李承晩大統領に訴える 賀川豊彦 1955年12月8日付け毎日新聞

 1952年、韓国の李承晩大統領は対馬海峡に一方的に軍事境界線「李承晩ライン」を引いて、日本の漁船による漁獲に対して、臨検・拿捕を強行した。日本側は韓国の強硬姿勢になすすべがなかったが、賀川豊彦毎日新聞に「李承晩大統領に訴える」という長文の記事を掲載した。

 財団法人国際平和協会に保存されている新聞「世界国家」1956年1月1日号に毎日新聞1955年12月8日の記事が転載されている。以下は「世界国家」からの転載である。

 李承晩大統領閣下−−わたしは東洋平和のために閣下の良心に訴えます。
 大韓国と日本との関係を平和に導いてくださいと。
 日本が十年前に敗北して、東洋に新しい国家が十三独立しました。それがもし互に争い、もし不幸にして流血の惨事でも繰り返すようなことがあれば、世界のもの笑いとなります。その反対に、弱い軍備しかもっていない新独立国が、互に協力してアジア連邦を造ることができるならば、どれだけ幸福なことであるかしれないと思います。
 一九五五年のクリスマスを、われらは日本で祝わんとしています。その際、わたしは閣下がキリストの弟子であり平和の使徒であることを思って、閣下の良心に訴えます。大韓国と日本のために、永遠の平和を築いて下さい。
 かつてアメリカ合衆国は英国の植民地でした。しかし英本国が植民地に対してあまりに圧制的であつたことを怒つてジョージ・ワシントンはついに剣をとつて立ち上り、英国をうつて今日の独立をかちえました。
 しかし閣下もご存じのとおり、今日においては旧悪を忘れ、英米は一つの塊りとして、同盟を結び、米国とカナダの国境には、一つの要塞もなく、一つの兵備もありませぬ。

 私は、大韓国と日本の関係も同様でありたいのです。日本には古い歴史書が多く残つています。そのうち日本書紀は漢文で書かれた日本への移民史が大部分を占めております。ことに日本書紀の中巻と下巻に記載されている韓国民の日本への移住史は、閣下にご翻読願いたいのです。
 それは全く日本へ落着いた韓国民の移民史なのです。私は日本書紀に記載されている地区の多くを旅行して感じることは、現代日本人の六割は実に韓国民の子孫であるということです。東京は北鮮の人々が開拓したところであり、大阪は南鮮の人々が定着した所です。それを疑う歴史家は日本にはおりませぬ。その日本人と大韓国が海洋の問題について争論を起さねばならぬ理由を、私はよう発見しないのです。

 旧約聖書の教ゆるところによると、ダビデを殺さんとしたサウロ王の愛児を、ダビデは自己の宮廷に引入れて優遇しておるではありませんか? 閣下はキリストの弟子として、ダビデ王の寛容をもつていただきたいのです。サウロがダビデを殺さんとしたように、日本人が閣下を虐待し、閣下の国民を迫害したことを、私は、キリストの名によつて、閣下におわびし、閣下のキリスト精神に訴えて、お赦しをこうものであります。

 閣下はご存じないでしようが、私は日本の韓国合併には反対し、韓国の独立を心より待つていた一人であります。このことにつき、韓国の知識人の中で、多少日本のキリスト教社会主義者の行動を知つている人々は、私がいかに韓国の独立を待つていたかをよく知つていると思います。その韓国が独立を獲得できた今日、私は新しい祈りを持つていることを告白します−それはほかでもありませね。独立のために母国と戦つたアメリカ合衆国が、カナダと米国の国境に一兵も置かず一要さいも設けないでいると同じような善意のある国交を大韓国と日本の間に打立てたいということです。

 ご存じのとおり、日本は平和憲法を制定し、永遠に戦争を放棄しました。だが、この高遠な理想は近隣諸民族の援助なくしては、その実現を図ることはできませぬ。もし大韓国と日本が、英米の間に軍備を設けないように、極東の二カ国の間に、真の平和が保証されるならば、どれだけ世界が明るくなるかしれないと思います。ヨーロッパの二十五カ国も極東の二つの国の例に習い、戦争を放棄する文明のコースを選ぶようになると思います。
 日本の人口はいまや九千万に近いのです。その食糧のために三百万の漁民は、海洋に出てタン白食の資源を捜してします。殊に日本海の漁民は大韓国に近いために対馬海流を利用してこれまで漁業をしていました。どれが近年生活難に苦しみ、眼もあてられぬ状態におります。

 日本が敗戦した一九四五年の八月十五日、蒋介石氏は、日本へのえん恨を赦して、大胆に「日本人を赦してやれ!中国にいる日本人をいじめるな」と布告してくれました。私はこのラジオを聞いて感激しました。私は、李承晩大統領閣下が、ダビデ王が旧敵を赦して、その子供を養うた如く、たとい、日本人が閣下の両手の指を切落した残虐だがあつたとしても、十字架の上に敵を赦したキリストの血を継承せられた閣下は、あくまで日本人を赦し、東洋平和、否、世界平和のために、大韓国と日本を永遠の平和の下に置いていただきたいのです。私は大韓国の国会が創造主への祈りをもつて開会せられていることを聞いていますので、あえて閣下の良心に訴えて、クリスマスを前に、平和の祈りをする次第であります。(毎日・一二・八)

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 国会では毎日「李ライン撃沈声明」について外務大臣に質問がくり返されているが、賀川豊彦老はダビデを殺そうとしたサウロ王の愛児をおのれの手元で養つたという旧約聖書の教えをひき、たとえ日本人がその指を切り落としたとしても、李大統領にダビデ王の寛容を持ち、日本と韓国とを永遠の平和の下においていただきたいと訴えている。賛成である。キリスト教徒である李大統領に同じキリスト教徒である賀川老の言葉はおそらく日本の外務大臣の公式的紋切型の「要望」より強くひびくにちがいない。東京で会談をするのもよいだろうが、魂によびかける日韓会談の私設大使として、ひとつ賀川豊彦老に韓国に行つてとつくり話し合つてもらうのもひとつの考え方ではあるまいか。両国にとつて案外よきクリスマス・プレゼントが生まれるかもしれない(読売新聞・編集手帖より)