弔辞 日生協副会長・田中俊介

 賀川豊彦先生は、日本の協同組合運動の生みの親、そだての親であったばかりでなく、アメリカはじめ、全世界にわたって協同組合思想の普及に挺身され、全世界協同組合運動者の尊敬と感謝の的になっております。
 先生が協同組合にのりだされた直接の動機は大正7年の米騒動でありました。当時、米価が天井しらずに暴騰して、一部商人が巨万の暴利をえている際、民衆がその日の糧に飢えて、ついに焼うちの暴動の火の手のあげるのを、貧民窟で身をもって体験しておられた先生はもうじっとしておられませんでした。
 営利経済の矛盾を暴力によらないで、民衆のおたがいのたすけあいによって解決しよう。一人一人では無力に見える民衆も「愛の心に根ざして団結しなさい。たすけあいなさい。組織をつくりなさい。協同組合をつくってみんながしっかりむすびついたら、二度と米騒動をして警察にひっぱられないですみますよ」と、それから時間と労力をいとわず、協同組合運動の普及宣伝と協同組合のほんとうの精神の鼓吹に情熱をささげられました。神戸新川の貧民窟からのろしをあげられた先生の提唱でつくられ、いまもつづいているのが、神戸生活協同組合、灘生活協同組合であります。
 関東大震災で、先生の活動が部隊が神戸から東京にうつされると、東京でも協同組合がつくられました。先生のいくところ、いつでも協同組合運動の火がもえうつされてまいります。栄養食の配給に、中野組合病院に、中ノ郷質庫信用組合に、先生の活動は無限にひろがっていきました。
 そこに戦争となりました。先生が憲兵隊に監禁されましたとき、協同組合も弾圧をうけ、さらに空襲によって壊滅に瀕しました。やっと終戦となって自由が回復しますと、先生はただちにたちあがり「協同組合で国の建てなおしをしよう、飢えた大衆をすくおう」と全国の同志に激をとばしました。昭和20年11月18日、響きのおうずるごとく北から南から同志はあつまって、ながいあいだ、おさえにおさえた憤懣と激情を爆発させ、協同組合にたいする新時代の熱情を結集しました。それが日本協同組合同盟であり、日本生活協同組合連合会であります。
 さらに先生がながらく提唱されていた協同組合による生命保険も、ようやく共済農業協同組合、労働者共済生活協同組合の誕生となって、いまやようやく大きな実りが期待されるにいたりました。
 先生が、青年時代から終始一貫、伝道と労働運動、農民運動とともに協同組合運動にたいして熱情をもちつづけ、時代が協同組合運動にたいして絶望的にみえる時すらも、その情熱を不死鳥のごとくもやして今日に協同組合運動の礎石となられたのはなぜでありましょうか。
 協同組合運動が思想をこえて隣人同士のたすけあいの運動であり、人類愛の実践活動であるからです。協同組合が民衆の運動であるからです。先生の、つねに愛してやまない民衆、その民衆の一人ひとりの心と糧とのむすびつき運動であるからです。協同組合が、自分だけの利益をもとめない、自国だけの利益をもとめない、国際的のたすけあい運動であるからです。世界の平和運動も根底にあるものだからです。
 賀川先生の協同組合にたいする献身は都市も農村も、農業協同組合も漁業協同組合も日本だけでなく、世界的に無上にたかくたかく評価されています。ドクトル賀川は全世界協同組合の精神の支柱であり、運動統一をまもりえたことも先生のたかい人格のしからしむるところにほかならないのであります。
 いま、この先生を失うことは日本の、いな全世界の協同組合にとってどれほどのかなしみであり、痛手であるか、はかりしれません。
 しかし、先生の生涯をつうじてしめされた崇高な理想ともゆる情熱、不撓不屈の闘魂、困難な組合ほどはげましをあたえ、尻ぬぐいをいとわなかったふかい愛情、まことに先生こそ世界にほこる日本協同組合人の最高の姿として私たちの胸に永遠にきざまれているのです。
 先生との最後のお別れにあたりまして、全日本の協同組合人は、心からなる尊敬と愛情をささげ、全組合員協同一致、全心全霊をかたむけて先生の御遺志をつがんことをちかうものであります。
 1960年4月29日
 日本生活協同組合連合会 副会長 田中俊介