でした。北伊那では養蚕が盛んで、伝統的に製糸業は協同組合的に運営されていましたから、賀川の研修生募集に積極的に応募したということのようです。
 北伊那の農協は龍水社といって、製糸工場も経営していました。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたらしい。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれました。
昭和23年11月、時計づくりが始まりました。素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのですから、夢多きスタートといっていい。
野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになりました。工場長のようなものです」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられ、部品づくりのため近隣に10の工場を立ち上げました。
 時計の部品をつくるため、伸銅が必要です。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきたのです。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらいました。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で、足りない分は野沢さんらが東京で調達しました。すべての作業が手作りでした。
「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちでしたから、講義のレベルは相当高かったはず。われわれは恵まれていたのです。単なる座学ではなく、隣の工場で実地に研修もしたから時計づくりにな自信がありました」
 野沢さんの回顧によると「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局2年もかかった。北原さんはよく我慢してくれたのもだと思う」
「われわれは意気盛んだったから、どこにもない時計とつくろうと励んだ。中三針方式の時計はまだ日本にはなかったから、これを目指した。時針、分針、秒針の3本が重なったものだ。次は30日巻。これはセイコーと愛知時計と龍水社しかつくれなかったが、難しすぎて試作品はお蔵入りとなった」
 昭和30年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝きました。役人が工場見学にやってきて「土間でのままの工場にびっくりしていた」そうです。賀川はこれを海外「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ!」と演説して廻りました。
 そんな龍水時計の試行錯誤が20年以上続いた後、龍水時計リズム時計の傘下に入りました。経営が悪化したからではありません。海外進出を決断したものの、北伊那には人材が不足していたのです。北伊那での生産は2007年まで続き、生産は中国に移管されて工場の役割は終わりました。
 野沢さんになぜ信州に精密工業が集積したのか理由を聞きました。龍水時計の役割は決して小さくないが、機械工業技術者を育てた岡谷工業高校の存在は大きいと答えていました。学校と協同組合思想、そして向上心の高い農民が「日本のスイス」を育てた。もう一つ忘れて成らないのが賀川豊彦の熱意だったのです。