オーロラ市にやってきたTiny Giant 太田俊雄

 賀川豊彦は1949年12月、世界宣教協会と世界キリスト教教育者協議会講師としてイギリスに飛んだ。その後、西ドイツ、北欧3国を経て、アメリカに渡った。1910年代のプリンストン大学への留学以来5回目の訪米であった。
 占領下の日本で海外旅行などはほとんどご法度だった時期に一年にわたり欧米諸国を歴訪し、各地で講演した。この時の講演を聴いた世代はまだまだ世界各地に存命のようである。すでにアメリカのアクセリング氏によって賀川の伝記が書かれていたが、極東の黄色人種の伝道者は「Tiny Giant」と呼ばれ、どこへいっても絶大な人気を博した。
 当時の賀川豊彦という人物を誰に比してよいのか分からない。世界的人望という点では少なくとも過去の日本の歴史にはいないと思う。ひょっとしたらインドのガンディーと比すべきなのかもしれないが、ガンディーはインド独立のために身命を投げ出したが、自ら貧民窟に入って救済にあたったわけではない。
 まずは貧困救済家であり、社会事業家として改革のリーダーシップをとった。もちろん膨大な著作を通じて社会を啓蒙する思想家としても一流だった。それから何よりもキリストを信じる使徒の一人だった。
 1950年に訪米した時の熱狂ぶりを伝えるコラムをみつけた。欧米での賀川の講演にはいつも数千人規模の人が集まり、時には万を超すことも稀ではなかった。「カガワ点描」と題し、1959年に日本聖書神学校教授だった太田俊雄氏が滞在先のインディアナポリス市で書いたもので、『百三人の賀川伝』(1960年、キリスト新聞社)に収録されている。以下、その一部を転載したい。

 私は今これを北米イリノイ州ネイバヴィルの母校エヴァンゼリカル神学校の寮の来賓室で書いている。今から8、9年前、先生が、ここから20マイルのオーロラ市に講演に来た時、私はこの寮に住んでいた。「カガワ来る!」というのは大変なニュースで、当日午後は全クラス授業中止。教授、学生全員オーロラまで車をつらねて出かけることになった。
 私は一躍、学校の人気者になってしまった。学生たちが次々と「カガワ」の予備知識をうけるべくわたしのところへ集まるからである。
 いよいよ当日、熱心党が5、6人「トシオについて行けばカガワに直接会えるかもしれない」「トシオ紹介してくれよ「あのチビの巨人(Tiny Giant Kagawa)と握手させてくれ」などといってくる。「2時間前に会場に着いていないと入れないだろう。早く出かけよう」とせき立てる。私だけがのろのろとしていたため出発がおそくなって、途中で同乗に友人たちから「万一カガワに会えないようなことがあったら、お前がのろのろしたせいだぞ。承知せんぞ」とおどされる。それでも楽しいドライブをしてオーロラ市に着いた。
 会場の近くはもう自動車のはんらんで、にっちもさっちもいかない。いやおどろいた。交通整理の警官がたくさんに出て、一生けん命に車をさばいている。駐車する場所がない。やっと何丁か先の方にパーク(駐車)して、走るようにして会場にかけつけると、会場の入り口から逆にどこかへぞろぞろと行く人の行列だ。会場に急ぐわれわれに向かって「もうダメですよ。満員です」という人がいる。まだ1時間半以上のあるのにと、半信半疑で会場入口なで行くと、まったくその通り。「第二会場をつくりましたから、そちらにおいでください。この先の教会です。第一会場には、もう地下室からバルコニーまで席はひとつも空いておりません。立派な拡声器が用意してありますからドクター・カガワの声がはっきりきこえます。まことにお気の毒ですが声だけでがまんしてください」と主催者側がくりかえしている。
 友人たちに「お前がぐずぐずしていたからだ」と、文句をいわれながら第二会場へ急ぐ。そこでも「もうバルコニーから地下室までいっぱいです。ただ一つあいているところはクワイヤー(聖歌隊)席の最前列中央です」といわれ、会場正面に階段式に作られたクワイヤー席の最前列に案内された。クワイヤー席だけでも100人分以上ある。そうした大教会のバルコニーまでギッシリつまった会衆の真正面に、その注視をあびて座った時は妙な感じであった。私はヤットおちついた。そしてカガワ先生の人気に今さらながらおどろいた。いっしょに座った友人たちは、まだあきらめきれず残念そうな顔をしている。
 友人たちは外国伝道という課目で、世界中の著名な伝道者10人をえらび、それぞれのグループにわかれて研究してきた。その10人の1人がカガワなのだから、この「巨人」の肉声をきけなくとも、マイクを通ってくる彼のメッセージを直接きけることは、彼らにとって、それだけで一つのインスピレーションなのだ。
 マイクを通していろいろなメッセージがあった後、われわれは、ハッと緊張した。
「ただ今ドクター・カガワが会場に到着しました。第二会場の人々に申し訳ないから、まず第二会場に行って、5、6分間挨拶し、それから第一会場で予定どおり話します、これはドクター・カガワの提案です、時間の都合もあり、先生は疲れておられますから、地下室の方々は両会場とも声だけでがまんしてください……」
 まもなくカガワ先生が責任者の一人に先導されて講壇に立つ。全員起立して万雷の拍手をおくる。先生の後頭部が私の足もと近くに見える。
 先生が挨拶して壇上からおりようとする時に、司会者が小さな紙切れを先生にわたした。先生はそれを顔に近づけて例の調子で読むと、クワイヤー席をふりかえり、私に向かって最敬礼に近い礼をし、こちらに向かって手をさしのべ、「How do you do, Ohta sensei」と英語で挨拶をした。私は前へのり出すようにして、やっと足もと近くにのべられた先生の手をつよく握った。
 司会者が「ドクター・カガワの直接の友人、同労者がここに見えています」といった。全会衆は興味と好奇心とをもってわれわれを注視していたが、なりやんだ拍手がもう一度なりひびいた。「穴があれば入りたい」とはあの時の私の感じであった。この時の「最敬礼」みたいな礼とただひとこと、「ハウ・ドウ・ユー・ドウー、オオタセンセイ」という挨拶! とっさの間に演ずるあの芝居は大根役者にはできない。世界の「巨人、カガワ」の貫録をいかんなく発揮したのであった。友人たちはカガワを目の当たりに見て、そのジェスチュアーに打たれ、「おくれて来たおかげで、この目でカガワを見た」よろこびを何度もかたった。彼らは「カガワのにぎった手を、その熱のさめないうちにおれにもにぎらせてくれ」と次々と私の手をにぎった。
日本聖書神学校教授・太田俊雄(1959年2月23日、インディアナポリス市にて)『百三人の賀川伝』(1960年、キリスト新聞社)から「カガワ点描」