『死線を越えて』の売れ行き

1920年10月3日、『死線を越えて』は改造社から発売された。
「毎日トラックが店先に並び店員は列をなして掛け声とともに『死線を越えて』を手渡しつつトラックに積み込んだ」

 刷る先から売れ、在庫は一字もなかった。2カ月に8刷。当時の1刷は5000部であるから4万部。年が明けて売れ行きはさらに拡大し、1年間で210刷、105万部に達したことが「改造」の大正11年1月号に出ている。(横山春一)

大正期としては未曾有に出版である。しかも改造社としても初めての単行本だった。それまで最大のベストセラーが徳冨蘆花著『不如帰』の30万部だったから、超弩級の出版だったといっていい。賀川豊彦は名も知れぬスラムの聖者から、一躍国民的スターにのし上がった。

当時の社会はまだ貧しく、単行本などは回し読みが多かったはずだから、数百万人が『死線を越えて』を読んだといっても間違いないだろう。その当時、流行語大賞などというものがあったとすれば、『死線を越えて』は確実に1921年の大賞となったはずだ。

それまでの12年、賀川は少なからぬ講演者からの寄付金を仰ぎながらも、日々、1円、2円が不足するという生活で疲れ果てていた。『死線を越えて』の最初の稿料は1000円だったが、社長の山本実彦の判断でただちに印税方式に切り替えられた。そして賀川は10万円を手にした。現在の価値でいえば10億円だ。賀川の驚きと喜びはどんなものだっただろうか。だが、賀川は相変わらずスラムに住み続け、すり切れた着物で過ごしていた。

中巻の『太陽を射るもの』の人気はさらにすざましかった。大正10年11月28日、発売後15日で100刷を重ねた。東京中の印刷所が総動員されたはずだ。最終的に200刷り100万部と推定されている。下巻の『壁の聲きく時』は50万部だったという。