(20)−コープこうべ

 コープこうべの誕生

 賀川豊彦は1914年から1917年にかけてアメリカのプリンストン大学に留学します。アメリカから帰国した賀川を余人が真似できないのは神戸の貧民窟に帰るところです。賀川は社会活動を再開するのですが、その活動は質的に大きく変化します。新川の賀川の救霊団はイエス団と名前が変わっていましたが、それまでの「救貧」から「防貧」へと転換します。それまでの慈善的活動からどうしたら貧困から脱出できるか社会を変革する活動です。まずは購買組合、いまの生活協同組合を手掛け、ついで労働運動にのめり込み、農民組合の組織化に転じます。
 賀川の労働組合運動については多くが語られています。川崎・三菱造船の争議を指導し、役3万5000人のデモを組織しますが、結局、失敗に終わります。デモが暴動に発展し、賀川が最も嫌った「暴力」につながってしまいます。賀川自身も長期間の拘留を受けることになります。ロシア革命は1917年、ロマノフ王朝を倒します。その勢いは全世界に広がります。日本も例外ではありませんでした。組合運動の指導方針をめぐって穏健派の賀川は革命を目指す実力行使派に敗れてしまいます。その後、賀川は組合運動から農民運動に転じます。共産主義を農村に広げてはならないという危機感が背景にありました。
 1919年、大阪市東区農人橋に有限責任購買組合共益社を設立、1920年には神戸購買組合、21年に灘購買組合を相次いで設立します。神戸購買組合と灘購買組合はそれぞれ消費組合、生活協同組合と名称を変えて、後に合併して現在のコープこうべへと発展します。組合員数140万人、年間売上高2600億円を超える賀川が21世紀に遺した最大の事業です。
 賀川はイギリスのロッチデールやドイツのライファイゼンにならって、労働者が助け合って販売したり、生産したりすれば搾取のない社会が作れると考えました。日本では1900年にすでに産業組合法が出来ていて、その当時、協同組合が多く設立されていましたが、ほとんどが失敗に終わっています。賀川はもう一度、協同組合に社会改造を託したのです。
 灘購買組合設立では面白いエピソードがあります。初代組合長になった那須善治という人物です。仲買人として第一次大戦で成り金となりますが、本人はいたって質素な生活をしていました。大阪で東京海上保険の専務をしていた平生釟三郎に社会に役立ちたいと相談します。平生は岐阜県の出身ですが、甲南学園を創設者し、後に広田弘毅内閣の文部大臣にもなります。平生はそれなら新川の賀川に話を聞いたらいいとアドバイスします。那須はさっそく賀川のもとを訪ねます。賀川は那須にこういいました。
那須さん、そのお金を貧しい人々への慈善事業に使うのもいいでしょう。しかし、慈善事業はデキモノに膏薬を貼るようなものです。膏薬を貼ってデキモノは治るかもしれませんが、また別のところにデキモノが出てきます。それよりも、デキモノができないような体質をつくることに使ったらどうでしょう」といって購買組合、つまり生活協同組合の設立を勧めます。
 日本の流通産業史からみてもこの二つの生協はユニークな歴史を残しています。発足当時の神戸購買組合は店舗を持ちませんでした。「御用聞き」が組合員の家を回って注文をとっていました。1931年にようやく葺合区塚通の本部に商品陳列室を設けて約30種類500品目の取扱商品を展示して組合員に紹介できるようになりました。本格的な店舗は六甲支部に1933年、百貨店方式の店舗を開設したということです。灘購買組合は1931年、芦屋出張所に日本初のセミ・セルフ店舗を開設し、アメリカで誕生したスーパーストアの形式をいち早く導入したのです。計量も伝票書き込みも組合員任せで商品のロスが出てやむなく中止となりましたが、1950年に神戸生協がスーパーマーケット式店舗を開設、1957年に灘生協がセルフサービス店「芦屋フードセンター」を開店しました。中内功さんが主婦の店ダイエー1号店となる千林店を始めたのが1957年9月です。ですからスーパーストア方式を日本で最初に導入したのはダイエーではかもしれないのです。
 戦前、日本には多くの生協がありましたが、第二次大戦を乗り越えたのはこの二つの生協と福島生協だけだったといわれています。賀川創設した大阪の共益社と本所の江東消費組合は戦災で消失し、戦後の復興はなりませんでした。賀川、戦後も協同組合運動に力を入れ、現在の日本生活協同組合連合会の母体となる日本協同組合連盟を設立し、全国的規模での生協設立を促しました。賀川豊彦が「生協の父」といわれるゆえんです。
 同じ流通業界の百貨店とスーパーの2008年度の経営を比較してみましょう。日本百貨店協会の統計では90社278店舗で4兆6958億円。日本チェーンストア協会の統計では70社8056店舗で13兆1703億円、コンビニの日本フランチャイズチェーン協会の統計では4万7114店舗で7兆8566億円となっています。
 一方、日生協の2008年度の会員数は2532万人、総事業高は3兆4114億円となっています。百貨店やスーパーの売上高と比較して、日生協の売上高は日本の消費の一翼を担っていることが分かると思います。しかし、残念ながら、監督官庁厚生労働省ということで「経済」の範疇としてとらえられていません。生協はあくまで国民の福利厚生でしかないのです。監督官庁農水省であるJAも同じ扱いです。賀川が生きていれば、最も嘆くところでしょう。協同組合は日本の経済統計からすっぽりと抜け落ちていることを指摘せざるを得ません。
 目をヨーロッパに転じてみましょう。組合員数や事業規模でいえば、日本の生協は世界で圧倒的な大きさとなっていますが、ほーロッパ諸国人口や経済規模からいって存在感は日本よりも大きいといえそうです。たとえば、スイスにはミグロとコプスイスという二大生協グループがありますが、食品小売りの45%も占めていて、国民経済と暮らしに占める生協の比率は非常に高いものがあります。イタリアの生協の総売上は同国の小売業でトップと抜群の存在感である。グローバル経済の進展で、欧米での生協は流通大手企業にシェアを食われつつあるというのが実態ですが、北欧や東欧を中心に中堅の流通業としてまだまだ存在感を失っていません。

 ニューラナークのオーエン

 2004年6月に一週間ほど南スコットランドを歩きました。賀川の協同組合運動のモデルとなったロバート・オーエンの工場経営を学ぶために、グラスゴー郊外のニューラナークを訪ねたのです。いまでは世界遺産に登録されています。
 ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、200年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよみがえらせています。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る、空気がとてもおいしい場所でした。
 ニューラナークの歴史は220年前にさかのぼります。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやってきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、1785年に紡績工場を立ち上げました。ワットが蒸気機関を発明したのは1765年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことですが、イングランドマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていました。
 ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが1800年に事業を引き継いでからです。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設しました。賃金の60分の1を拠出することで完全無料の医療を受けることができました。現在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出したのです。
 19世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせでした。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれていますが、その100年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていました。
 次いで取り組んだのが児童への教育でした。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だったのです。子どもといっても6歳だとか7歳の小学校低学年の児童も含まれていました。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけました。
 1816年の記録では、学校に14人の教師と274人の生徒がいて、朝7時半から夕方5時までを授業時間としました。家族そろって工場で働いていた時代ですから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もありましたが、当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことでした。
 オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり前だった体罰を禁じたことでした。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れました。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生はニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するようになった」と語っています。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのでしょう。
 オーエンはイギリス各地で起きていた労働者(特に児童)の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着きました。19世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが経済効率につながるという理念に到達していたのでした。
 それから100年以上もたった1925年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚きました。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていました。日本でもロンドンでもスラムは貧困と不衛生、そして犯罪の巣窟となっていたのです。
 チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』や『二都物語』の世界が20世紀のロンドンにも厳然として残っていました。
 オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観−人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条件改善の必要を説きました。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得ました。そして彼の経済理論は1820年の『ラナーク住民への講演』で社会主義的発想へと一気に昇華したのです。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けられる必要がある」と語りかけました。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのでした。
 オーエンがその後、あまた排出する思想家や経済学者たちと一線を画し、200年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということです。賀川豊彦が100年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くあるのです。
 ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残しました。地域通貨労働組合などもそうですが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営です。
 協同組合は1844年代にマンチェスター郊外のロッチデールで始まったものとばかり思っていましたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だったのです。
 200年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようです。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛の生えた程度のものばかり」だったのです。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていました。しかも多くの商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方でした。
 そうした状況は100年前の日本でも同じでした。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまりでて来ませんが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれています。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いありません。
 ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することでした。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えました。お酒についてオーエンは比較的寛容でした。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったのですが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようでした。
 1813年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ2割安の価格で販売しました。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけでなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもありました。
 この建物は現存していますが、当時の一般的な消費動向や2500人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずです。
 ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではありませんでしたが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週2ポンド(40シリング)稼いだとしてラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのです。つまりお金の価値を高めたのです。
 やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなくなりました。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれました。
 労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えました。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々をオーエニーズと呼ばれたのです。ロッチデールの織物労働者によって1830年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイオニアソサエティー」設立にこぎつけました。彼らは毎週2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めました。
 10ポンドで10坪ほどの店舗を3年間契約で借り受け、16ポンド11シリングでオートミール、小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めました。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていました。
 彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにありました。そして彼らはこの新しい購買組織の5原則を約束し合ったのです。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視−
という5原則は現在の生協運動でも掲げられているものです。
 ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大しました。