協同組合と賀川豊彦(1)

「共済と保険」99.9から転載

 はじめに

 日本政府は、消費者重視の社会をめざして、一九九三年に経済改革研尭会(平岩研究会)を設置した。平岩レポート(同年十二月)は「規制緩和によって企業には新しいビジネスチャンスが与えられ、雇用も拡大し、消費者は多様な商品・サービスの選択が可能になり、内外価格差の縮小にも役立つ」と提言した。が、規制緩和論者の大合唱にもかかわらず、在職者は賃金抑制とリストラ、失業者は就職難と生活不安、高齢者は年金や福祉の改悪という三重苦に悩まされている。また、十年不況で経済は低迷を続け、相次ぐ金融不祥事と経営破綻、あるいは大手企業の談合や総会屋との癒着などで、政・官・財と社会システムにたいする不信感や開塞感は強まるばかりである。

 ところで、イギリスの経済学者アダム・スミスは、『道徳的感情の理論』(The Theory of Moral Sentiments)で、倫理をもって社会のうちにある基準とし、倫理と経済が相互に調和補充して社会の秩序となることを強調した。日本の規制緩和論者とは大変な違いだが、今こそ倫理と経済の統一した組織である協同組合の出番である。折しも、ICA(国際協同組合同盟)大会(マンチェスター・一九九五年九月)は、二十一世紀に向けた協同組合原則」を決定した。この原則は、八○年代以降の欧米生協の衰退と日本の協同組合の発展に学んだものだが、最近は関係者の懸命の努力にもかかわらず、日本の協同組合も多くの新たな困難に直面している。

 そこで私は、かねてから新協同組合原則を日常運営のなかに活かす努力とあわせて、日本的土壌(社会風土や文化)に協同組合の種をまいた賀川豊彦の原点に立ち返って、協同組合のあり方を探る必要があると考えていた。幸い、地元の神戸史学会の雑誌『歴史と神戸』が「賀川豊彦と神戸」というテーマで座談会を聞き、私も参加することになった。資料集めの過程で、賀川については『貧民心理の研究』などで多くの深刻な論争があることを改めて知ったが、偉大な人物の評価は一筋縄ではいかないことも感じた。

 また、賀川の活動範囲がとてつもなく広く、二十四巻にのぼる賀川全集と関係者の評伝や論文が多すぎて、賀川の人物像がとらえにくかった。しかし、賀川が育てた購買組合については信頼のおける人物の書いた文献が多く、戦後の賀川と日本協同組合同盟(日本生活協同組合連合会に改組)や全共連との関係も、正確な資料があったので助かった。今回は、これらの資料によって、今なぜ賀川か、という視点で、「賀川豊彦と協同組合」を書いた。大方のご批判をお願いしたいが、賀川については地元の神戸でも諸説紛々で今でも定説がない。そこでいつか別の機会に、賀川の全体像を整理したいと考えている。

 なお、参考文献や注釈は文末に一括して紹介するのが普通だが、本絡では本文と文末資料を照らし合わせる煩わしさを避けて、注釈と参考文献の必要なものは本文中にそのつど掲載した。ただし、筆者が全体を通して参考にさせていただいた文献は、文末に一括して紹介した。

 協同組合前史

  1・封建時代の助け合い

 日本にも律令時代から、住民の助け合い制度は存在した。日本書紀に出てくる「五保の割」は、住民自治の組織というよりは行政の末端組織で、国家権力によって上からつくられた検察と相互扶助の組織である。秦の衛鞅(えいおう)が富国強兵のために人民に五家ないし十家をつくらせて、人民に責任をもたせたのをまねたという。この官製目的に沿って組織された五保の制に対して、農民の間には協同組織として結(ゆい)やもやいが古くからつくられた。鎌倉時代からは頼母子講もできたが、無尽も原理は同じで、貧しい者同士がおたがいに協同して暮らしを助け合う組織である。
 その後、豊臣秀吉は刀狩りをして治安維持をはかり、五人組の掟を定めた。江戸時代の五人組、十人組はさらに巧緻で、法規によって婚姻、養子縁組、幼少年者の後見という、血縁の人たちの領分と目される分野にも関わった。「遠くの親戚より近くの他人」といわれるのはこのような生活実態から来たものだが、ところによっては防火、防水、孤児、孤老、貧困者への援助など、生活保悼の役割を果たしたものもある。村の秩序を乱す者は、十事のうち火事と葬事を除く面倒はみないというのが村八分だが、前述したように庶民はこれらの官製互助組織のほかに、自主的な助け合いの組織を持っていた。
 大原幽学の「先祖株組合」や二宮尊徳の「報徳仕法」(賀川は批判的)などは、プリミティブな農民の助け合い制度である。金属鉱山の「友子同盟」は、三年三月十日の修業を終えた一人前の職人に免状を与える制度だが、職人はこの免伏を持参すれぱ全国どこの鉱山でも職に就けたし、病気やケガで働けない場合は救済を受けることができた。また、一宿一飯の恩義にもあずかれたという。兵庫県生野の神子畑(かみこはた)鉱山には、いまでも鉱夫取立免状(一八九五・明治二十八年正月元旦発行)があるが、伝承によるとこの制度は江戸中期に関東や東北の鉱山で始まり、全国的に普及したという。これとは別に船大工の共済などもあった。
 以上のように見てくると、「相互扶助の思念は、人類にとって殆ど本質的なものである」(「日本協同組合保険論」賀川豊彦『協周組合の名著』第九巻家の光協会)という賀川の指摘は正しい。

 2・明治時代のプレ協同組合

 明治に入ると、廃藩置県で武士のごく一部が官吏や巡査に登用されたが、大多数は秩禄整理で失職して下層階級に転落した。そのころ(一八七九・明治十二年)、四つのロッチデール型購買生協といわれた共立商社、同益社、大仮共立商店、神戸商議社共立商店などが相次いで設立された。しかし、西南戦争の戦費調達によるインフレで組合員(主として下層官吏)の生活は苦しく、生協指導者たちも政治家やジャーナリストに転身したり、実業家は本職が多忙になるなどして、生協は短期間のうちに消減した。
 同じころ、共済五百名社が設立されて本社総代には安田善次郎成島柳北、子安竣がなったが、この組合は一八九四(明治二十七)年まで続いた後、保険会社に転身した。このほかにも、共済一銭社、共済万人社、内国共済社など多くの共済組合がつくられたが、問題を起こす組合が多く、政府は取締規則(一八八三・明冶十六年)を制定した。なかには保険会社や無尽会社に転換したものもあるが、明治前期の購買組合と共済組合はこの時点で消減している。
 それが日清戦争時、軍需品の生産、調達、輪送などによる莫大な利潤と、戦争の勝利による巨額の賠償金で日本資本主義は急成長し、同時に多くの工場労働者と三次産業労働者が生み出された。日清戦争前の一八九二(明治二十五)年から戦後の一八九七(明冶三十)年までの五年間に、一○人以上使用する企業の工場労働者数は三○万人から四六万人に増加した。一方で、一八九七年には日本絹糸、新橋鉄道工場、横須賀造船など多くの産業と事業所でサボタージュやストが行われたが、小石川砲兵工廠では日本で初めての労働者階級を事業基盤とした消費組合活動が取り組まれた。
 一八九八年には片山潜が共働店(注1)の設立を呼びかけたが、これに呼応して鉄工組合第七支部では共働店を始め、砲兵工廠内の鉄工組合各支部にも共働店ができた。明治前期に、「共立商店」と訳されていたCo-operative Storeが共働店といわれるようになったわけだが、組合員の自宅を事務所にした少人数のものだった。それが翌年には東京から、横浜、横須賀、福島、仙台、青森、北海道にまで普及したが、なかには共済機能(注2)を持った共働店もあったようである。また大規模化するにつれて、共働店はしだいに法人化(注3)するところや、事務所を開設して専従者をおくところも出始めた。
(注1)「共働店の趣意するところば何ぞや。一口にいえば生産者と消費者との間を近接ならしむる在るのみ」(雑誌『労働世界』の無署名記事)。片山潜が執筆したといわれる。
(注2)「本年二月の調査によれば、東京鉄工組合にて取り扱いたる救済件数四五○件=金高九〇○円、死亡件数一三件=金高二六○円、火災件数三件=金高一五円なり」(『日本の下層社会』構山源之助著 岩波文庫三七二頁)
(注3)日本鉄工共働合資会社=出資一口一○円。横浜鉄工共営合資会社=出資一口一円。高野房太郎が専従していたが、出資一円に対して二銭九厘、購買高一円に対して九厘を配当した(『日本生活協同組合運動史』山本秋著 日本評論社。以下「山本日本生協史」とする)
 ところが、工場労働者の増加と自覚による労働運動の台頭、農民騒擾、小作組合の出現、都市における貧困屠の増加などの社会問題が発生したので、政府は弾圧法として治安警察法と行政執行法を制定し、懐柔法として産業組合法と工場法を制定した。日本鉄道株式会社矯正会が、治安警察法で一九○○(明治三十三)年に解散させられたのはその一例である。その結果、労働運動はしだいに困難になり、労働組合を基盤として生まれたばかりの共働店は衰微した。事務担当者に恵まれなかったことも、原因の一つである。
 また、産業組合法(注4)は一九○○年に制定されたが、指導が農商務省農務局や府県農会にゆだねられたので、産業組合の主要な対象は農業におかれ、労働者の消貿組合は副次的にしか考えられていなかった。このころ、すでにライフアイゼンやロッチデールなどの協同組合思想が学者によって『産業組合』誌上に紹介されたが、自立した労働者や消費者の運動になるには時期的に早く、農村部中心の産業組合になっていた。
(注4)産業組合法は「信用、販売、購買、利用の四種の事業を単営または兼営するもので、①組合の事業は組合員の利用に供すべきこと。②組合員は一口以上の出資(最高三○口)とすること。③有限責任、保証責任および無限責任により組織すること。④議決権は平等で、加入脱退は自由であること。⑤出資配当は年八分を限度とし、利用配当ができる」となっている。
 しかし、労働者階級の急増や日露戦争による生活苦などもあって、その後も消費組合を設立する動きがあり、幸徳秋水と山川均なども計画はしたが実行されなかった。それでも、青年のころ平民社反戦運動に参加した及川鼎壽が呉海軍工廠の職工と呉消費組合自助会をつくり、利用者三○○○名、月額売り上げ二○○○円以上と大きく発展したが、これも大逆事件(一九一○・明治四十三)年をきっかけに押しつぶされた。これ以降は、産業組合法による労働組合を基盤とした消費組合はしばらく途絶えるが、県庁・市役所などの指導で上層市民(官公吏、軍人、教員など)対象の市街地購買組合や、工場・鉱山の労務管理型購買組合は増加した。それでも、明治末年まで残っていたのは一九組合にすぎない。

 二・賀川と大正期以降の協同組合

 1・新興消費組合の誕生

 東京で吉野作遣と藤田逸男などが、一九一九(大正八)年に家庭購買組合を創立したが、翌一九二○年には同じ東京で岡本利吉が指導する共働社が誕生した。同年に大仮でも賀川豊彦が指導した共益社が生まれ、一九二一(大正十)年四月にはこれも賀川の指導で神戸消責組合が創立された。次いで、同年五月には同じ賀川の指導で灘購買組合が誕生した。これらの諸組合は事業基盤を労働者階級におくもの、市民層におくもの、階級性を強調するもの、キリスト教的色彩の濃いものなど、それぞれに特徴があった。しかも、それ以前の市街地購買組合とは異なる共通の新鮮さがあったので、世間では新興消費組合と呼んだ。いずれの生協も、本年以降に八十周年を迎える。
 ここでいう「共通の新鮮さ」とは、それまでの市街地購買組合が高級官吏、上層市民、在郷軍人などを対象とした官庁指導型の組合であったのに対して、新興消費組合は急速に増加した労働者階級(注5)や一般市民層を事業基盤にした、組合員主体の自主的組合であった。背景にはロシア革命、(労働者階級と知識階級やホワイトカラーの増加などによる)大正デモクラシー米騒動の経験、先進的な諸外国の協同組合運動などの影響があった。その結果、新しく設立された消費組合にはインテリや労働者の自覚と創意が生かされ、新鮮さを印象づけた。
(注5)労働組合の組織状況
  年度   労働組合数  労働組合員数 推定組織率
 大正一〇年   三〇〇 一○三、四一二   不明
 大正一三年   四六九 二二八、一七八  五・三%

 また、賀川系(ロッチデール派)の江東消費組合や北豊島協同組合などが系譜の異なる関東消費組合連盟(略称・関消連=モスクワ派)に加盟して、なにがしかの期待と新鮮さを社会に与えた。折しも国際的には、ICAバーゼル大会(一九二一・大正十年)でツェントロサユーズがソビエト代表として承認され、翌年には多数のICA執行委員が招待で訪ソした。一九二三年にはツェントロサユーズの招待で訪ソしたジイド中央委員が「ロッチデールか、モスクワか」という演説を行ったこともあって、国際協同組合運動にも二大潮流が生まれた。
 日本の新興消費組合にもロッチデール派とモスクワ派が生まれたが、当初はおたがいに友好関係を保ち、交流もした。が、一九二九(昭和四)年には、関消連の賀川系幹部(江東消費組合・木立義道)に対する反幹部闘争や、広田金一関消連委員長が設立に参加した東京消費組合協会への加盟をめぐって内部意見が対立し、広田委員長の辞任などもあって賀川系六消費組合は関消連を脱退した。モスクワ派といっても、共働社では関東大震災(一九二三・大正十二年九月一日)以降は再建の基本方針として掛け売りを認めず、絶対現金制の採用と購買高によって百分の一の配当をしたというから、事業面での両者の差異はなかった。
 違いは、労働組合との直接的な関係を断ち切ったのがロッチデール派であり、労働組合との関係を強めて争議支援を積極的に行い、ソビエト擁護と社会主義革命の一翼をになう協同組合として位置づけ、階級性を強調したのがモスクワ派である。このような違いはあるが、協同組合は組合員の出身階層が多様なので、活動家中心の労働組合のような排除の論理は通用しない。また賀川が、その後に江東消費組合と共働社の統一に努力したり、全国消費組合協会に結集して戦時統割に抵抗したことから、わずかでも両者の信頼関係は保持されていた。
 さらに産業組合中央会も、主事に就任した千石輿太郎(一九二○・大正九年)が金井満、辻誠、丸岡秀子、宮城孝治などの民主的な協同組合人を採用したことから、彼らは戦前の分裂の苦い経験を生かして、戦後は賀川を会長とするオール組織の日本協同組合同盟を創立することに成功した。

 2・賀川系消費組合の活動

 新興消費組合は『山本日本生協史』によると、①山名義鶴=友愛会・総同盟系、②吉野作造=家庭購買組合系、③賀川豊彦=共益社系、④岡本利吉=共働社・関消連系があったが、旧来の大きな流れとして五つ目に産業組合中央会系市街地購買組合があった。賀川が創立もしくは指導した協同組合は数多いが、ここでは購買組合共益社、神戸消費組合、灘購買組合の草創期を記述し、賀川の実践を通して彼の協同組合思想に追ってみることにした。

 有限責任購買組合共益社》
 関西の新興消費組合のなかではもっとも早い、一九二○(大正九)年十一月の創立である。役員は今井嘉幸(普選運動で知られた弁護士)、西尾末広友愛会主事)、八木信一(向上会会長)、安藤国松(住友伸銅組合長)などで、組合員の構成は労働者が五○○名、四分の一が中産階級的俸給生活者、四分の一が商工業的市民だが、クリスチャンも加入していた。

 〈共益社網領〉
 ①実用本位の日用品を廉価に供給して組合員の生活を安定幸福ならしむ。
 ②購買に因る利益金を二分し、一を組合員の資本金に積立て共同の利益を計り、他を組合員の購買高に応じて年末配当とし、組合員の家政をして安定豊富ならしむ。
 ③適当と信じた貨物より、漸次製造を開始して実用本位の物を造り、組合員に職を与えて相互扶助の達成を期す。
 この網領では、労勧者生産協同組合の彼の協同組合思想に追ってみる問題は関消連系の組合と同じように労働組合との直接的な関係が強すぎたことてある。創立した翌年四月には早くも大阪電灯株式会社の争議が発生し、五月には藤永田造船所の争議とこれらの争議にたいする会沢造船、村尾造船、旭鉄工、合同紡績の同情罷工が起こり、共益社が争議団本部になった。争議の結果、消費組合員の脱退、労働組合と消費組合幹部の兼任問題、経営管理の未熟、組合員の消費組合への無理解などが重なって共益社は経営難に陥った。その結果、八木組合長と西尾の辞任や向上会傘下組合員の共益社脱退などがあって、役員会(一九二四・大正十三年十一月十日)では解散論が高まった。そこで賀川が損金を引き受け、経営の全責任をとることで組合長に就任し、配給費の節約、労働組合との無統制な関係の廃止、消貴組合協会からの財政的援助などで経営はとりあえず改善に向かった。賀川が創立した消費組合協会(一九ニ四・大正十三年)は消費組合の連合機関ではなく、国民服(通称は賀川服)を全国に普及する機関(解雇されて全国に散らばっている活動家の救済が自的)で経営的には成功していた。が、共益社の経営はその後も安定せず、灘購買組合の田中俊介組合長の指導を受けて再建に努力したが、戦後はまた経営が悪化して事業休止(一九五五・昭和三十年)に追い込まれた。その後は大阪府生協連の支援で再組織(一九六四・昭和三十九年)され、会館事業として文化講座やレストラン経営で今日に至っている。

 有限責任神戸消費組合》
 有限責任神戸共栄購買組合(神戸消費組合・神戸生協)(注6)は一九二一(大正十)年四月十二日、有限責任灘購買組合(灘生協)は同年五月二十六日を創立の日としているから、コープこうべはまもなく創立八十周年を迎える。両者とも賀川が指導した同時代の消費組合であるが、創立以降の両者の経営には大きな違いがある。定款は、両者ともに産業組合法に準拠しているのでさして違わないし、趣意書は福井捨一と那須善治の名前が違うだけで(同一人が起草した同文)である。また定款上の違いは、組合員について有限責任神戸共栄購買組合が「本組合の区域内に居住し且つ独立の生活を営む者及び本組合の区域内に主たる事務所を有する私法人にして産業に従事する者に限る」としているのに対して、有限責任灘購買組合は私法人が組合員であるという規定がないだけで、実質的な違いはない。
(注6)創立総会のときは「有限責任神戸共栄購買組合」だったが、四力月後の同年八月十五日の労働者新聞に載った定款では神戸購買組合に変更されている。神戸購買組合を「有限責任購買組合神戸消費組合」に名称変更したのは一九二四・大正十三年一月七日の総会であるが、本文では「神戸消費組合」という。
 この違いは、神戸消費組合の設立が青柿善一郎ら川崎造船所の職工による「奸商征伐期成同盟」の結成(一九一九・大正八年)をきっかけにしたからである。もともと青柿らは、川崎購買組合の設立を会社に相談したが断られたので、自らの力で購買組合をつくることにして友愛会の幹部である賀川に相談した。賀川は「川崎造船所の労働者中心でなく、全神戸市の勤労者その他を広く網羅した大きな組織にしよう」と話し、賀川の後援者で県会と神戸市会で活躍した福井捨一や有力者の協力を得て、神戸市全域の社会事業とすることにした。実務は労働者出身の木立義道(刈藻島の橋本造船所争議で解雇)が当たり、二年間の準備期間を経て新川の賀川の家を事務所に発足した。
 役員は福井捨一(組合長)、林彦一(専務理事)、賀川豊彦、堀義一(国鉄鷹取工場の労働者)、青柿善一郎らであったが、木立義道、村島帰之、久留弘三らも役員と一体で大宣伝をし、一二○○名の予約者を得て事業を開始した。労働者の組合員数は三一二名で職業別にみるともっとも多く、なかでも友愛会神戸連合会の組合員が多かった。当日の払込済み組合員は六一八名で従業員が一八名、取扱品目は精米、砂糖、しょうゆ、酢、木炭、足袋、ワイシャツ、作業着、脱脂綿、信玄袋の一○品目であった。設立費用の大部分は賀川の印税から支払われたという。
 このようにして設立された神戸消費組合は、発足して三力月後(一九二一・大正十年七月)に早くも三菱川崎の大争議に直面し、経営面で大きな影響を受けた。それは二年前に、全職工が参加したサボタージュで画期的な八時間労働制と賃上げを獲得したときと違って、正攻法で挑んだストライキは四十六日間に及んだ。川崎争議団は行商隊を組織して罷業資金集めの努力をしたので、発足したばかりの神戸消費組合も商品を供給して協力した。が、争議は警察と軍隊の出動で、三名の死者を出して惨敗した。その結果、多数の活動家が解雇されたが、神戸で就職できなかった労働者は消費組合を脱退したし、理事の青柿善一郎と堀義一は消費組合への警察の妨害を懸念して辞任した。
 このように、争議の敗北が神戸消費組合に与えた打撃は大きかったが、問題は解雇されて神戸から四散した組合員の脱退だけでなく、消貴組合に残った組合員も新しく加入を勧められた組合員も、官憲の目が光っており、会社からにらまれるおそれもあったので消費組合への残留と加入をためらった。当時、福井組合長は外遊していたが、このような状況を受けて木立義道(常任理事)は再度労働者への進出を主張し、一般市民に重点を置く林専務理事と対立して組合を脱退した。これは組合に大きな痛手となった。
 が、林専務理事の意向で方向転換をしても、初めに世間がもった闘う神戸消費組合というイメージは簡単には変わらないし、当時はまだ中産階級の数も少なく、組合員が全市に分散していたので一人当たりの事業利用高も少なく、経営効率が悪かった。加えて、賀川が大阪で創立した共益社と同様に、①現金主義(注7)で②酒類を売らない(注8)という方針が加入者に受け入れられず、経営は創立当初から赤字の連続だった。それでも役職員と、わが国最初の神戸消費組合家庭会の大変な苦労が実って、一九二六(大正十五)年には赤字を一掃したし、翌年(昭和二年)には六六一二円の剰余を出すまでに経官は持ち直した。
(注7)当時も掛け売りは庶民の合理的な生活を阻害する要因だったが、労働者は月給制でないので現金主義にはなじめなかった。
(注8)酒類の不売は組合員の不評を買ったが、賀川の方針は一九六二(昭和三十六)年まで受けつがれた。

 有限責任灘購買組合》
 神戸消費組合の発足で多忙をきわめていた新川の賀川の家に、ある夜(一九二一・大正十年一月)大阪の実業界を引退した那須善冶が、同郷(愛媛)の青年、田中俊介(灘生協・灘神戸生協組合長)をともない、一○○万円を持参して相談に来た。内容は、大仮の実業界を引退した那須が、余生を社会事業にささげたいが何をしたらよいかということであった。賀川は昔風の慈善事業では役に立たないので、「大衆が自分たちの力を結集して立ち上がる協同組合の設立」を勧めた。那須は平生釟三郎(注9)にも意見を求めたが、賀川と同意見だったので購買組合設立に踏みきった。
(注9)平生は当時の東京火災海上保険専務取締役。後に甲南学園理事長、川崎造船社長、広田弘毅内閣の文部大臣などを歴任した。
 那須が一月の夜、賀川を訪ねたときに持参した一○○万円は、灘購買組合の創立費と事業運営費に使われた。那須が住んでいた兵庫県武庫郡住吉村には、住友吉左衛門(住友本家)、野村元五郎(野村銀行頭取)、弘世助太郎(日本生命社長)、武田長兵衛(武田薬品社長)、阿部房次郎(東洋紡績社長)、武藤山治(鐘淵紡績社長)、安宅弥吉(安宅産業社長)といった富豪が住んでいた。那須は住吉村に住む有力者の集まりである観音林倶楽部に知友を招いて相談会(同年三月三日)をもち、さらに住吉小学校講堂で消費組合宣伝のために講演会(同月六日)を開いた。講師は賀川豊彦と社会事業研究家の小河滋次郎であったが、那須は住吉村茶屋区に用地四五○坪と家屋を購入し、有限責任灘購買組合の認可を得て観音林倶楽部で創立総会を開いた。
 役員は那須組合長、理事は平生釟三郎、堀田正一らで、監事は辰馬六郎(名門辰馬本家十一代の娘婚で退役軍人の名士)が選ばれ、賀川は顧問になった。組合員には伊藤忠兵衛(伊藤忠商事創業者、甲南学園理事長)、野沢幸三郎(野沢石綿工業の創始者)、安宅弥吉などの資産階級が多かった。また、玉木敬太郎(御影町長)をはじめ住吉村の村会議員や区長、あるいは御影師範や各小学校の校長、郵便局長などの有力者がほとんど網羅されており、発起人総代の小林徳蔵は御影警察署長だった。組合員数は、発足当初の三○○人ほどから年末には四六八人になっている。
 しかも、灘購買組合は組合員の所得水準が高くて区域も手ごろであったから、一人当たりの事業利用も高額で経営効率がよく、わずかではあったが最初から黒字になった。これには、那須・田中という非凡な経営者と協力者の平生がおり、賀川の助言があったことも特記しなければならない。とくに経営実務者であった田中は、病気で学校を中退した後に貴重な労働体験をしており、もともとエンジニア志望の合理主義者で、しかもキリスト教の信仰にあつい人格者だった。この那須と田中は、経営者として傑出していただけでなく、賀川の助言にしたがって協同組合原則を忠実に(教条的でなく)守っている。
 また二人は、先行して発足した神戸消費組合の家庭会に謙虚に学んで、灘購買組合の家庭会を一九二九(昭和四)年七月二十四日に発足させ、商品や事業運営についての要求を組合に反映させる努力をした。芦屋家庭会(注一〇)の活動も活発で、賀川の同志である杉山元治郎(農民運動の指導者)を講師に「節約と消費組合」の講演会を聞いたり、同年九月には一三○人の「女中さんの会」を発足させたが、翌年五月には「芦屋支部従業員慰労会」を開いて家庭会と従業員の交流を深めた。同年十月、こんどは連続五回の「婦人のための経済学講座」を開いたが、昭和六年には「家庭科学講座『家庭用品の科学的研究会』」を開き、当時としては先進的な家庭婦人のための知識啓発に努力している。
(注一〇)灘購買組合家庭会は、神戸消費組合家庭会の生みの親である小泉初瀬などの参画もあって、島田薫や長谷川初音(神戸女学院教授・牧師夫人)らを中心に組合員主体の組織として結成された。灘購買芦屋家庭会は、長谷川初音が神戸消費粗合家庭会の経験を生かして組織したものである。当初、初音夫妻の熊内教会は賀川家の近くで、初音はハル(賀川春子)らと「覚醒婦人協会」の組織化に努力したが、芦屋浜教会に移ってからは灘購買家庭会の発起人となり、芦屋家庭会の幹事長として発展に尽力した。
 このようにして、灘購買組合は創立から一度も赤字に転落することなく、満十周年(一九三一・昭和六年五月)を迎えたが、前年に組合員は三○○○人を超えたし、供給高は五三万円で従業員は七一人(女子三人)となった。この間、米穀倉庫と醸造工場を新築(一九二三・大正十二年四月)して、しょうゆの製造や、芦屋支部構内で牛乳の加工生産を始めた。さらに、芦屋支部に組合ストア(店舗)と倉庫を増築したが、灘購買組合は初めてのこの店舗でセミ・セルフサービス制を導入し、その後のマーケットチェーンの基礎を確立したという。NCRの中古レジスターを入れたのもこのときだから、田中らしい技術家志望の合理的精神と先見性が発揮されたといえる。組合の発展で、さらに住吉本部の改築、西宮出張所・西支部・精米工場の新設などが続く。
 那須と田中の偉いところは、経営についての創意工夫をこらしただけでなく、民主的な組合遅官と協同組合間協同にも目配りをしたことである。神戸消費組合の第一回事業報告書を見ると、賀川の八○○円に続いて那須も五○○円を寄付しているが、一九三三(昭和八)年には福井捨一(神戸消費)、那須善治(灘購買)、北田輝(浪速購買)、矢上英太郎(京都購買)の四組合長会議を開いて、①将来の提携、②共同仕入れとその調整、③産業組合中央会主催の全国消費組合協議会への提出議案と経営問題、④従業員の待遇問題など、協同組合間協同の実現について検討している。共同購入については、一九二三(大正十二)年から神戸と灘など一三の消責組合が参加して「関西消費組合協会」を設立したが、組合員の嗜好の違い(注一一)などがあって実現せず、協会は一年で解散した。が、家具などは神戸と灘で共同仕入れを実現した。
(注一一)「灘ノ組合員ノ嗜好ト私(神戸)ノ組合員ノ嗜好トハー定シテ居ナイ。消費組合トシテハ取扱フ品目ヲ単純化スルト云フコトハ最モ合理的デアリマシテ、サフ云フコトニ対シテ可ナリ努カシマシタケレドモ、ナカナカ家庭二於イテマダマダ其処迄ハ進マナイ。(神戸消費組合長・福井捨一)
 また、東京の共働社(モスクワ系で関消連の中心組合)で活動していた山本秋によれば、創立期に那須から担保物件の提供や銀行の貸越契約の保証などの援助を受け、関消連の分裂期の困難にさいしても融資金棚上げの要請に応じて、大危機を救ってくれたという。田中も大阪共益社の再建に手を貸したし、戦後は経営困難に直面した神戸生協との合併を成し遂げた。いずれにせよ、灘購買組合は組合員と役員の出身構成からみて営利追求に走りがちなはずだが、そうならなかったのは那須と田中の二人が賀川の協同組合思想を真摯に受け入れて、高度な経営政策との結合をはかったからである。また、二人の高潔な人格が灘購買組合の運営と役職員の資質に影響し、それが社会的成功者と高学歴者の多い組合員の共感を呼んだといえよう。(つづく)