(21)−中野総合病院

 協同組合病院

 購買組合の次に手がけたのが、組合病院でした。賀川が新川の貧民窟で診療所を開設して無料で貧しい人たちの病気を治したことは話しました。当時、貧困と病気は隣り合わせでした。貧しいから無理をする。無理をするから病気になったり、けがをしたりしやすい。でも医者にかかるお金がない。医者にかかれないから病気がひどくなり働けなくなる、そうすると貧しい人はますます窮地に陥る。
そんな連鎖を断ち切るために賀川は組合病院を考えたのです。関東大震災の直後のことです。東京市に申請しましたが、医師会の猛反対に遭います。医療保険という概念すらない時代です。日々の賃金の中から会費のように積み立てておけば、いざという時に安い医療費で医者にかかれるというシステムです。現在の医療保険の先駆け的システムといえましょう。国際連盟の事務局次長の職を辞して帰国したばかりの新渡戸稲造も全面的にバックアップしてくれて、1932年にようやく協同組合病院の認可が下り、現在の東京医療生活協同組合中野総合病院が設立されます。
同病院のホームページの沿革には「中野総合病院は、昭和7年5月27日、故新渡戸稲造博士(旧5千円紙幣の肖像)・故賀川豊彦氏等の主唱によって創立された、日本で最初の医療利用組合の病院です」としか紹介されていませんが、労働者の出資金によって設立された病院は世界的にも特異な存在なのです。
農村医療に尽くし2006年に亡くなった佐久総合病院の若月俊先生は『若月俊一の遺言』(家の光協会、2007年)の中で賀川の医療分野での業績を高く評価しています。
1970年の国際協同組合同盟(ICA)のモスクワ大会で元、カナダの協同組合中央会会長のレイドロウ博士が日本の総合農協について高く評価しました。
「日本の農協は、生産資材の供給、農産物の販売をしている。貯蓄信用組織であり、保険の取扱店であり、生活物資のセンターである。さらに医療サービスや、ある地域では、病院での診療や治療なども提供している」
 レイドロウの報告について、若月先生は「わが国の協同組合運動の性格に関して、賀川豊彦の見方『友愛の経済学』を高く評価している。これは私どもが産組(産業組合、現在の農協)の『医療運動史』の中で、賀川先生の役割を高く評価しているのとよく一致する」と述べています。
 若月先生は東大医学部を卒業後、戦争が終わる直前に佐久病院に派遣されますが、賀川の生き方に共感していた先生は後に組合病院とし、佐久の赤ひげを目指します。病院で患者の来るのを待つのではなく、医者や看護婦が農村に出向いて健康管理をすることで疾病を未然に防ぐことを目指しました。この方式が長野県一帯に広がって、長野県は有数の長寿県となったばかりでなく、一人当たり医療費においても日本で最低水準とすることを維持しているのです。
 佐久総合病院は理想を求める医学生が目指す病院の一つとなっていますが。経営はJA長野厚生連の傘下にあります。いわゆる医療法人ではありません。一般的に協同組合病院といっても馴染みがないかもしれませんが、JA厚生連傘下の病院は全国に100カ所を超え、日本生活協同組合連合会傘下の医療生協も116団体、76病院を数えます。日本赤十字や済世会病院系列の病院数も100カ所内外であることからみても、協同組合病院が日本の医療を支える一翼を担っているといっても間違いでありません。
 国際的にも評価されているその組合病院を考え出したのが賀川だったのです。