2008-09-01から1ヶ月間の記事一覧

賀川豊彦を世に出したのは村島帰之さんです

神戸賀川記念館館長の村山牧師から、意外な話を聞いた。 「賀川豊彦を世に出したのは村島帰之さんです。先生の片腕だった。毎日新聞の記者ですよ」 この連載を始めたころ、労働記者の草分けで賀川のベストセラー「死線を越えて」出版の橋渡しをした先輩がい…

賀川豊彦献身100年−近代日本化のグランドデザイナー(下)2008年5月28日付け徳島新聞

賀川豊彦記念館館長 田辺健二(徳島新聞2008年5月28日掲載) 賀川豊彦は、1888(明治21)年7月10日、賀川純一とかめの二男として神戸市で生まれた。しかし、4歳の時、両親が相次いで亡くなり、93(明治26)年、徳島県板野郡(現鳴門市大麻町…

賀川豊彦献身100年−近代日本の代表的社会運動家(上)2008年5月27日付け徳島新聞

賀川豊彦記念館館長 田辺健二(徳島新聞2008年5月27日掲載) 近代化の矛盾と闘う 貧困者や社会的弱者のために1909(明治42)年12月24日のクリスマスイブの日、21歳の賀川豊彦(1888−1960年)は、わずかな身の回り品と書物とを積んだ大…

書評『賀川豊彦』(隅谷三喜男著)=松尾尊允

兵庫県関係のすぐれた歴史書を推薦せよとの依頼を受けてとまどった。神戸には学生時代からしばしば訪れ、最近惜しまれつつ閉店した後藤書店をよくのぞいた。楠公さん近くには父の従兄の俳人岩木躑躅が接骨院を営んでいた。虚子門下の最長老である。川西氏に…

歌碑「悲しみを忘れて」

「悲しみを忘れてわたる太平洋 平和の繋(つな)ぎむねにひそめて」 松山市道後姫塚の平和記念広場に賀川豊彦の歌碑がある。まだ訪ねたことはない。生誕100年にあたる1988年の前年、草むらの中に横倒しになったままの大理石の歌碑が見つかり、松山市…

マッカーサーに平伏さなかった唯一の日本人 1945年8月30日付け読売新聞

2003年、アメリカはイラク戦争を「衝撃と畏怖」と命名した。1996年にアメリカで発行された同名の軍事理論の研究書名に由来するのだそうだ。戦争をいかに短期間で終結させるかを研究した内容で「核兵器を使用せずに、広島と長崎への原爆投下が日本人…

千葉大で杉浦秀典氏が講演会「賀川豊彦を読む」

21世紀CEOプログラム「持続可能な福祉社会に向けた公共研究拠点」 千葉大学大学院人文社会科学研究科主催 対話研究会テーマ:賀川豊彦を読む 報 告:杉浦 秀典氏(賀川豊彦記念・松沢資料館学芸員) 日 時:9月30日(火)13:00〜15:30 場 …

「一粒の麦」 愛知県設楽町

3月の中部毎日新聞の地方版「東海ワイド」に賀川豊彦の小説「一粒の麦」の舞台を訪ねた記事が掲載された。三河地区の有志による運動の賜物だと考えている。三河地区ではキリスト教教会やみかわ市民生協を中心に賀川豊彦の“ルネッサンス運動”が立ち上がって…

Axelingの伝記「Kagawa」

賀川豊彦の伝記は海外でも数多く書かれている。一番有名なのは1932年、賀川44歳のとき、アメリカ人のウイリアム・アキスリング氏が書いた「Kagawa」だった。ただちに9カ国語に翻訳され、賀川の存在を世界に知らしめた著書となった。日本語訳は遅れて…

清水安三の北京時代

桜美林創立者:清水安三の北京時代(桜美林学園のホームページから転載) 桜美林学園理事長/学園長 清水 畏三 ■ご挨拶: 本日は、北京大学(北大)の創立100周年を記念して開かれるシンポジウムであります。従ってまず北京大学の先生方に、心から「おめでとう」…

協同組合と賀川豊彦(6)

主な論旨『日本協同組合保険論』は戦時中に有光社から出版されたが、手元にあるのは『賀川豊彦全集』第11巻(キリスト新聞社)所収のものと『協同組合の名著』第9巻(家の光協会)所収のものである。『全集』第11巻の解説は武藤富男(キリスト新聞社社…

協同組合と賀川豊彦(5)

四・賀川豊彦の協同組合論 1・賀川論と賀川の協同組合論の間 賀川の評価は生前から諸説紛々であったが(注42)、協同組合運動にかぎっていえぱ彼の評価は高いと考えていた。が、そうでもないらしい。賀川論のついでに、彼の協同組合運勤を批判する人がい…

協同組合と賀川豊彦(4)

(3)農協共済事業の開始と保険資本との攻防 協同組合保険が挫折すると、農協内部には農協法一○条一項八号の共済規定の解釈と今後のあり方をめぐって、大きくは二つの流れができた。一つ目の流れはさらに二つに分かれるが、その一つは協同組合研究会に給集…

協同組合と賀川豊彦(3)

三・賀川と戦後の協同組合 一・日本協同組合同盟の設立 国民は戦争中から食糧難による飢餓と物資不足に悩まされてきたが、敗戦によって都市部に住む多くの市民は焦土に投げ出され、毎日を食うことに追われていた。とくに衣食住が深刻で、疎開した人もしなか…

オーロラ市にやってきたTiny Giant 太田俊雄

賀川豊彦は1949年12月、世界宣教協会と世界キリスト教教育者協議会講師としてイギリスに飛んだ。その後、西ドイツ、北欧3国を経て、アメリカに渡った。1910年代のプリンストン大学への留学以来5回目の訪米であった。 占領下の日本で海外旅行など…

協同組合と賀川豊彦(2)

3・東京学生消費組合 明治期に同志社、農大などの教育実習や模擬的な学生消費組合が二、三現れたが、それらは学生の自主的な取り組みではなかった。関東大震災の直後にも、帝国大学農学部の学生、近藤康男(東大農学部教授・協同組合研究家)らが佐藤寛次教…

協同組合と賀川豊彦(1)

「共済と保険」99.9から転載 はじめに 日本政府は、消費者重視の社会をめざして、一九九三年に経済改革研尭会(平岩研究会)を設置した。平岩レポート(同年十二月)は「規制緩和によって企業には新しいビジネスチャンスが与えられ、雇用も拡大し、消費…

雪印乳業と黒沢酉蔵

日本のフォルケ・ホイスコーレについて語るとき、忘れてはならないのが黒沢酉蔵翁である。雪印乳業設立者の一人だった。昭和57年、95歳まで生きて、農村高等学校としての酪農学園(現酪農学園大学)を経営し、農村青年の育成に努めた。 雪印がもともとは…

デンマルク国のこと

戦前、日本が一等国への仲間入りを目指していた時、賀川はヨーロッパで新たな地平線を見出していた。「欧州の一等国は軍備の拡張や外交上のあつれきで血眼になっているのに、二等国、三等国はいつのまにかちゃんと平和な楽園を築いている」 北欧が軍縮を進め…

世界平和に向かって人々はどういう努力をしたか

『世界国家』から転載 賀川豊彦 近代国家の侵略戦争 近世になって、各民族はそれぞれ王を擁立して国内の統一をなかり、近代国家を作りましたが、その勢力が強大になるにつれ漸時周囲の弱小国家へ手を伸ばし、その領土を広げるようになり、そのため、世界の至…

雲水漂泊

賀川豊彦は戦前、アメリカを5回訪ね、ヨーロッパには2回行った。中国訪問は数えきれない。フィリピンにも行き、オーストラリア・ニュージーランド、南太平洋まで訪問している。戦前、最も多く世界を歩いた日本人の一人だったはずだ。 第1回目のアメリカは…

「世界国家」の歩み−その2−柿8年に実が実るか

世界国家1954年2月号 村島歸之 22年11月、第5号から「世界国家」の編集は合議制となり、小川、白水、岩間、斎藤潔、寺島の5委員は、毎月、編集会議を開いた。一方、同志も次第に増え、大阪、京都、郡山には支部が設立された。郡山支部では、雑誌「平…

「世界国家」の歩み−その1

世界国家1954年2月号 村島歸之 本誌「世界国家」はここに満8歳の春を迎えた。人間ならばまさに腕白ざかりというところ。しかも「世界国家」が歩んで来た8年は日本開びゃく以来の多事多難の時期だった。 歴史上かつてない敗戦という厳粛な現実に直面した日…

侵略者の末路

賀川豊彦を論じるというより知ってもらいたい。そんな気持ちがずっとある。僕が書く賀川の姿より、すでに書き手としての賀川がその昔、存在していて多くの共感を得ていた。 僕が感動したいくつかの賀川の文章を読むことから賀川を知ってもらいたい。次に紹介…

近衛・ルーズベルト・賀川−日米外交秘話

賀川豊彦は1960年4月23日、昇天した。当時、明治学院大学教授だった園部不二夫氏は、4月27日付けの毎日新聞で次のように書き、賀川をめぐる太平洋戦争前夜の秘話を公開した。 十カ月前、毎日新聞社から『宇宙の目的』という最後の快著を出版した賀…

空中征服

賀川豊彦の『空中征服』という小説を読んだ。大正11年に大阪日報に連載したものを同年12月に改造社から出版。出版した月だけでも11版を重ねた。『死線を越えて』がベストセラーになった2年後であるから、評判を呼んで当然だったのかもしれない。 この…

涙の二等分

賀川豊彦は1919年に「涙の二等分」という詩集を発表した。伝道のため神戸市葺合新川の貧民窟に入ってまもなく、「貰い子殺し」という“商売”があったことを知り、なにより悲しんだ。「貰い子殺し」というのは貧困や何かの理由があって育てられなくなった…

+世界連邦実現講演会のお知らせ

NPOアジア連邦21と財団法人国際平和協会などの共催で下記の通りシンポジウムを開催しますのでお知らせします。お時間がありましたら、ぜひご参加くださいますようお願い申し上げます。 日時:9月6日(土)午後6−9時 場所:学士会館202室(千代田…

EUの理念の一つとなった賀川豊彦の発想

いま、賀川豊彦の『死線を越えて』という小説を読んでいる。大正9年に改造社から初版が刊行されてミリオンセラーになり、いまのお金にして10億円ほどの印税を手にしたとされる。賀川豊彦は、神戸の葺合区新川の貧民窟に住み込み、キリスト教伝道をしなが…