2008-10-01から1ヶ月間の記事一覧

『死線を越えて』の発刊(1)

賀川が貧民窟に入って10年たった頃から、その体験を生かして書いた論文が、中央の知識人の間の話題にもぼってきた、ことに『貧民心理の研究』は異色のある著述として学会からも注目せられた。 そこへ沖野岩三郎が、大正7年11月の雑誌「雄弁」に「日本基…

日本人は草を喰え 大田俊雄

池田勇人氏は戦後「貧乏人は麦飯を喰え」といって大いに非難された。賀川先生は戦前に「日本人は草を喰え」と力説してこられた。このことを次のように語られたことがある。 「日本のようにやせた、狭い土地にたくさんの人間がウヨウヨしていて、食糧難だ、食…

綾部から発信続く中東和平のへのアクション 伴 武澄

10月25日(土)世界連邦運動協会が中心となったシンポジウム「世 界 連 邦 を 実 現 し よ う〜世界連邦運動の更なる進展と、地球環境について考える」が国連大学のウタントホールで開催され、約200人が集まった。 世界連邦運動60周年記念を記念す…

祈っているかね 金田弘毅

昭和10年(1935)の夏、イエスの友夏期聖修会がヤマトの多武峯で開かれた時だった。午後の講演を終えた賀川先生は「金田君、一緒に風呂に入ろう」と誘ってくださった、そしてお風呂の中で先生は「僕は暫くアメリカを廻って来ることになると思う、君は…

噫々 賀川豊彦先生 大宅壮一

明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。 西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾太郎、湯川秀樹などと云…

賀川豊彦献身100年展 神戸文学館

神戸文学館は11月1から「賀川豊彦献身100年」を記念して「愛と労苦と希望―賀川豊彦の文学」を題した企画展を開催する。2009年2月24日までのロングラン展示会だ。 企画展に併せて、下記の記念講演会も催す。 11月29日(土)「賀川豊彦の文学…

日本農民福音学校 金田弘毅

西宮市郊外の瓦木村にあった「日本農民福音学校」は昭和2年2月11日から3月10日まで1カ月毎年開かれ、昭和17年、太平洋戦争で閉鎖されるまで15年続けられた。 最初は校舎もなく賀川先生が自宅を開放して教室とされた。校長は杉山元治郎先生で、校…

1909年クリスマスイブ 牧野仲造

明治42年(1909)のクリスマスイブに、21歳の賀川先生が荷車に身の回り品を積み、引っ越していったところは、その50年前に屠殺場だった賤民部落でした。ここに住んでいるのは病人、身体障害者、寡婦、老衰者、破産者といった落伍者でした。 家賃は…

私は質屋をやっている 熊谷政喜

先生は同じ時、「僕は日本で質屋もやっている」といった。義兄たちは「質屋?」ととんきょうな声を出した。質屋とは日本でもアメリカでも同じように高利貸しの別名である。先生はこう語った。 「そうなんです。ただしわたしんところの質屋や、金目のものでな…

ボクハマッテル 北村徳太郎

大正の末期、『死線を越えて』が全日本を動かしている頃、佐世保の教会は賀川先生を招いて伝道集会を開きました。私はその宣伝に工夫をこらし、大型の厚いダンボール紙を買ってきて、これに活字体で「賀川豊彦聖書講演会」と切り抜いて原版を作り、群青の絵…

小野梓の世界連邦論「救民論」

これは天下の公論にして、一人の私言にあらざりるなり。その義たるや天地にわたり、古今をきわむ。微にして顕なりというべし。しかるに古聖賢の言たる。ここに及べるものなし。すなわちこれを知らざるなり。ただ世運未だひらけず、時機至らざるなり。 今や人…

偉人、偉人を知る 長尾己

すいなことをやる 今から約50年前、賀川豊彦君は宣教師マヤス先生に連れられて豊橋に来た。たしか君の19歳の時であったと思う。当時私の父長尾巻が豊橋で伝道をしていたので、君はしばらく私の家に寄食することになったが、当時の君は顔色蒼ざめて痩せ細…

徳冨蘆花と賀川豊彦 1/15

新宿から京王線に乗り二○分、上北沢駅を下車して五分のところに、賀川豊彦記念松沢資料館はある。上北沢からさらに二駅先の芦花公園から一〇分ほど歩くと、そこには緑豊かな蘆花恒春園がある。明治四○(一九○七)年、徳冨蘆花(健次郎)(明治元[一八六八]…

與謝野晶子の賀川豊彦素描 1/7

與謝野晶子(一八七八[明治十一]年〜一九四二[昭和十五]年)は、近代日本の歌壇を代表する女流歌人として実に多くの作品を世に送り出している。歌の世界に疎い人びとの間でも、彼女の「君死にたまふこと勿れ」はよく知られている。しかし、今日、晶子が…

「日米会談の舞台裏」 阿久沢英治

昭和十六年四月二十二日に渡米した賀川先生は、同年八月十八日に帰国されたが、横浜港へ迎えに行った私の顔を見るやいなや、「阿久沢君、日米会談をどう思うか」という質問を発せられた。その当時日本は支那事変という泥沼に足を踏み入れて進退難に陥り、国…

平和使節団の思い出 阿部義宗

特急電車を3分とめる 1941年、日米間の関係が悪化し、太平洋の風雲急なる時、日本基督教連盟(原罪のNCCに当たる)では代表8名を選び、米国訪問することになった。外務省(近衛内閣)に話したところ大賛成だったので、実行することになったが、費用…

少年平和読本「四方の海みな同胞」 賀川豊彦

(『国際国家』1950年4・5月号から転載) 中国の春秋時代に、呉王夫差が、越の国を伐つて、父の仇を報じようと志し、復讐の心を忘れぬため、毎夜、薪の中に寝て、自ら身を苦しめたといいます。また一方、越王匂踐も、呉の国を伐つて、会稽の恥をそそご…

世界連邦運動の先覚−インドのプラタップ公

宮島 政巳 戦前のことである。中央線の国分寺の駅から30分ほど入った小平村の津田英学塾の前の草むらに「世界連邦日本本部」なる立て看板が立っていたが、通りがかりにこれを見て訪ねて来る人もなかった。玉川上水に沿って小道を一丁ほど入ると畑の真ん中…

李承晩大統領に訴える 賀川豊彦 1955年12月8日付け毎日新聞

1952年、韓国の李承晩大統領は対馬海峡に一方的に軍事境界線「李承晩ライン」を引いて、日本の漁船による漁獲に対して、臨検・拿捕を強行した。日本側は韓国の強硬姿勢になすすべがなかったが、賀川豊彦は毎日新聞に「李承晩大統領に訴える」という長文…

ロバート・オーエン再発見(2)

ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残した。地域通貨や労働組合などもそうだが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営だった。 協同組合は1844年代にマンチェスター郊外ののロッチデールで始まったものとばかり思っ…

中ノ郷質庫信用組合を生んだ清き質屋さん=奥堂定蔵

奥堂定蔵は明治28年9月1日、栃木県那須郡黒羽川西町の中野家に生まれた。同42年3月、川西尋常高等小学校を卒業したが、当時は日露戦争大勝利の直後であったので軍人志望で、宇都宮士官学校に進みたい希望をもっていた。しかし、意に反して義兄につれ…

幻の和平工作秘話 日米開戦

賀川豊彦記念松沢資料館学芸員 杉浦秀典日米開戦の直前、近衛首相は神経の尖った軍部を避けて、ひそかに賀川と会った。それは戦争回避の和平工作を依頼する目的だったが、こんな緊張時に怪しまれずに出向くには、不信を抱かれないようにしなければならない。…

Toyohiko Kagawa Revisited

Robert M. Armstrong, Former Scottish Baptist ministerLet me at the outset introduce myself and explain how I come to be writing about Toyohiko Kagawa. My name is Robert Armstrong and I am a retired Scottish Baptist minister living in Glasg…

世界連邦運動60周年記念・第27回日本大会

「世 界 連 邦 を 実 現 し よ う」〜世界連邦運動の更なる進展と、地球環境について考える〜世界連邦運動60周年記念・第27回日本大会日時:10月25日(土)日本大会 午後1時〜午後4時(午後0時開場) 懇親パーティー 午後4時30分〜午後6時30分場所:国…

私は予見を欲する 賀川純基氏講演

賀川豊彦は若いころから平和を願っていました。彼の特徴は、ずっと先を見ていたということです。昭和12年、自分で出していた雑誌に「平静」という5行詩を書いています。 私は急がない私は慌てない私は遅鈍を忌む私は予見を欲するたった5行の詩ですが、こ…

フレッチャー・ジョーンズ物語

1年ほど前の9月7日、オーストラリアのSBSテレビで1本のドキュメンタリーが放映された。「The Fabric of a Dream Fletcher Jones Story」という。同国のフレッチャー・ジョーンズというアパレル王の成功物語である。驚いたのは冒頭から日本の社会運動…

鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動(5)

やさぶろ窯のこと 茅 私は、下中さんの“やさぶろ窯”の御飯茶碗をいただいているんです。大切にしているんですが、びっくりしたんですよ。こういう趣味も持っておられたのかと。 尾崎 もともと丹波立杭焼の………。 茅 出がそうなんですね。 田中 小学校の頃から…

鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動(4)

出版人教育者としての下中弥三郎 尾崎 確かに世界連邦運動、七人委員会の構想は、それそれ下中さんらしい面白さ−−という言い方は悪いかもしれませんけれども、独自性というものが大きく影を投げているという感じがいたしますね。 そういう問題を踏まえながら…

鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動(3)

パグウォッシュ会議と下中 田中 下中先生の原子爆弾あるいは水素爆弾に対する反対態度について、もう一つ、七人委員会と併行して残した仕事は、昭和三十二年にカナダのバグウォッシュという町で第一回バグウォッシュ会議が開かれる。 茅 最初は主としてノー…

鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動(2)

パール博士を日本に招く 尾崎 下中さんのユニークな発想だという感しがしますね。同じ世界連邦運動を広げていく上においても、原爆の被災国である日本でそれをやるというあたりは、非常に在野派らしい発想が見えるように思いますが、パール判事の招聘は、そ…