協同組合と賀川豊彦(2)

 3・東京学生消費組合

 明治期に同志社、農大などの教育実習や模擬的な学生消費組合が二、三現れたが、それらは学生の自主的な取り組みではなかった。関東大震災の直後にも、帝国大学農学部の学生、近藤康男(東大農学部教授・協同組合研究家)らが佐藤寛次教授の指導で、「駒場学生購買組合」の設立を試みたが実現しなかった。このころから新興消費組合や大正デモクラシーの影響を受けて、法政大学や慶応大学に学生消費組合が設立されたが、いずれも失敗して解散(一九二五・大正十四年)した。この年、早稲田大学の社会問題研究室で消費組合の研究を始めたが、あわせて消費組合運動として取り組むことになった。

 東京学生消費組合の発起人会(一九二六年四月十九日)は神田YMCAで開かれたが、設立趣意書では「(物価の騰貴は)学生生活にとっても大いなる苦痛であって、とくに靴、洋服、書籍、文房具等学生必需品の過騰な価格に悩む人々は少なくない。これ等の気の毒な境遇にある学生を救済し、その生活費を軽減し、学生の本分を十分に達成せんがために、去る二月以来、賀川豊彦安部磯雄、末広厳太郎、沢田謙の数氏その他産業青年会の同志(木立義道)等が中心となり、よりより協議なりしところ、この程漸く東京学生消費組合の設立を見るにいたった」(『早稲田大学新聞』大正十五年四月二十九日号)と言っている。

 その後学校と交渉したが、大学の承認が得られないので大学正門前の青写真屋の青陽堂と富塚玉突屋の間の店舗を借り受けて、「早稲田大学学生消費組合」の看板を掲げ、洋服と靴の予約注文から営業を始めた。安部磯雄早稲田大学政治経済学部教授・社会問題専攻)は早稲田

大学新聞を通じて、学生が消費組合に多数参加するように呼びかけたほか、賀川豊彦と二回にわたって消費組合の講演会を聞いた(注一二)。宣伝が成功し、店舗開設から短期間で組合員が七七四名に達したので、店舗を東京府豊多摩郡戸塚町字下戸塚一六番地(現・新宿区戸塚町一丁目一○一番地)に移転(一九二六年九月十三日)し、看板を「東京学生消費組合」に改めた。そこには「自由平等協力一致」のスローガンが書かれていたが、同年十一月一日に産業組合法の認可を受けて「有限責任購買組合東京学生消費組合」(注一三、一四)を正式に発足させ、初代組合長に賀川豊彦、専務理事に早稲田の卒業生、松浦武夫を選出(注一五)した。

(注一二)第一回消費組合講演会(一九二六、大正十五年五月十四日)は学生三○○余名が参加。第二回消費組合講演会(一九二六、大正十五年六月十五日)は三一○○余名が参加。演題=安部磯雄「消費組合について」、賀川豊彦「消費組合の理解と実際」。

(注一三)東京学消の英文名=Tokyo Student's Cooperative Society

(注一四)学生の資金集めが困難なため、賀川が農村消費組合協会を通じて「死戦を越えて」の印税一○○○円を提供した。

(注一五)賀川らが学消役員になったのは、未成年の学生が有限責任組合の役員になることを、監督官庁の商工省が認めなかったからである。

 以後、数年の間に東京学消支部が各大学に設立されたが、拓殖大学では大学の公認・全学生加入・学内店舗設置という条件を獲得して東京学消拓大支部を設立(一九二七・昭和二年一月)した。さらに、東大赤門支部立教大学支部、明大駿河支部明治学院白金支部、法政大学富士見丘支部などが誕生している。特徴的なことは、拓大や立教のように学校が公認した有利な支部ほど、学生の自主的な活動が弱いために売り上げが漸減し、立教は一九三二年に組合員がゼロになり、拓大も三六年にほ消滅した。

 その間に、松浦専務の不明朗な会計処理や反動的言動に対する学生の批判が強まり、松浦が辞任したのでやむなく組合長の賀川が専務となり、学生運動に理解のある伯爵有馬頼寧が組合長になった。そのために、消費組合の経験をもつ高岡高商出身の杉善が専務代行で賀川を補佐したが、これまでは有名人で占められていた理事に、赤門学消出身の賀来広一郎が加わった。当特の学消は、モスクワ派の関東消費組合連盟(関消連)に加盟を主張する早稲田と脱退をかけて反対する拓大の二派が対立していた。給果として加盟は実現しなかったが、関消連と学消の関係が密接であったために、警視庁は学消を左派の巣窟とみなして各支部の店舗に特高を張り込ませ、活動家の学生を逮捕して弾圧した。

 当時(一九三一・昭和六年)、学消駿河支部の活動家だった山岸晟(あきら)は、「赤門、拓大以外は、毎月赤字でその尻ぬぐいを賀川先生に頼み、その連絡を私がいつもやらされていた。それは、私と赤門の学生委員以外は三力月と続かず、地味な学消から派手な地下運動に入っていく学生が多かったからである」一と述壊している。その山岸も、産業組合中央会の千石興太郎主事の薦めで共同会に内定していた就職を断り、卒業すると賀川に

学消理事の推薦を受けたが断って、笠原千鶴の紹介で関消連の消費組合運動オルグになった。山岸はその後、学消専務理事の推薦を受けて理事長の賀川を補佐するようになったが、彼も一九三三(昭和八)年に警視庁に逮捕されている。

 賀川は、山岸のような活動家のもらい受けに奔走した。学生委員には、左派系の学生が少なからずいたからである。その後もしだいに検束者が増え、学消の店には毎日特高が立ち寄るなど、さまざまな圧追が加わったし、来店する学生も少なくなって学消維持が困難になった。その給果、拓大支部の学消脱退、明大駿河支部の活動の消減、早大支部の解散(一九三七・昭和十二年五月十五日)(注一六)などが続き、赤門支部でが八人の学生委員が検束される非常事態(一九三八年・昭和十三年四月)が起きた。あげくに、学消専務の山岸晟は警視庁特高課に呼び出され、内務省の指示で解散を命ぜられた。山岸は学消が産業組合法による合法団体であることを主張したが、経済団体ではなく思想団体であると決めつけられ、学生委員もやむをえず解散を認めた。一九三九(昭和十四)年五月のことである。

(注一六)「早大学消解散宣言」=全早大生諸君我ガ早稲田学生消費組合解散ハ十五日組合員総会ヲ以テ最終的二決定ス学消運動十年ノ歴史ハ今ヤココニ帰ラヌ残骸トナッタ全早大生諸君昭和十二年五月十五日ヲ銘記セヨ

 早稲田二於ケル自主的学生ノ全面的敗退ノ日ヲ最後ノ残塁サエ終二吾々ノ手ニ依ッテ守リ得ズ終ワック ダガ 全早大生諸君吾々ハ前進ス 残骸ノ上ニ吾々ハ成長ス 幾年後カ吾々ノ手ニヨッテ再建サレンコトヲ記憶セヨ

 それからの学生は学徒出陣で死と向き合い、学ぶことは食うことであった。大学で授業が再開されたのは一九四五年九月十五日からだが、学園には反軍民主化運動が非常な勢いで起こり、十月から十一月にかけて開かれた学生大会では民主的教育の促進、自治会活動の開始、学園の復興、厚生組織の確立などが確認され、並行して大学生協の設立が進められた。このころから学徒動員学生が戦地から復員して学校に姿を現し始めたが、早くも四七(昭和二十二)年五月には関東地方三六校の生協により関東地方協同組合連合会が結成され、これを基礎に「全国学校協同組合連合会」(全学協)が設立された。

 理事長には南原繁東大総長(東大協同組合理事長)、常任理事・近藤秀男学徒援護会管理部長、中林貞男日協同盟中央委員、学生からは海軍予備学生で復員してきた東大生、勝部欣一(元日生協専務)らが役員になった。「残骸ノ上二吾々ハ成長ス 幾年後カ 吾々ノ手ニヨッテ再建サレンコトヲ記憶セヨ」という早大学消解散宣言が、早くも実現したわけである。当時と施設も人も違うが、賀川が生み育てた学消の伝統は引き継がれ、その後は全国大学生活協同組合連合会大学生協連)と改称(一九西七年五月)して今日に至っている。

 4・東京医療利用組合

 賀川は神戸新川の貧民窟での生活体験と、社会事業や労働農民運動の実践を通して貧困者が疾病でいかに困窮するかを肌身で知っていたから、医療問題には深い関心をもっていた。賀川自身が病気の問屋であったが、当時の日本は文明国のなかでは最高の死亡率であり、しかも東京市内では富裕層の多い麹町の死亡率が千分比で九・六、神田九・九、日本橋九・二、京橋七・四にたいして、貧困層の多い浅草が一四・一、本所一四・一、深川一五・一となっており、下町ほど死亡率が高かった。これは貧困が疾病を招き、高い医療費のために疾病が貧国を招くという悪循環になっていたためで、貧困が医療地獄を招いているのは明らかであった。そこで賀川は、医師の馬島福と新川にイエス団友愛救済所を設け、義妹の芝八重を女医にして診療所に勤務させ、後には娘の千代子を女医にして東京・中野組合病院で働かせた。

 社会的に医療問題を解決しようとすれば、健康保険を農民も含めた全勤労者に適用することが、だれでも医療を受けられる前提になる。ところが、工場労働者と鉱山労働者を対象にした健康保険制度の実施は、一九二七(昭和二)年一月まで待たなければならなかった。農民はその後も放っておかれたが、青年将校が決起した五・一五事件で農村恐慌の社会問題化を恐れた政府は、事態を沈静化させるために「国民健康保険制度要網(試案)」(一九三四・昭和九年)を発表した。ところが、相も変わらぬ医師会の猛反対で国民健康保険制度と産業組合代行法案が成立したのは、一九三八(昭和十三)年四月一日のことである。

 この間の産組と賀川の努力はたいへんなものだったが、並行して賀川は組合病院の設立と医療共済制度の確立に全力をあげた。「国民健康保険」と「組合病院」と「医療共済」は三位一体でなければならないからである。とにかく、農村恐慌と大飢健で食うものも売るものもなくなった農民は、娘を売って当座をしのいでも病気にかかると医者にみてもらえない、医療地獄におかれていたからである。医療共済制度は黒川泰一のいた全医協(全国医療利用組合協会)が取り組んだが、組合病院でいかに医療費が軽減されても農民にとって医療費は高額で、共済制度の確立は最低必要条件であったといえる。

 黒川の調査によれば、福岡県鞍手郡古月村の産業組合は総戸数三七五戸、人口一三七一人の小村であるが、一九三六(昭和十一年に無医村になった。そこで診療所を開設することになり、医療費支払いの困難による滞納防止と経営の安定や相互扶助観念を徹底するために、以前から同地方で行われていた定礼(じょうれい)制度を採用した。村医当蒔の医療費は、過去三年問の一戸平均が三○円二○銭で一人当たり四円九三銭であったが、組合が医療事業をするので半額の一戸平均一五円の予算で足りると計算し、その半額を共済制度として一戸平均米二斗を徴収することにした。残額は患者の一部負担にし、極貧者には利用料を免除したというが、一戸当たり医療費は平均一四円一五銭で従前の半額になった。全医協では産組中央会と共同で医療組合運動と保険共済制度を推進した結果、全国的にもかなりの普及をみたという。

 さて組合病院だが、その第一歩として取り組んだのが東京医療利用組合の開設である。相談は、正月気分のまだ抜け切らぬ一九三一(昭和六)年一月十日に、賀川の家でYMCA牧師・石田友治、松沢病院精神科医・加藤普佐次郎、松沢教会・小川清澄牧師、阿佐ケ谷牧師・高崎能樹、江東消費組合専務・木立義道、二年間の監獄生活(四・一六事件で逮捕拘留)を終えて年末に釈放されたぱかりの黒川泰一に賀川が加わって始められた。東京医療利用組合の設立準備は木立と黒川が担当し、創立事務所は本所産業青年会にした。

 設立のための調査は、賛育会病院、あしか病院その他で、内容は診療科目、医師数、看護婦と産婆数、従業員数、病院の敷地と建物の規模、病床数、外来・入院患者別診療収入、経費支出の状況、設備内容、建物・設備・敷地などの開設費、患者の支払い診療費などであった。そのほかに病院経営の問題点などだが、前記病院は医療に困っている人たちを対象につくられた施療病院だったので、面倒なことでもよく教えてくれた。

 一方、調査によれぱ、全国で一万二○○○カ村のうち、無医村は二九○九カ村(一九二五・大正十四年)だったが、一九二九(昭和四)年には無医村が三二三一カ村に増えており、農村恐慌(注一七)と世界恐慌と昭和金感恐慌(一九二七・昭和二年二月)の余波が重なって、大正より昭和に入ってからのほうが農村の死亡率が高く、組合病院の創設が焦眉の課題となった。

 (注一七)農村恐慌の実態=キャベツ一○個で敷島(たぱこ)一箱、蕪(かぶ)一○○把でバット(たぱこ)一箱しか買えない。繭は三貫、大麦は三俵一○円で肥料代にしかならなかった・農林省調査(一九三二・昭和七年)によると農家の負債は四七億一〇〇〇万円。同年の新潟県農会負債原困別調査では、農産物の値下がりによる赤字が第一位で、病気が第二位になっている。

 このような農村の実態から、どうしても組合病院を成功させなけれぱならなかったので、候補地の選定は慎重に行われた。最初は江東デルタ地帯があげられたが、社会政策による施療病院が多かったので、これからは東京が西にのびることを考忘して西部地区で探すことになった。交通網、住民意識、医療施設などを黒川が調べた給果、新宿を中心にした一帯が選ばれた。調査と同時進行で賀川を中心に組合病院の設立準備も進められ、設立代表者には新渡戸稲造博士が就任した。ただちに、東京府知事に産業組合法にもとづく「東京医療利用組合設立認可申請書」を提出(一二九三一・昭和六年五月二日)したが、主な組合役員としては新渡戸組合長と賀川が専務に内定した。

 藤沼庄平東京府知事は一高の出身で、その時の校長は新渡戸であり、賀川とも知り合いであったが、医師会は猛烈に反対した。権益擁護のためにはなんでもあり、という姿勢は今も変わらないが、主な反対理由は次のとおりである。

 ①組合医療はわが国伝統の開業医制度の美風を破壊する。

 ②乱診乱療となり医療内容が低下する。

 ③医師を被傭人化し、診療の商品化を招来する。

 ④産業組合の事業領域から逸脱している。

 ⑤事業経営が困難となり、組合員に返済上の損害を与える。

 認可申請書は、内務省衛生局が握りつぶして一年近くも経過したが、その間に組合員は増え続けて約一○○○名になった。東京医療利用組合は、四谷区新宿二丁百の鎌倉館という旅館を買い取って組合診療所の開設準備を終わり、神田のYMCAで組合員総会(一九三二・昭和七年四月二十五日)を開いて経過報告と今後の対策を協議した。組合員からは「当局の認可を待たず、任意組合として事業を聞始せよ」という強行意見が続出して混乱したが、賀川が議長として説得して無事終了した。一方、同日から大阪市中央公会堂でも第二八回全国産業組合大会(同年四月二十五〜二十六日)が開かれていたが、これにも出席した賀川は産業組合中央会東京支会が緊急提案した「東京医療利用組合設立認可促進の件」をみずから説明し、産業組合(産組)が全力をあげて取り組むことを満場一致で決定した。

 が、ここでも「認可が下りないなら任意組合で診療を始めたらどうか」という発言があった。賀川はこの発言にたいしても、東京医療利用組合は組合病院を全国に広げる違動の第一歩であり、日本の医療の将来を担う大事な運動であるから、あくまでも認可を得る必要があることを説き、無認可で始めることは相手の挑発にのることになると説得した。他方、すでに組合医療を実施していた全国の組織代表一五人が集まって、大阪キリスト教青年会館で「全国医療組合協議会」を拮成した。産組で組合病院の組織的支援を決める前日のことだが、貧しい人たちを医療地獄から解放するために、組合病院の全国組織を結成して医療体制の強化をはかる協議であった。これらの組合病院は、医療に苦しむ農家のために自然発生的に始めたので小規模であり、農村恐慌の影響で医療査の未納が多く、経営不振に陥っていたからである。

 ところが、このような産組や賀川の努力にもかかわらず、「反産運動」(注一八)と医師会の組合病院反対運動が結びついて、認可はより政治問題化した。折しも、五・一五事件が突発して犬養毅首相が狙撃され、内閣は総辞職したが、その数日後に藤沼東京府知事が警視総監に任命されることになった。組合側は「この機会を逃したら、医療組合運動は永久に葬られてしまう」と幹部が府庁にかけつけて知事に認可を迫ったが、医師会側も知事の動きを封じるために策動したので、藤沼知事は「東京医療利用組合認可申請音」に認可の押印をし、人目を避けて府庁の裏口から警視庁に向かったという。

 (注一八)反産運動旧米穀商、肥料商、木炭商などの農業三法(産繭処理統制法案、米穀自治管理法案、肥料業統制法案)粉砕と産業組合への補助金打ち切り運動。

 病院は前述の新宿二丁目の旅館を改造して、外科、内科、小児科、産婦人科、歯科の総合病院とし、ベッド数は一三で各科に専門医が一名常勤した。開所式は一九三二(昭和七)年七月九日で、開業当座は組合員がどっと押しかけて混雑し

たが、日がたつにしたがってしだいに患者数が滅りだした。黒川が調査してみると、患者は軽い病気は近所の開業医に行き、重い病気は遠くても設備の整った大病院を選択していることがわかった。要するに、組合病院はそのような患者の要求にこたえていなかったわけである。そこで黒川は、賀川への相談なしに適地調査をすることにし、とりあえず中野を選んだ。

 幸いにして、中野町長の森俊成子爵に紹介を得て話をしたところ、協力の快諾を得た。こんどは、中野消費組合の須貝又七ら三人の青年の協力を得て、「参加」「出資」「事業利用」について住民によく説明し、組合員の募集を始めた。出資は一口一○円だが、米一俵一○円のころの話であるから大変だったが、分割払いも認めて苦労のすえに組合員一五○○名を獲得し、中野組合病院が落成した。敷地一○八坪、二階建て延べ一五八坪、病室二一、院長は東京市社会児童係長の職を辞した広瀬興博士で、事務長には黒川がなった。新宿診療所の欠損金は約二万円あったが、賀川が穴埋めをした。

 賀川は一九三五(昭和十〉年に、全豪州基督教連盟の招待でオーストラリアを訪問した後、ニュージーランドYMCAの招きで引き続き現地を巡回した。三十日間の滞在中に、九○回で約六万一○○○人の人々(聖職者、知識人、官吏、学生など)に講演し、その合間に地質学、生物学、動植物群の研究と工業・農業・科学施設、監獄、精神病院・病院、児童福祉施設などの見学をした。トルビー・キング病院の見学もその一環で、育児法の確立者として有名なキング博士は病床に就いていたが、賀川はその業績を知って深い感銘を受けた。賀川はミルク工場も見学し、中野組合病院の参考にするために病院の乳児ケアの映像を持ち掃ったが、キング博士に頼んで育児担当の看護婦が東京に来て指導をしてもらうことにした。当時のことであるから後者は実現しなかったが、超多忙なニュージーランド訪問中にも中野病院と患者に気配りをしていたことがわかる。

 5・産組の保険進出(共栄火災の誕生)

 日本最初の近代的保険会社は一八八一(明治十四)年に設立された明治生命だが、一八八九年には帝国生命、その翌年には日本生命が誕生した。さらに、日清戦争前後には多くの生保と類似保険が出現し、泡沫保険会社の時代を迎えた。これらの保険企業の多くは数年で倒産するか合併したが、社会的影響の大きさを考慮して政府は保険業法を制定(一九○○・明治三十三年七月)した。産業組合法の制定と同じ年であったが、協同組合保険という考え方がまだなかったので、保険業法は生保事業を「株式会社」と「相互会社」に限って認めた。その結果、協同組合は保険業法適用の道を閉ざされたまま、今日に至っている。

 日本で産業組合が、保険事業を実施すべきだという考え方を最初に主張したのは、佐藤寛次と道家斉である。佐藤は欧米に遊学(一九一八・大正七年)して諸

外国の協同組合保険を学び、二年後に帰国した。道家ほ、大正九年に萬国農事協会第五回総会に出席し、欧米諸国を視察して帰国した(注一九)。二人は同時に開かれた帰国歓迎会の席で、「海外の産業組合では、保険事業をしているところが非常に多い。保険組合は日本にまったく欠けているが、産業組合の相互的趣意からすると、もっとも徹底した事業であると思う」と報告した。この思想は産組内部でしだいに影響を広げ、福岡で開かれた第二○回全国産業組合大会(一九二四・大正十三年)(注二〇)では生命保険事業開始の件が提案されて満場一致で可決された。

 (注一九)岩倉具視欧米視察団の随員である「松井俊介」と「野口富蔵」は、訪英の折(一八七二年)にロッチデールに行って訪問者ノートに記帳している。残念ながら、二人とも明治期における協同組合の先駆者とはなりえなかった。

 (注二〇)賀川はこの大会の模様をテーマに「乳と蜜の流るゝ郷」を書いた。主人公の東助は、産組の信用組合と生保事業の兼営を主張している。

 賀川もこのような動きに触発されて早くから保険に関心をもっており、「国民健康保険と医療組合」(『医療組合運動誌』一九三二・昭和七年十一月号)を発表して、国営より組合営のほうが道徳的訓練が厳格に行われるし、医療設備や恵与(給付)金も組合の節制で少額で足りることを主張した。国民健保の産組代行法案は、産業組合や賀川たちの努力で医師会の猛烈な反対を押し切り、一九三八(昭和十三)年四月一日に公布された。これで、前述した「国艮健康保険の産組代行」「医療共済」「組合病院」という貧困者の医療三点セットは前進したが、並行して取り組んだ協同組合保険は保険資本の強い反対で実現しなかった。

 そこで賀川は、協同組合保険の実現をはかるために、超多忙な活勤(注刻二一)の合間を縫って研究と宣伝に全力を投入した。賀川は一九三五年にオーストラリアとニュージーランド、ハワイを伝道旅行したが、早くも同年末にはアメリカ政府と全米キリスト教連盟の招きで渡米し、協同組合運動について巡回講演した。さらにその足でノルウェーなど一五力国を歴訪し(一九三五年十二月五日〜三六年十月十二日)、おもに協同組合保険の研究をした。賀川はこの長期旅行で講演し、かつみずからも学んだが、この欧米旅行中に英国在住のN・バルウ(Noah Barou 一八九九〜一九五五年・明治三十二〜昭和三十年 ロシア人)(注二二)と会い、欧州の協同組合保険について話し合った。バルウの『協伺組合保険論』の翻訳権を得たのは、帰国後である。

 (注二一)長谷川初音(神戸女学院教授・牧師夫人)は、超多忙な賀川への批判について「責任が果たせるとか、続くとか、何とか言っている人は皆、何もしないで人生の夕暮にたたずんでいるわけです」(『神はわが牧者』田中芳三編著)と反論して賀川を弁護している。

 (注二二)N・バルウはロシア生まれで、ロシア革命(一九一七・大正六年)直後から協同組合運動で活躍するが、一九一三年にスターリン主義に抗して英国に亡命した。ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(現ロンドン大学)で学び、シドニー・ウェップの指導を受けた。著書「協同組合保険論』でバルウは、ロンドン大学から経済学博士の学位を授与されている。

 賀川はバルウと会う前年には、すでにバルウに関心をもっていたとみえて、賀川社会問題研究所研究員の山崎勉治に依頼して、ホレース・ブランケット財団編『一九三五年農業協同組合年鑑』所載の「協間組合保険論」(N・バルウ著)を翻訳し、賀川の個人雑誌『雲の柱』に一九三五年から六回にわたって連載した。この三五年版は短文だが、一九三六年に出版した『協同組合保険論』の下敷きになった論文で、その中の「資本家保険の欠陥」「協同組合保険の本質と定義」「相互保険と協同組合保険」などは今でも参考になる。その後賀川は、膨大な三六年版の『協同組合保険論」を千田興太郎、山崎勉治、嶋田啓一郎、竹名勝男らの協力を得て一九三八年に翻訳出版した。

 また、一九三五年から三六年にかけての長旅の後、賀川は社会大衆党の大会で「保険制度の協同化」をテーマに講演(一九三六年末)し、生命保険会社の資産を分析して、協同組合保険の設立が組合員の利益になることを説いた。とくに産組が、設備投資のために必要な長期資金を得るには、生命保険の協同化を実現することが不可欠であり、そのためには保険業法を改正して協同組合保険の項を挿入する必要のあることを訴えた。この講演は大きな反響を呼び、大会では溝場一致の賛成を得たので、翌年には同名の論文を発表している。さらに、賀川は『国民健康保険と産業組合」(一九三六・昭和十一年)、『日本協同組合保険論』(一九四○・昭和十五年)を出版して、その重要性を社会に訴えた。

 一方、産組は毎年の大会で協同組合保険の実現を決議し、多くの努力を続けたばかりか、関係者も著書や論文を発表してその重要性を訴えた。それでも実現をみなかったのは、監督官庁の大蔵省が不許可の方針であったのと、保険業界が産組の進出に強く反対しでいたからである。ところがそのころ(一九三九年九月)、保険学者の井口武三郎が賀川を訪れて、阿部内閣の拓務大臣金光庸夫立憲政友会・中島派)が新日本火災保険を売り出しているという情報をもたらした。すでに産組は、二四回大会(昭和三年)以降は生保経営の困難性もあって火災保険の実現に集中するようになっていたから、賀川はさっそく産組中央会副会頭の千石興太郎と常務理事の浜田道之助に報告して検討を促した。

 産組中央会では、これまで進めてきた役職員共済会と拮びつけて保険会社の買収をすることになった。産組は極秘裏に検討を進めたが、その後金光は新日本火災、大正生命、日本教育生命の三社を一括売却する意向であることがわかった。ただちに実行委員会を設置し、井口武三郎も委員の一人になったが、調査の結果、新日本火災は経営不振だが生保二社の経営は悪くなかった。三社の買収価格を七○○万円とし、産組中央会は金光に内金二○○万円を支払って、一九四○(昭和十五)年一月十五日に大正生命三五○○株、新日本火災四○○株を受け取った。

 こうして産組は、永年の懸案であった保険経営を実現するかにみえたが、衆院

予算委員会松村謙三(立憲民政党)が産組の保険会社買収問題について農相に質問したので、保険業界の反産運動に火がついた。政府も動揺し、両院における島田農相の中止発言もあって三社の売買契約は白紙に戻り、日歩七厘の利息をつけて内金二○○万円は金光側から産組側に戻った。

 産組は「三保険会社を買収し、以て新時代に即応する公益的経営をめざして邁進したるも、不幸にして本計画を一時中止の己むなきに至りたるは洵(まこと)に遺憾に堪えず。しかりと羅も、相互共済的保険事業への進出が協同主義に立脚する産業組合の理論的実践的発展の一段階足ることの信念と決意に於いて毫末(ごうまつ)も変更を来すものに非ず」と声明し、今後も実現に向けて努力することを明らかにした。

 一方、太平洋戦争が進むにつれて戦地と国内の死亡保険金の支払いが増大し、生保会社の存立基盤が危うくなったので、生命保険中央会を設立して統制を強化した。他方、火災保険業界も一九四二(昭和十七)年十月にば損害保険統制会を設立し、会社の整理統合を促進した。一九三九年には四八社だった損害保険会社が、一九四五年には一六社に整理されている。このような社会情勢を背景として、産組中央会はふたたび保険経営の可能性を検討し始めた。前回の失敗を繰り返さないために、今回は問題の多い生保経営を避けて、比較的容易な損保経営に進出することにした。

 そこで保険業界の反対を抑えるために、業界トッブの東京海上火災の鈴木祥枝社長に協力を求め、東京海上火災系列の大東・大福の両損保を護り受けることになった。また、政治問題化を避けるために、帝国議会の閉会中に折衝を進めることにした。しかも、産組中央会副会頭・徳川義親個人の名義で株式を買い取ることにし、諸般の手涜きを終えて二社の合併も完了した。そして徐々に株式を産組側に移し替えて、一九四二(昭和十七)年七月一日に公称資本金八○○万円(払込貧本金二○七万五○○○円)の「共栄火災海上保険」が誕生し、監査役に石井徳久次(福岡県産業組合連合会会長)と相談役に荷見安(産業組合中央金庫理事長)、有馬頼寧(伯爵・産業組合中央会会頭)、松井岩根(陸軍大将)などを選出した。

 こうして、産業組合の多年の宿願がようやく実現したが、産組も戦時体制下で農業会に組織変更をさせられ、協同組合原則をはぎ取られた。官僚による社会統制(産業も国民も統制した四○年体制の特徴)である。

 共栄火災保険業法と損害保険中央会の支配下に置かれ、協同組合保険にかけた産組と賀川の期待は実現しなかった。しかし、共栄火災はその生いたちから農村で急成長し、戦後は協同組合保険を実現すべく大きな努力を払った。くわえて、創業期に再保険機関を持たなかった全共連や共水連に協力してその発展につくしたし、いまも全共連、共水連、全労済、日生協と事糞上の協力関係を持つとともに、日本共済協会とICMIF(国際協同組合保険連合)にオブザーバー加盟していることを付記しておく。(つづく)