海豹の46 海にあこがるゝ娘

  海にあこがるゝ娘

「おや、おや……こんな所に置いてくれると出入するのに困るのねえ』
 天幕の戸口に立った西田の助手が呟く。それを聞いた勇が、それを傍に寄せる。マリ子は感謝して、二、三遍お辞儀をした。そして天幕の中からナイフを取出して来て、古着を包んだ菰と繩とを取去らうと努力した。それを見た付上勇は、すぐ彼女の手からナイフを奪って彼女を応援した。西田マリ子はその間に子供を天幕に誘ひ入れ、子供に一つ歌を歌はせて、オヤツをたべさせた。
 さうしてゐる所へ、また天幕の前に米俵を積んだ馬力車が一つ止った。馬子が天幕の入口にやって来て、
『静岡から米を積んで来ました。受取ってくれませんか』
 さういひすてて、また馬力車の所に帰って行った。
『困ったわねえ。あんなにたくさんなお米を何処へいれるんだらうか? 一寸愛子さんI』
 マリ子は若い娘のことをさう呼んだ――。
 そして、つゞけていうた。
『一寸、あなた浮田先生の所へとんで行って、何処へ静岡から来たお米を置きませうかといって尋ねて来て頂戴』
 助手の愛子はすぐ走り出した。馬力曳は、霜解けで少し泥濘(ぬかるみ)になってゐる道路の上をもかまはず、二十俵に近い米俵を荷車からおろし始めた。そして愛子が再び天幕に帰って来た時には、馬力曳はも
う、荷を凡ておろして、静岡の方へ帰ったあとであった。
 早足で帰って来た愛子は、
『あんな所に、お米を積み上げてしまっちゃ、困るわねえ。先生は馬力曳さんに教会の方に積んで来るやうにいひつけてくれといはれたんですが、どうしませうねえ? もう帰って行ってしまったんでせう?』
 さういってゐる所へ、丸顔の背の高い牧師が天慕にやって来た。
『困つたなア、あんな所へ置いて行っちゃ始末におへんなア。天幕をもう一張りはって、天幕の中へでも入れておくかなア。男手は少いし、天幕を張るのにも困ったなア
 その言葉を聞いた村上勇は、すぐ彼が応援することを申出た。勇は日の暮れるのも忘れて、托児所に使ってゐるハウス型の天幕のとなりに、ピラミッド型の天幕を張り、二十俵のお米をその中に運びいれた。
『このお米は半分、明日から配給して、残りを托児所に来る子供に食ってもらふのです』
 勇が全部お米を天幕にいれた時、マリ子はさういうた。そして是非夕飯を一緒に食うてゆけと勧めてくれた。東京に帰ることを急いでゐたけれど、勇にはそれを断る勇気はなかった。彼はまた一列車のばして、マリ子がちっさい土鍋で自ら炊いた飯を、茶碗に盛って貰って、うまく食った。
『私はねえ、海に働いてゐる方が、とても好きなんですよ、私は男に生れてゐたら、きっと航海者になってゐたらうと思ひますわ』
 そんなうまいことを快活なマリ子は、村上勇の茶碗に二杯目の飯をつぎながらいうた。
『西田さんはねえ、とてもヨットを操縦するのがお上手なんですよ』
 助手の北村愛子が、味噌汁をつぎながら、傍から口を添へた。
『さうですか、それは驚きましたねえ。何処でヨットを操縦するのを習はれたのですか?』
 不審がって勇はマリ子に尋ね返した。
『三崎にねえ、父の別荘がありまして、そこにヨットをつないだり、三浦半島の油壷にヨットをつないだりしてゐるのです。父はもう母が死んで、一人で淋しいものですから、夏になると私を助手にして、遠く小田原あたりまで出て来るんですよ。もう女学校の一年生頃から乗ってゐるものですから、一人前とはいけませんが、半人前位はやっと出来るやうになりましたの』
 マリ子は少し得意になって、両手で飯を盛った茶碗を勇に差出しながら、さういうた。
『この夏は随分面白かったのねえ。マリ子さん……もう一度あんな愉快な海の旅行がしたいわ……』
 愛子は持ってゐた茶碗をテーブルの上に置いて、さういうた。
『どんな旅行せられたのです?』
『いゝえねえ、父が私と愛子さんを助手にしましてね。東京湾を一周したんです』
『それは羨しいですねえ』
 ヨットの好きな勇は羨しがってさういうた。外には凩が吹きすさんでゐた。
『今夜これからお帰りですか、出帆はいつなんです?』
 マリ子はいかにも名残り惜しさうに勇に尋ねた。
『今夜泊っていって下さるといゝのにねえ。ねえ愛ちゃん、泊っていらしたらいゝのにねえ』
『布団がないでせう?』
『布団はないけれど、毛布がたくさんありますよ。別にお帰りを急かなければ、泊っていらっしゃいよ。そしたらあの古着を今夜のうちに仕分けしておいて、明日配給してしまひますわ。そんなにお帰りをお急ぎになるんですか?』
『いや別に定期航路をとってゐる訳ぢゃないですから、急ぐ訳でもないのですかねえ。船にどんな用事があるか解らないものですから、今夜中に船迄帰らうと思ってゐたんです。船は明後日位、台湾の方に行くことになってゐるんですかねえ。どうしようかなア』
 村上勇がにぶった口調でさういふと、マリ子は元気のいゝ冴え切った調子でいうた。
『海の話をして下さいなア、今晩、私はとても海が好きなんだから』
 まさかこんなあたゝかい歓迎を陸上で受けるとは思はなかった勇は、海の好きな二人の娘に引留められて、とうとうその晩は天幕のキヤンヴァス・ベッドの上に寝ることになった。

  遊星と黄道

 天幕の中は、丸本をならべた上に床板がはられ、その上にアンペラと茣蓙(ござ)とが敷かれてあった。古着がその茣蓙の上に並べられた。マリ子と愛子とは、それを男女別と年齢別に、又冬着とさうでないものとに分類した。その分類が続いてゐる間にも、マリ子はヨットの話にtゞいて、静岡県の漁村の悲惨な話を始めた。
『全く震災地以上ですよ、その悲惨なことは、殊に近頃は工場がみんな、悪水を海に流すでせう。だんだん魚がとれなくなりましてね。大きな工場のある沿岸の漁民は皆苦しんでゐますよ。あれはどうかして救ってやりたいですね』
 マリ子が房総半島や三浦半島や又伊豆半島の漁民の生活に明るいのに、勇はびっくりしてしまった。
『随分あなたは漁民の事情に通じていらっしやいますねえ』
 さうマリ子にいふと、マリ子は、真面目な顔をして勇に答へた。
『少しも知りゃしませんよ。唯、父が漁民が可哀さうだといって、いつも漁民救済のことに心を砕いてゐるものですから、ヨットを港にいれる毎に、よく事情をきくんですの、ヨットで遊んでまはる所だけは、少し詳しく知ってゐるだけなんです』
 そんな話から、勇は一年半程前迄漁船に乗って太平洋沿岸をうろついてゐたことをマリ子に話した。するとマリ子は遠洋漁業の話をしろと、そこに坐り込んでしまった。それで彼が支那海の海賊と戦うた話をきかせた。すると、
『そんなに支那海には海賊が多いですかねえ』
 とびっくりしてゐた。古着の仕分けもすっかりすんだので、三人は角火鉢の脇に三つの椅子を置いて、又海の話を始めた。そして話は海の話から、航海者に必要な天文の話になった。すると西田マリ子は、父に教へられたといって、面白く星座の話をし出した。
『夏の夜など、ヨットの中に寝ころんで星を見てゐると、星といふものはほんとに美しいものですねえ……。あゝ、今夜あたりは土星がとてもよく見える所に来てゐますねえ』
 マリ子がさういふと天文のことを余り知らない愛子は、マリ子の顔をのぞき込んだ。
『さう。土星には写真に出てゐるやうなリングがほんとにありますか?』
『見えますとも、おもちゃの望遠鏡でも見えてよ』
『私まだ一度も見たことがないのよ。私は遊星がどこからどこを通ってゆくかも知らないんですの』
『ぢゃ見せてあげませうか。あなた寒いこと辛抱する? 外套をかぶっていらっしやいよ。風邪ひかんやうにして。今夜はとてもよく澄んでゐるから、はっきり見えてよ』
 マリ子は毛布を頭からかぶって天幕の外に出た。愛子はマントの中に首をすくめてマリ子の後を追うた。それで村上勇も二人の後について天幕を出た。勇が彼のきてゐる外套のほかに、毛布もマントも持ってゐないことを見たマリ子は、
『まああなたお寒いでせう』
 さういって又彼女は天幕の中にとってかへし、寝具として使用する茶褐色の毛布を一枚持出して来た。
『頭からおかぶりなさいよ。さうしないと風邪をひくから』
 さういって、勇にその毛布を手渡した。肌をさすやうな冷い風が、富士の裾野を吹きまくってゐた。空は紺紫に澄み、星は銀砂を撒いたやうに美しく光ってゐた。マリ子は愛子の肩に手をかけて、遊星の通る黄道を詳しく説明してゐた。
『まあ美しいのねえ。こんな美しいお星さまがあるのに、何故みんな心を汚くするのでせうねえ。星のことを思ふと神の存在を疑へないのねえ』
 愛子が大声で、マリ子にさういってゐることが聞えた。しかし薄着してゐた愛子はよほど寒かったと見えて、
『まあ寒いこと、私はもう天幕の中にはいりますわ』
 さういってさっさと天幕の中にはいっていってしまった。あとに残ったマリ子は、北斗星の右側の星座を指して、勇に質問を始めた。しかし、勇にはマリ子がどの星を指さしてゐるのか、その見当がっかなかった。
『どの星ですか?』
 と勇は彼女の傍により添うて行った。すると彼女は、右手をさしのばして、紫紺の天空の一角を指さした。しかし、それでもはっきりした方向が解らなかった。それで勇は彼女のうしろにまはって、彼女の首に手をかけ、彼女の指さしてゐる方向を見詰めた。やっと彼女の指さしてゐる星の方向だけがわかった。しかし勇には星のことよりか、彼女の肉体に触れたことの衝激の方が強かった。電流を通じたやうに、彼の筋肉が硬直した。心臓の鼓動が早くなった。唇が硬ばって、数秒間言葉が出なかった。やっとのこと元気を出して。彼は小声にいうた。
『あの星を私は知りませんよ』
 さういうてしまったが、彼はその左手を彼女の肩から離さうとはしなかった。その時、思ひがけなく、彼女の右手が動き、勇の左手をとってくれた。その時の勇のうれしさは、譬へやうもなかった。彼は夢心地になって、沈黙したまゝ彼女の首を抱き締めた。しかし、マリ子は決してそれを拒絶しなかった。たゞ沈黙したまゝ星を見上げてゐた。