世界連邦運動の先覚−インドのプラタップ公

                         宮島 政巳

 戦前のことである。中央線の国分寺の駅から30分ほど入った小平村の津田英学塾の前の草むらに「世界連邦日本本部」なる立て看板が立っていたが、通りがかりにこれを見て訪ねて来る人もなかった。玉川上水に沿って小道を一丁ほど入ると畑の真ん中に赤屋根の一群の小さな家が見える。これがプラタップ公のいわゆる世界連邦日本本部として昭和13年に建設せられたものである。支那事変が始まってからのことであったため、資金と物価騰貴がとの関係から当初の計画ほどのものではなかったが、5棟の建物はプラタップ公の住宅、集会用、来客用、寄宿用及び風呂炊事場食道と小さいながらも一通りそろっていた。

 私は学生時代の3年間を此処で過ごした。草深き武蔵野の寓居には問う人も稀であったが、日曜、祭日には必ず誰か来客があったものである。また何回かの会合の折りには驚くべき多彩な人々が集まってきた。その多くは日本人と、インド人であったが、中国、蒙古、安南、フィリピン、トルコ、ドイツ、イタリア等、人種、国籍の上から見て誠に多士済々、しかも仏教の坊さんあり、基督者あり、回教徒あり、小規模ながらプラタップ公の世界連邦の思想と宗教の融合(Unityof Religions)の主義がこれらの会合に具現されておったのである。

 プラタップ公の世界連邦の構想は、既に第一次大戦当時に始まる。1916、
29歳の時、アフガニスタンの首都カブールにおいて「愛の宗教」なる本を書いた。政治も社会もあらゆる問題が一応宗教的解決なくしては帰結点が得られないとの考えからであろう。インド教徒と回教徒との争いが独立を困難ならしめている宗教国インドに性を享けた一人として、世界の平和確立にも宗教的な解決が第一と考えたのであろう。その後この本はベルリン、北京、東京と各地で英訳、ドイツ語訳、日本語訳としてそれぞれ幾度か刊行されておるが、公の世界連邦構想への一つの宗教的根拠とも見られる。要するに物質的経済的解決より根本的なものとしているのである。

 第一次大戦後、国際連盟が誕生したが、やがてこれを英仏の徒党と堕したものとみなし世界連邦制のためにその解体を叫び、あるいは植民地所有国の連盟より除けとも主張している。政治、民族、宗教及び地理的見地から世界を数個の地域に分かち、各ブロックの体制の建設から説き起こし、民族解放の運動もそのブロック単位で行うべく、インド独立のために大亜細亜義軍なるものを組織したこ
もある。

 第二次大戦勃興するや、日本、インド、中国、蒙古、トルコその他の人々を以てアリアン義勇軍なるものを組織し、これに依ってインドの独立を達成せんと試みた。しかし、緒戦の戦火に酔える軍部はインドまでも軍を進め、日本軍に依ってインドを解放してやると豪語しておったため、日本軍のインド進入はインド民衆に日本の侵略なりと誤解せしめる恐れありとし、アリアン義勇軍に対して、日本軍の絶大なる援助を願いつつも、国内進入に極力反対したため遂に軍に敬遠されるに至り、ビハリ・ボース氏が大東亜代表に選ばれるや(この裏で多くの日本人の策動も原因したが)小平村に籠もってしまった。

 チャンドラ・ボース氏来朝の際など懇談したきことあるから帝国ホテルまで来てくれと幾度かの懇願があったにもかかわらず、自ら日本(軍部の)意に沿わざるものとして、遂に終戦まで一歩も小平村より外に出なかった。その間、幾度か経済的あるいは戦術的見地からして日本の敗北を予言警告していた。

 プラタップ公が他のインド独立の志士と趣を異にしていた点は、世界連邦への理想を抱き、インドの独立もその聖業への一つの段階と考えていた点である。従って前述の義勇軍もフィリピン独立のためでもあり、また安南独立のためでもある亜細亜各国共通の解放軍であったのである。従って境遇を共にする同憂の同志を世界各国に持っておると共に、支配者たる欧米諸国にも世界連邦の理想を有する幾多の同志を持っていた。1929年、ドイツのベルリンにおいて、月刊英文機関紙「世界連邦」を発刊したが、爾来、米国、中国、日本、インドと本人の移動と共に各地で次々刊行され、時には日本語版、支那語版も刊行せられて、今日既に24巻を重ねておる。この種機関紙としてこれだけの歴史を有するものは稀であろう。

 終戦の翌年に至るまでの15年間は日本を本拠としてその運動を続けておったのであるが、当時の日本人の間にはそれほどは受け入れられなかった。しかし敗戦を契機として、戦後世界連邦運動が急激に盛んになり、本秋わが国において世界連邦会議が開かれるに至ったことは誠に同慶の至りである。ここにあらためてこの道の先覚プラタップ公を回顧し、その歩み来った足跡を略述してみたいと思う。

 1886年(明治19年)12月1日、北インドのムルサン藩王ガンシャム・シング・バハードルの第三子としてヤヘンドラ・プラタップ公は誕生したのである。そしてヘートレス藩主ハルナライン・シングの嗣子となった。アリガルの回教大学にて教育を受け、パンジャーブ州ジンドの藩主ランビール・シングの妹と結婚した。在学中に休暇を利用してインド、ビルマ各地を隈なく旅行し、907年、20歳の折りには公妃と共に世界旅行をし、日本に初めて来朝、約一週間滞在した。

 1907年にはブリンタバンの邸宅を開放して工業学校を開設し、農村の子弟教育のために小学校をも建てた。また村人のために協同銀行を開設したほか二種のインド語新聞を発行し民衆の啓蒙に精進した。1911年には工業学校の教育改善のため、自ら英、仏、独に赴きつぶさに西欧の進歩せる工業技術を視察して来た。翌1912年、バルカン戦争中のトルコを援助すべく之を訪れたが、旅券不持と非回教徒たるの理由に依って目的を果たし得ず旬日の滞在にて帰印した。

 1914年、28歳の時、欧州大戦勃発するやインド独立の好機と判断し、ドイツと提携すべく、妻子と別れ旅券も無しに、直ちにドイツへと旅立ったのであるが、奇しくもこれが爾来、32年間の永い外国放浪の始めとなったのであった。まずスイスのセネヴァに滞在してベルリンとの連絡をし、翌1915年2月入、独帝カイゼルと会見しインド独立の動向について語り、アフガニスタンの戦争への参加に依って、インド独立の機運は著しく促進されるであろうと説いた。カイゼルは「独政府は、インドの自由を承認しかつ独立インド政府とは、対等の修交を結ぶべき」旨のインドの26藩王に宛てた親書とアフガニスタン王宛の密書を託し、独・印・土・イランなど各国人より成る使節団はベルリンを発った。途中、君府に寄り、トルコ皇帝ムハムマッド・カジー五世に謁見、ここで更にアフガニスタン王への密書を手渡され、イラン、イラクと陸路を経て同年9月、5カ月の大旅行を了えてアフガニスタンの首都カブールに入った。官民挙げての絶大な歓迎にもかかわらず、優柔不断な国王ハビブラー汗は独土両皇帝の提言に従わなかった。しかし第三子アマヌラー汗とは肝胆大いに相照らすところがあって、インド臨時政府を樹立、その統領となったが、国王は対英宣戦布告を躊躇しておったため、臨時政府の仕事も進ちょくしなかった。1918年、独・土両帝への返書を携え欧州に向け出発。途中ロシアを通過してトロツキーと会見、ベルリン、君府を訪れて一応外交的使命を果たし、ハンガリーに行き、ブタペストに滞在。超えて1919年、アフガニスタンに内乱起こり、国王は暗殺された。アマヌラー汗が新国王に即位。やがてアフガン兵のインド進入、対英宣戦布告となり、再びアフガニスタンに引き返すこととした。途中、レーニンに会見、カブールに着いた時には戦争は既に終わっていた。しかしこれに依ってアフガニスタンの完全独立が認められたので、同国に帰化して王室顧問となった。

 1921年、欧州に旅立ち、更に米国、メキシコを経て翌22年、アフガニスタンの非公式使節として日本を訪れ、朝野の名士から大歓迎を受けた。朝鮮、中国、外蒙を経て翌23年にアフガニスタンに帰国、日本とアフガニスタンとの国交の緒を開いた。1924年、再びアフガニスタンを発ち、ソ連、独、仏、蘭、西を訪問、米国を経由して日本に来、更に北支、蒙古を訪れ、北京にて西蔵パンチェン・ラマに会見。翌25年、インドへの北方路を通ずべく、西蔵に旅したが、チャムドまで行って引き返した。

 1926年夏、長崎で開かれた亜細亜民族会議に出席したが、英国の力未だ強かった当時の日本の官憲は、大阪にて旅券の不備を理由に退去を命じた事件は当時の新聞紙上を賑わしたものであった。その席に居合わせた人々は、インドのいわゆる暴力不服従の精神に感銘深きものを得たであろう。やむなく天津からシベリア鉄道経由で、アフガニスタンに帰ったのである。

 1928年、中国、日本を訪れ、ウラジオストックからシベリア鉄道でモスクワに行き、タシケントを経てイランに入り、再びモスクワに帰った。更にベルリンに赴いた。1929年(昭和4年)ベルリンにて月刊誌「世界連邦」を発行したのは先に述べた通りであるが、1930年、米国を経て日本に来朝、世界連邦協会を組織した。この時以来15年間、日本を本拠として主として東亜において活躍するようになった。この間、世界連邦の亜細亜ブロックの建設に力を注ぎ、1933年(昭和8年)には大亜細亜義軍を組織、まず日本国内の遊説に回って、次いで満州国に赴き、広東において、日本のスパイ容疑で捕縛され後、追放せられて更にシャムに向かったが、ここでも誤解され退去を迫られたので、いったん日本に帰りまた蒙古へと出掛けた。1935年にはフィリピンに赴き、アブリベイ僧正の援助を得て、亜細亜義軍フィリピン支部を設立した。一方、東京においては31年に北京で誕生した世界連邦クラブを再建後、米国へ講演旅行に出た、エチオピアの風雲急なるを知り、2カ月後に日本に帰った。

 1936年、ガンジー翁より、「貴殿の仕事をより充実せしむるため、一定の居所を定めては如何」との示唆により、各国多数の同志の援助を得て、1938年(昭和13年)小平村に400坪の土地を買い、前述の世界連邦日本本部を建設したのである。ここを本拠都市、愈々世界連邦運動の強化に努めたのである、
1940年(昭和15年)にはそれまで幾つかの派に分かれていた在日インド独立運動が一本化され、ラス・ベハリ・ボース氏を副会長、サハイ氏を書記長として、プラタップ公が会長に推されることとなった。翌1941年秋、再びインド独立の好機近きを自覚、アリアン義勇軍を組織し太平洋戦争勃発するや、直ちに日独伊三国の援助の下に独立宣言を発表したが、先に述べたごとく、軍との見解の相違から終戦まで小平村に平遇な生活を甘受しておった。

 終戦後は直ちに戦犯容疑者として連合軍に拘引せられ、大森の収容所に入れられたが、翌1946年春、釈放された。その年の7月突如として連合軍の命により、英国の軍艦で帰国を命ぜられ、知り合いの人々に挨拶する暇もなく帰印したのである。春風秋雨30余年、波瀾万丈の国外放浪の旅より再び祖国の土を踏むこととなったのであるが、この偉大なる愛国者を迎えたインドは、戦犯の裁判にはかけず、翌々1948年(昭和23年)ついに民族多年の光輝ある完全独立の望みを勝ち得たのである。

 今や独立せる祖国インドに郷里プリンダバンを本拠として、世界連邦の建設に日夜真摯な努力を続けておられる。

 かつてインドのネルー首相はその自叙伝において、プラタップ公を一空想家なりとして飜弄しておったが、公は自ら正しいと信じたことは直ちにその実現の難易を念わず実行に着手する人である。該博なる知識をもって判断し、真理把持の正義感より発する強固な信念は絶対に他との妥協を許さない。従って公はネルーの言う如き空想家でもなければ、まして政治家でもなく、また革命家でもない。むしろこれらすべてを包括し人類平和への一大理想を抱ける哲人である。行往座臥ガンジー翁もかくやと思わしめる生活態度は公に接した人々に深き感銘を与えずにはおかなかった。私はいま静かな武蔵野の明け暮れを懐かしく回想し、今秋の世界連邦アジア会議に出席のため、最も馴染み深かった日本を訪れられることを念じ、かつ再会の日を待ち望むものである。(昭和27年8月31日記)