海豹の45 海の失業者

  海の失業者

 きたないバラックまがひの貧民長屋が並ぶ。狭い路次に、おしめが干してある。鼻垂れ小僧が、竹や木片を持って、泥棒ごっこをして遊んでゐる。飴屋が通る。チンドン屋が行く。紙芝居の前に悪太郎が群がる。よくもこれだけ人間の屑が寄ったものだと思はれる程、東京の貧民窟の印象は、勇の海で鍛へた胸を圧迫した。
 勇は、大都会の細民街の社会事業を見るにつけて、与へんとする社会事業が、かへって依頼心を起させ、協同組合による自力更生の組織運動が、貪しい人々を力強く解放しつゝあることを、本所の約十日間の生活によって、学び得て嬉しかった。彼は産業青年会の傍に立ってゐる質庫信用組合や、労働者消費組合、また盛んに宣伝されつゝあった医療利用組合のやり方を覚えたので、これをその儘、漁村に応用すればいゝといふことを知り得て喜んだ。
 それで彼はすぐ、紀州の勝浦に帰って行った。然し、四ケ月の留守の間に、伊賀兵太郎の考は全く変ってゐた。勇は、彼が甲種運転士の資格をとってきたことを喜んでくれると思ったに拘らず、尋ねて行っても座敷に上れともいってくれないのにびっくりした。
 様子を聞いてみると、釧路から帰ってきた松原敬之助か、また兵太郎にとり入って、白洋丸に乗ってゐるらしかった。松原が船に乗ってから儲けがあるかときくと、損ばかりしてゐると兵太郎は答へた。
『そりゃ、松原は不正直だから、いくら獲れても持って来ないですよ』
 といふと。兵太郎は、
『松原にいはすと、君もなかくうまいことをしたさうぢゃないかね』
 と、何だか、勇自身に不正行為でもあったかの如き口吻を洩らした。それには勇も憤慨して、弁明する勇気さへ持たなかった。然し、勇は、その時ほんとに教へられた。正直な人間が必ずしも勝利を得るのではなく、上手におべっかをいって、口上手に立廻る人間が、却って人に信用を受けるといふことを。
 で、勇は半泣きになって、大阪行きの汽船に乗込み、やっと神戸に着くと、十銭だけ金が残るやうな淋しい懐具合であった。
 青い顔をして神戸海員ホームの玄関先に立つと、元気のいゝ薄田が、奥から出てきて、大声で怒鳴った。
『青瓢箪、なぜ元気のない顔をして居るんぢゃ? 失業したんか?・  へこたれるな』
 と、例の調子で元気をつけてくれた。
 その翌日であった。薄田の女房の家から、魚類運送船の運転士が一人欲しいと、薄田の処に通信があった。薄田はすぐ勇に『行かないか』と勧めてくれた。何処から何処へ通うてゐる船だといふことさえよくきかなかったが、彼はすぐ承諾した。

  トラムプ船

 船は八百噸級の魚獲物運送船であった。持主は東京築地の魚問屋で、相当に水産界に知れてゐた、森田弥兵衛であった。船名は第十一福徳丸と呼ばれた。魚類運送船としては、全くの新型でアムモニヤ瓦斯を利用した冷蔵室までついてゐた。紹介してくれた薄田が、何処通ひの船か知らないのも道理で、船は定期航路といふのはなく、露領沿海州のニコリスクから、南はボルネオのスールー海迄、所を定めずトラムプ船としてグルグル廻ってゐる、面白い船であった。村上勇はその船の一等運転士として傭ひいれられたが、月給は僅か六十円で実に安かった。しかし遊んでゐるよりましだと思ったので、彼はよろこんで就任した。船長は永松五郎といって、富山県滑川の水産講習所の出身だった。もう二十数年間も一つ会社の船に乗ってゐるとかで、律儀な人のよささうな男であった。
『何分よろしく願ひます。この種類の船にのるのは初めてですから、少しも様子が解りませんので、へま(ヽヽ)をするか解りませんが、一生懸命やってみますから、どうか足らん所は一々注意して下さい。
労力は決してぃとひませんから、まあぼつぼつ気長くお導き下さい』
 勇が叮嚀にさう挨拶すると、背の低い細目の船長は、馬鹿叮嚀に帽子までとって、
『いやあ、こんな船に甲種運転士のお方をお迎へするのは勿体ないですけれど、まあ時勢が時勢ですから、辛抱して下さい』
 さういった船長は、乙種船長の資格は持ってゐたけれど、甲種運転士の免状は持ってゐなかった。
 海の好きな勇には、アジヤ大陸の沿岸を、北氷洋から南洋にかけてまで、くるくるかけ廻ることが愉快でたまらなかった。北では鯨を積込み、南では鮪や鰹を搭載して、阪神地方や、京浜地方に運ぶのが、大体のコースであった。
 そして勇が運送船に乗込んで約一年間は、早くも過去ってしまった。世間は益々不景気になった。青い海ばかり眺めてゐる村上勇にも、自分の身辺に起って来る出来ごとだけで、日本の経済的危機を予知しないわけに行かなかった。福山に下駄屋を開いてゐた義理の兄は、とうとう破産して静岡県沼津でそばやを開業してゐる弟を頼って移住したといふ通知を受取った。また瀬戸内海の弓削島の商船学校で勉強をつゞけてゐた、勇の弟も卒業はしたけれど、就職口がないので義理の兄に伴はれて、静岡県へ引越したといふことを報じて来た。
 姉の手紙によると、足掛三年前に離別して飛出した御手洗のかつ子は、再縁して、もう男の子を生んだといふことだった。
『――世の中といふものはをかしな所だなア――』
 デッキの上で姉の手紙をよんだ勇は、再縁したかつ子が子を生んだと聞いて、微笑を禁じ得なかった。

  天幕(テント)保育所

『おいえらいこっちゃぞ、静岡県の三島では又大地震があったぞ。町は全滅らしいなア』
 第十一福徳丸が釜石の鮪をつんで、マストに出帆フラグをかゝげ、もう一時間もすれば東京に向けて出航せんとしてゐた時に、機関長の原貞蔵は新聞の号外を手にしながら。ハッチの蓋の上にカヴァーをしっかりゆはひっけてゐた村上勇の所に来て、さう出しぬけにいうた。
『え? またか、よく地震が揺るなア、こんなにやられちゃたまらんぢゃないか。沼津は、君、大丈夫か? 俺の姉も弟も今沼津にやって来てゐるんだが、今度東京へ着いたら、見舞に行ってやらんといかんだらうなア』
 さういってゐる所へ、船長も、水夫も、火夫もみんな集って来た。そしてデッキは又大正十二年九月一日の大地震の話で、花が咲いた。船長はその時、第三福徳丸の一等運転士として横浜に入港してゐた経験を、面白い口調でみんなに物語って、そこになみゐる者を笑はせた。
『――市が倒れるといふ言葉は大きいやうだけれど、実際わしは恰度その時、操舵室の上にゐたので、横浜市が西南の方から将棋倒しに倒れて行った様子をはっきり見たなア。地震といふものは、大波と少しも変らぬものぢゃなア。それは大きな物音がしたぞ。ゴオーというて陸地に大波が立つと、家がばたばたと倒れる。後からく砂煙がたつ、それが天に舞ひあがる。忽ち横浜の空は真黒になって、お日さんの光が見えなくなったからなア』
『そんなものですかなア』
 村上勇は感心して聞いてゐた。
 東京芝浦に船がついてから、勇はすぐに船長の許可を得て、沼津に姉を訪問した。そして幸にも彼女の一家族が安全なことを知ってよろこんだ。しかし、参考にもなるだらうと思ったので、震災地帯を見学にまはった。山くづれ、陥没、火災、崩壊、圧死、焼死、到る所に地殼の変動から起る残骸が目にとまった。たゞ東京地方の大震災と異って、農村に起ったものは、損失の少いことに就て比較にならない程だった。その時、村上勇の考へたことであったが、東京ももう少しちっさい都市であったなら、大正十二年の大損害は起らないであったらうと。
 韮山附近迄見てまはって、火災の最も激しかった、旧三島市街にはいると、そこに一個の天幕が目に付いた。表に看板をかけてなかったが『子供預ります』といふ広告が、ちっさい木片の上に書かれてあった。厚志な人もあったものだと、勇は天幕の中をのぞいてみた。それは午後二時過だったが、天幕の中では、二十人ばかりの子供がおとなしく、一人の女の先生に指導せられて、色紙を折ってゐた。その女の先生は、まがひもなく一年前のクリスマスに、東京深川富川町の貧しい人々を招いた祝賀会に、中心となって働いてゐた元気のいゝ洋装の婦人であった。
 勇はよくおぼえてゐたが、先方は忘れてゐたらしい。一寸お辞儀をしたまゝ相変らず熱心に、ちっさい子供の手をとって色紙を折りつゞけてゐた。村上勇は彼女の姓名を思出さうと思ったが、どうしても思出すことが出来なかった。しかし、どうしてこんなに勇敢に、震災地まで迅速にとび出して来て、人の余り顧みない保育事業が出来るか、その理由が聞きたかった。金儲を目的にしてゐる漁業者でさへ、こんなに敏活に手が出せないものを、いつも東京にゐる筈の彼女が、どうしてこんなに早くやって来たかを、聞きたゞしたかった。それで彼は少しの間、天幕の入口に立って、課業のすむのを待ってゐた。
 表から白のエプロンをかけた年の頃十七、八のやさしさうな顔をした娘が、風呂敷包を持ってはいって来た。それを見た女先生は、すぐ子供達に折紙の始末をさせ。少しの間、表に行って遊ぶやうにと子供等にいうてきかせた。すぐ子供は表にとび出した。机の上にはアルミニュームのお皿が並べられ、若い娘の持って帰って来た風呂敷包がとかれて、オヤツが皿の上に分配せられた。その機会をとらへて、村上勇はしっかりした洋装の女の先生に挨拶をした。
『私はこの前あなたを富川町のクリスマスの時、お見かけしましたが、こゝで偶然お目にかゝって、あなたの熱心さに感激してゐるんです』
 さういって彼の名刺を差出した。彼女はそれを見て、
『あなたは船に関係のある方でいらっしやいますか? わたしのお父さんも海軍にをりましたの、ですから海員の方にお目にかゝると何だか懐しい気がしますわ』
 さういって彼の顔を見詰めた二つの瞳は、眩ゆいほど澄んでゐた。彼女の顔は叡智にあふれ、眉間には慈愛が光ってゐた。それから二人は少しの間話をした。そして彼女が東京のキリスト教聯盟から震災救護に派遣せられたこと、彼女の父が海軍中将であること彼女が父のひとり子であること。しかし父がキリスト教に理解をもって、貧民窟の社会事業によろこんでいつも出してくれることなどを、つゞけざまにつっこんだ質問をすることによって、勇は知ることが出来た。勇が本所の産業青年会を応援して、去年のクリスマスを非常に愉快に送ったことを話すると、彼女も漸く彼の顔を思出したらしく、
『あゝ、あの時荷車曳いていらっしやいましたわねえ。あなたでしたか? あの時は顔色がお悪いやうでしたが、今は随分血色がおよろしいですね。あの時は御病気でしたか?』
『いや病気といふのではなかったんですけれど、少し試験勉強をしてゐたものですからね、よわってゐたのでせう』
 さういってゐる所へ、表から菰(こも)巻の古着らしいものが三個届いた。子供らがその荷物の周囲に群る。海軍中将の娘の西田マリ子が、その荷物を受取るために天幕を出た。