アメリカ協同組合運動のなかの賀川豊彦

アメリカ協同組合運動のなかの賀川豊彦
    ―一九三〇年代を中心として―
                      井上央

 賀川豊彦は生涯に七度、アメリカの大地を踏んだ。彼がアメリカに、アメリカが彼にどのような影響を与えたかを整理する機会(1)があったので報告する。ここでは十五年戦争以前を概略し、戦中戦後については稿を改めたい。
 彼の最初のアメリカ体験は、徳島中学校時代、日本基督教会徳島教会に赴任していたアメリカ南長老派の牧師、H・W・マイヤースとC・A・ローガンのふたりに出会ったことである。
彼等によって複雑な家庭環境から受けた心の傷を癒され、信仰への決意を固めた。明るく、暖かく、知的好奇心旺盛で、しかも忍耐と情熱をもって伝道生活に徹したふたりの人柄は、賀川自身にもみとめられると黒田四郎氏は指摘する。(2)このことを単にアメリカ人宣教師が賀川個人に与えた影響に埋没させることなく、やや大上段な言い方ではあるが、明治期日本のキリスト教影響の視座をもちつつ、「評価と分析」の必要性を指摘する深田未来生氏(3)の研究に賛同するものである。賀川研究の中の〝アメリカ〟はここから序幕するであろう。
 〈1回目〉プリンストン神学校留学(1914・8〜1917・5)
 少年賀川が「イエス伝」よりも「創世記」に、そして「進化論」に興味をもったことが後の思想形成に影響を及ぼしたという指摘も同様に考えるべきである。賀川はアメリカの自由な神学のなかでも保守的な南長老派に学びながら、自然科学に強い興味をもち、信仰と自然科学を連続的にとらえる独自のキリスト教的進化論『宇宙目的論』を構築するにいたった。この例証にあげられるのが、プリンストン大学で遺伝学等を受講したことである。賀川の中では〝生存競争、自然淘汰〟のダーウィニズムと神による万物の創世、人格の確立とが融合して社会改造論(今日批判されている優生学被差別部落観にも)に敷衍された。この思想形成を解明することは、賀川研究の根源的課題である。(4)ただし、いわゆる社会ダーウィニズムの皮相な受容が同時代の資本主義から帝国主義へ、さらにファシズムへ暴走する正当性を与えたのは、賀川のみの問題ではないことも付け加えておきたい。
 NYで六万人規模のデモに遭遇したことや、ユタ州オグデンの日本人会書記として小作人組合のストを指導したことも後の指針となったにちがいない。彼は第一次世界大戦後の好景気に沸くアメリカ労働者の組織力に、神の摂理に導かれる人格の集団としての理想社会を予感した。(5)帰国後の〝救貧〟的セツルメントから労働組合による〝防貧〟運動への作戦転換は、この第一回のアメリカ留学中に発酵したのである。
 〈2回目〉全米大学連盟の招聘(1924・11〜25・7)
 一九二一年、抗争を続ける労働運動から退いた賀川は、関東大震災以後、東京に活動拠点を移して消費組合運動、農民運動に軸足を移す。次に訪米したのは、排日移民法が成立した直後である。賀川は太平洋岸学生大会をはじめ各地の大学、日本人会の多い西海岸を中心にして、移民問題が資本主義の最終階梯の経済帝国主義の犠牲であるとして米国の軍国主義化を警告し、人種問題解決は戦争ではなく、自覚した愛のみによることを強調した。このツアー中、賀川の提唱によってロサンゼルスにイエスの友の会が生まれ、さらに一九二七年、カガワ・フェローシップがワシントン、シカゴ、カリフォルニアなどで組織された。ヘレン・タッピング(6)は、この会から彼のもとへ派遣された。彼女は、一九一九年神戸YMCA設立のために総幹事として神戸に住み、このとき賀川のことを知る。彼女によるパンフレッド『カガワを紹介す』(1935)は、A・C・クヌーテッの『解放の予言者』(邦訳1949)やW・アキスリング『軌を負いて』(邦訳1949)とともにアメリカでのカガワ人気を広
め、さらに再度の訪米を盛り上げる下地になった。
 〈3回目〉カナダでの世界YMCA大会の帰り訪米1931・7〜11)
 〈4回目〉米国キリスト教連盟の招待、米国政府の協力(1935・12〜36・10)
 一九二九年十月の世界恐慌直後の二度の訪米は、FDRのュー・ディール政策の協同組合キャンペーンに関わったことで重要な意義をもっている。(7)特に4回目のツアーは、約六か月の滞米中百四十八都市を訪れ、五百回以上の講演をし、全米にラジオ放送されて約七十五万人が聴いたという大規模なものであった。と同時に、戦後の日米関係や日米の賀川評価にまで影響したという観点から考えても重い意味をもつ。
 ND政策について詳細の暇はないが、産業復興法(NIRA)による金融投資やTVAなどの公共事業、農業基盤調整法(AAA)、労働・社会保障制度の推進は、ケインズ経済学が追認したように、理性的な経済倫理への信頼に裏打ちされているうちは成功をおさめた。恐慌はそれまでのアメリカ社会・経済の反省から、新しい経済倫理への関心を引き出す契機になった。R大統領はアメリカ経済にヨーロッパ型(ロッチデール型)の協同組合を導入しようとして協同組合調査委員会をつくり、財政援助を計画した。その結果、全米に約三〇〇〇の協同組合が設立された。戦後、米最大の規模に発展したバークレー生協などカリフォルニア州の協同組合グループもこの時に誕生したひとつである。
 賀川は主に教会主催の協同組合研究会や学生消費組合、農民の生産協同組合を聴衆にして、国際的な協同組合経済機構の確立とそれを基盤にした国際平和への道を提唱して回った。協同組合運動は精神運動であるとした彼独自の主張が、宗教性精神性を重んじるアメリカ人に歓迎される一方、ND立法に反対する中小企業、保守層からは共産主義者、軟弱な平和論者として攻撃された。この対照的な歓迎と排斥こそ、アメリカ経済・政治のその後の進路の不安定さを象徴している。賀川自身、歓迎と排斥のはざまで苛立ち、都市よりも大自然に、リンカーンの時代に郷愁さえ感じているようだ。
 三六年十一月の大統領選挙直前に中小企業の反対によって協同組合への財政計画がストップ、四〇年代には多くの協同組合が閉鎖された。NIRAの違憲判決(35年)、三七年の再度の恐慌によってND政策は実質的な成果を見ないまま、戦争経済に移行してしまったのである。恐慌、世界戦争への危機に対して、発言力を強めたのは国家権力による「公益・国益」という名の「利益集団政治」、ブロック経済化を守る軍備拡張論であって、けして賀川が力説したようなキリスト教同胞愛による経済運動ではなかった。
 とはいえ、次のようなND政策下に刻まれた賀川の足跡を見ると、アメリカの協同組合運動史でいまも賀川が評価される理由がうなずけるというものである。
 YMCA指導者のシヤーウッド・エデイは賀川が「協同組合運動の四天王」と呼んだひとり。彼の同志サミュエル・フランクリンは一九二九年〜三四年まで長老派伝道団員として来日、神戸で賀川の実践に接した。このふたりが創設したミシシッピ州ヒルハウスのデルタ協同農場(36年〜43年)、同州チューラーのプロヴィデンス協同農場(38年〜56年閉鎖)は、協同組合原則と社会主義的計画経済、人種間正義、社会的動力としての宗教を原理として採用し、賀川の理想を指針としていた。一時は、地域図書室や黒人児童教育、診療所なども併設されたという。結果的には人種問題などで閉鎖に追い込まれるが、「生産者協同組合が経済的失敗だと認めるとして、全事業が人間的成功だった」という。(8)
 この例に限らず、三〇年代の二度のアメリカ・ツアーが大きな遺産となった理由は、旅行中に接した青年の多くが戦後のアメリ消費者運動を支えるリーダーとして、またGHQの官僚として日本に多大な影響を与えたことである。(9)
 小説『ジャングル』(1906)によって食肉検査法が成立したことで有名な社会主義小説家アプトン・シンクレア『ザ・コープ』(37年、邦訳)には賀川が登場する。勝部欣一氏は、「アメリカの生協は賀川のインスパイアー<示唆>によってできた」というアメリカ側の話を紹介している。
 この他、賀川に鼓舞された「理想主義」的指導者たちが戦後の日米の協同組合運動、消費者運動を築いてきたエピソードは枚挙にいとまない。ただし、残念ながら、アメリカと日本の相互の運動主体の側から総括された研究は少ないように思う。私の調査不足であればご教示願いたい。

(I) この一文は昨年八月三日、レイチェル・カーソン日本協会京都セミナーでの発表「アメリカでの賀川豊彦」をもとにしている。同会からデヴィッドートンプソン氏によるカガワ年譜の提供を受けた。
(2) 黒田四郎『人間賀川豊彦』一九七〇年、同『私の賀川豊彦研究』一九八三年。
(3) 深田未来生「C・A・ローガンとH・W・マイヤースー賀川豊彦を巡る宣教師達」『キリスト教社会問題研究』三十二号、一九八四年三月。
(4) 明治学院フレデリック・マウリス、チャールス・キングスレーらを学んだことは、片山潜安部磯雄、木下尚江ら賀川より一世代前の社会主義者が、アメリカのキリスト教社会主義の影響を受けたことと同様である。
(5)布川弘「賀川豊彦労働組合」(『雲の柱』7号、1988年)が、『大朝』大正四年三月の「米国通信」に注目して、賀川の労働者・資本家の理想像の原形がアメリカにあることを指摘している。
(6) ヘレン・タッピングについては伝記的な研究が少ないことが惜しまれる。
(7) 四回目のツアーは'KAGAWA in Lincolns Land / Kagawa Co-ordinating Committee1936' 「世界を私の家として』(1938年、全集23巻)に詳しい。また、Songs from the Slum。Meditation on the crossなど英訳書籍も出版され、日本では賀川個人雑誌の『雲の柱』に逐次掲載された。『賀川豊彦写真集』によれば、このツアー時か、一九三一年にはLAにカガワストリートがあったようだ。
(8) 秋元英一著『ニューディールアメリカ資本主義―民衆運動史の観点から』東京大学出版会、1989年。
(9) 全国農協中央会協同組合図書資料センター編『ICAと日本の協同組合運動 加盟―脱退―復帰への歩み』参照。
(10)『バークレー生協は、なぜ倒産したか』(1992、コープ出版)のなかで、同生協のジェネラル・マネージャーを務めたロバート・ネプチューンやパロアルト生協の理事のモリス・リップマンがこの当時のことを回想している。野村かつ子著『アメリカの消費者運動』(1971、新時代社)や勝部欣一著『虹の歩み』(1994、ほんの木)参照。
                       (ライタ−)

「1997年 雲の柱14」から