2015-02-01から1ヶ月間の記事一覧

海豹の56 永遠への通過

永遠への通過 マリ子が火焔の中から救出したために、線香の火ほども火傷してゐない棄児の百合子を託かった産婆さんの小泉文子が傍に坐ってゐたが、ハンカチを出して。マリ子の両眼から涙を拭ひ取った。父の中将はマリ子の言葉が終るや、 『マリ子よ、弱いこ…

海豹の55 海女の子等

海女の子等 海に生れて 海に逝く 海女の子供は 今日もまた ひねもす舟の ゆりかごに ゆられゆられて なみの上 勇と六人の同志は、毎日こんな歌をうたひながら少し波のある口にも斯波はてんぐさ採りに出掛けた。六日目の昼飯時であった。 『村上さん、もう飽…

海豹の54 天使の喪失

天使の喪失 それから一週間目に一回づつ、静岡の未決監の窓口にマリ子は赤ん坊を覗かせた。それが勇にとっては、どれだけの慰めであったか知れなかった。然し、裁判所の方は、なかなか取調べが進まなかった。刑務所の梅は散り、桜が咲く頃になったけれども、…

海豹の53 赤ん坊の頬ぺた

赤ん坊の頬ぺた 三日の間、沼津署に留め置かれた七人は、その儘、静岡市の未決監に送られることとなった。村民は皆心配して、斯波勝三の父と、仁田祐男の二人に頼んで、僅かばかりの差入物をした。然し、可哀さうなのはマリ子であった。マリ子はもう出産が近…

海豹の52 大臣室と漁夫

大臣室と漁夫 彼が兵庫県から帰ってきた日の朝、富ノ浦の人々は。また三吉の店先に集って皆昂奮したゐた。それは豆駿製糸の悪水のために昨夜から今朝にかけて。また生簀の魚が死んだためであった。 『ど畜生! 井原の野郎、県会議員を買収しやがって! 我々…

海豹の51 飲み残したる苦杯

飲み残したる苦杯 その日の最後の歌がうたはれて、子供等は家に帰った。そのあとから、井原俊子も淋しさうに帰って行った。家の中が静かになったので、叔母はマリ子が思ってゐた通り、父の家に帰るやうにと、すかしたり、なだめたりして、繰返し繰返し同じこ…

海豹の50 荒壁御殿

荒壁御殿 希望の朝が明けた。昨日の雨はからりと晴れて、富士山の頂きには一点の雲さへ無かった。赤ん坊をまだ寝かしておいて、マリ子は新しく借りた家を掃除に行った。家賃二円の家でも住む気になれば、逗子の父の家より懐しく感ぜられた。四間に三間半の納…

海豹の48 海上の奴隷

海上の奴隷 案内してくれたマリ子の父の家といふのは、頗る堂々たる別荘風の邸宅だった。海岸から少し離れてゐるのが難点ではあったが、庭の植込みは、冬でも家が見えないほど立籠り、文化風に建てられた洋館は、狭くはあったが手をこめて造られてあった。マ…

海豹の47 雀のお宿

雀のお宿 それからマリ子は一たん天幕にもどったが、町ヘレター・ペーパーを買ひに行くといひ残して天幕を出ようとした。それで村上勇も彼女と一緒に散歩しようと彼女の出たあとを追っかけて外に出た。街路の上に彼女の影を見つけた勇は、あとから飛んで行っ…

海豹の46 海にあこがるゝ娘

海にあこがるゝ娘「おや、おや……こんな所に置いてくれると出入するのに困るのねえ』 天幕の戸口に立った西田の助手が呟く。それを聞いた勇が、それを傍に寄せる。マリ子は感謝して、二、三遍お辞儀をした。そして天幕の中からナイフを取出して来て、古着を包…

海豹の45 海の失業者

海の失業者 きたないバラックまがひの貧民長屋が並ぶ。狭い路次に、おしめが干してある。鼻垂れ小僧が、竹や木片を持って、泥棒ごっこをして遊んでゐる。飴屋が通る。チンドン屋が行く。紙芝居の前に悪太郎が群がる。よくもこれだけ人間の屑が寄ったものだと…

海豹の44 男に飽いた女

男に飽いた女『若、お父さんが、あんな最期を遂げましたので、せめて私でも、あなたのお側に置いて頂いて、何かの御用に使って頂くといゝんですかね。何か、あなたの脇に私のする用事はありませんか? 飯炊きでも。お女中さんの代りでも何でもいゝんです』 …

海豹の43 人生の暗礁

人生の暗礁 鰹を追うて、北へ北へと進んだ船が、もうそろそろ帰る頃になって、医者は、勇に、少し旅行してもよいと許可を与へた。然し、その時はもう、庭の百日紅が、夏の太陽を受けて真紅に咲いてゐる八月であった。高等海員の試験が受けられないかと絶望し…

海豹の42 海の精の最期

海の精の最期 勇は幸ひ、背中の傷が比較的浅いので、出血は止まらなかったけれども、卯之助の運命が気づかはれたので、彼を探すために艫に廻った。然し、卯之助はそこに居なかった。勇は、白洋丸を一巡して卯之助を探した。然し、何処にも卯之助の姿は見えな…

海豹の41 無風帯

無風帯 高雄に入ったのは、それから二日目の昼頃であった。港に入ったすぐ左手に、漁船のために造られた立派な波止場があった。そこは港でも最も繁華な哨船町と港町の間に挾まれてゐて、海に疲れた人を慰めるには、もってこいの処であった。その日彼は。鮪の…

海豹の40 足摺崎の秋の夜

足摺崎の秋の夜 勇は、それから、猪之助に、高知県の網のこと、遠洋漁業のことなども教へてもらった。すると。猪之助は、それに関連して面白いことをいうた。 『網は、神奈川県や富山県に比べてあまり発達してゐないやうですが、遠洋漁業の精神は盛んなやう…

海豹の39 海を忘れた文明

海を忘れた文明 大阪に着いた勇は、すぐ難波駅から、天王寺の市立病院までタクシーを飛ばした。それは。夜の九時頃であった。病室はみな寝静まってゐた。然し、かめ子は、万龍の傍に茣蓙を布いて坐った儘、雑誌のやうなものを読んでゐた。あまりに勇の帰って…

海豹の38 那智と新しい行者

那智と新しい行者 秋の空は晴れて、那智の滝は白く勝浦の港の入口から見えてゐた。その滝を見ようと楽しみに出てきた万龍が、滝を見ないで、永遠に失明したと思ふと、走馬燈のやうな因果に、人生を寂しい処だと思はざるを得なかった。 然し、船主の伊賀兵太…

海豹の37 闇に輝く光明

闇に輝く光明 一日の中に両眼が潰れてしまった美しい万龍は、診察室から出て来るなり、ベンチの上に泣倒れて、暫くの間身動きもしなかった。 然し、こんな処で泣倒れてゐても仕方がないので。何処か、無料の病院にでも頼んで、眼の治るまで治療さして貰ふこ…

海豹の36 侵しえぬ霊宮

侵しえぬ霊宮 その晩、卯之助の女房たきと娘のかめ子は気をきかして、勇と万龍の床を並べて敷いた。然し、勇は止むなく万龍の傍に寝たものの、万龍を弄ぶといふ気持を起さなかった。彼は父の遺言がある点まで、完成するまで決して女には接近しないと、心で決…

海豹の35 芭蕉の葉の破れ目

芭蕉の葉の破れ目 その日の午後、久し振りに勇は姉婿と母と三人で倉敷へ向った。忍耐深い母が、痛みを訴へるにつけて、孝心深い勇は身代りになってあげたいと思った。医者は、手術をしても助からないだらうと宣告した。それを聞いて勇はほんとにがっかりした…

海豹の34 船玉の聖書

船玉の聖書 一旦湾内に入ると、そこは想像もつかぬ程波も静かで、玩具のやうに小さい小波が、いひわけに波打ってゐた。その時、勇は、海上で祈った祈を思ひ出して心から感謝した。瀬戸内海の御手洗島で覚えたヴィッケル船長に教はった讃美歌が、自然に口もと…

海豹の33 『やあ! 人間ぢゃ!』

『やあ! 人間ぢゃ!』『やあ! 人間ぢゃ、人間ぢゃ! 頭が見えた!』 さういった瞬間に、また船は、大きなうねりのために、漂流してゐる人間と、あと先に隔離されてしまった。続けて、勇が、汽笛を吹嗚らしたけれども、漂流してゐる者は余程水を飲んでゐる…

海豹の32 S・O・S

S・O・S 店から飛出した島香の主人は、すぐ向ひの角丸の店に飛込んだ。 『港外で宮古に入る船が難船してゐるさうな。天祐丸をすぐに出さにやならんが、お家の機関士は、今日は船から上陸してるんでせうなア』 電燈をつけて、しきりに算盤を弾いてゐた角丸…

海豹の31 低気圧に先駆する波濤

低気圧に先駆する波濤 翌朝、船は十一時頃、釜石を後にして太平洋に乗出した。水温を計りながら、沖へ沖へと出て行ったが、空が晴れてゐるのに、濤だけが馬鹿に高かった。延繩の修理をやってゐた卯之助は、艫に廻ってきた勇にいうた。 『大将! こりゃ、今夜…

海豹の30 寒流と暖流の合するところ

寒流と暖流の合するところ 翌朝早く、でっぷり肥えた紀州勝浦港の網元、伊賀兵太郎が銚子にやってきた。そして流網は、釧路に着いてからのことにして、まづ北の方の開拓をしてもよい。といふことにきまった。そして、鈴木伝次郎を兵太郎が連れて帰り、そのあ…

海豹の29 海洋の破戒者

海洋の破戒者 勇が、郵便局から出て来たのは、もう夜の明け放れた五時過ぎであったが、浜に下りる社の角で、松原と、鈴木と、古屋の三人が、いゝ気になって、昨夜遊んだ話をしながら約十四、五間前方に歩いて行くのを見付けた。勇は暫くの間、彼等のあとをつ…

海豹の28 港の魅力

港の魅力 勇が、靴を脱いで、玄関に上ると。そこに出て来たのは、年頃十五六の舞妓であった。ふっくりとした苦労を知らない、赤ん坊のやうな柔かい頬ぺたをして、一重瞼ではあるがぱっちり開いた眼に、長い睫毛をつけて、振袖を左右になびかせ乍ら表へ出て来…

海豹の27 犬吠岬の燈台

犬吠岬の燈台 第三紀層の砂岩の上につっ建った、まっしろの犬吠岬の燈台が見え出した。岸辺を洗ふ大きな濤が、額縁のやうに海に輪廓をつけて、暴風雨の後の風景を愛らしいものに見せた。 表で、広瀬と卯之助が、大吠岬の燈台を見ながら銚子の噂をしてゐる所…

海豹の26 六分儀を手にして

六分儀を手にして 古綿を詰めたやうに、物凄く黒ずんでゐた水平線が、玉葱の皮をむく如く、一皮々々むけて行き、窒息するやうな重苦しい空気が、さわやかな酸素の匂のする馨はしいものに変った。雲の間に大きな亀裂が入り、待ち焦がれてゐた太陽が、ちょっと…