海豹の47 雀のお宿
雀のお宿
それからマリ子は一たん天幕にもどったが、町ヘレター・ペーパーを買ひに行くといひ残して天幕を出ようとした。それで村上勇も彼女と一緒に散歩しようと彼女の出たあとを追っかけて外に出た。街路の上に彼女の影を見つけた勇は、あとから飛んで行って、彼女の傍を歩いた。そのあたりは一面焼野原であったので、夜になると人通りは全くなかった。で勇は彼女の右腕をとり、彼自らの過去を告白しておく必要があったので、かつては彼が養子に貰はれて行ってゐたことを詳さに物語った。それに対して、明るいマリ子は、
『さう、そんなこともあったんですか。海の人に理解のない女の人は困ったものですねえ』
といって別に彼の悲しい過去に気を留めなかった。勇はよほどその時もう少しつっ込んだ話がしたかった。けれども会った早々でもあり、そんな進んだ話をよう口に出さなかった。文房具屋から天幕に帰って、マリ子は施米の切符を百枚つくった。そして明日はバラックの人にわけるのだといって、切符の上に印制する謄写版の手伝を勇にさせた。そのうち十時になったので、三人ともみんな寝ることにした。
勇は先にねかされたが、キヤムヴァス・ベッドから細い目をして、マリ子がどんな風をして寝るかと見てゐると、先づ洋髪を全部ほどいてお下げにたらせ、ベッドの裾で、長い西洋風の寝衣にきかへてゐた。そのあたりの所作が今迄かつ子や万龍のやうな木ノ江芸者の就寝の様子とよほど違ふのが、面白く感じられた。そして、ベッドにはいる前に、跪いてしばらくの間祈ってゐた。その様子が如何にもしほらしく、かうした姿は新しき時代を指導する女性の半面であらうと、勇はつくづく感心した。愛子もマリ子と同じそうな様子をし、又同じやうに跪いて祈って、勇とマリ子の間におかれた『畳みベッド』の毛布の中にはいった。
翌朝であった。愛子は早く起きて、天幕の外で炊事の手配をしてゐた。マリ子は天幕の中を片付けてゐた。そんな事には気がつかず、久振りに陸上で寝た村上勇は、天幕の東側が太陽の光線に黄色く輝く迄、目がさめなかった。もう起してもよいと思ったか、マリ子は彼のベッドに近付き、彼の頬っぺたを柔く撫でた。
『村上さん、御飯が出来ましたよ』
彼女はさういひながらも、右手で勇の左の頬っぺたを撫でまはした。びっくりした勇は、その手を握って唇にあてた。すると、マリ子は左手で勇の片一方の頬っぺたを撫でまはした。起上った勇は、朝飯はもう食ひたくなかった。極度に昂奮して、愛子にどういった風に朝の挨拶をしてよいか、それさへ考へ出せなかったほど、とまどうた。しかし、彼は今日船に帰らねばならなかった。食事がすむ頃には早やバラックの子供が十四、五人、天幕保育所に詰めかけてゐた。そしてマリ子はまたすぐバラックをまはって、施米の札百枚を、配布しなければならなかった。
で勇は男らしくマリ子に別れを告げることにした。街路迄送って来てくれたマリ子は、
『私ね、まだあなたに話したいことがたくさんあるんですよ。だけど今いへないから、お手紙書きますわ。あなたもお手紙下さいな』
さういって、あっさり握手してわかれた。勇は、東京行きの八時の列車にやっと間に合ったが、列車の中まで天幕で送った一夜の昂奮が続いた。
その日の午前十時過に、彼は芝浦の埠頭に帰った。ところが船長の永松五郎は、『東京で正月が出来るやうになったから、来年の一月四日まで故郷に帰って来てもよい』と、彼に猶一週間の休暇をくれた。彼はそれを小踊りしてよろこんだ。
早速、彼はまたその晩、西田マリ子の義勇的に働いてゐる、静岡県三島の天幕にとって返した。彼が暗い街路を歩いて、天幕の入口に姿を現すと、マリ子はびっくりしてゐた。
『まあ、どうしたの? あなた東京へ帰っていらしったの?』
といぶかって尋ねた。
『一月四日迄休暇が出たんですよ。それで又御手伝に帰って来たんです』
『さう。それはよかったわ。男の人がゐないと重いものを持っていたゞくことが出来ませんからね。今朝もお米を配給する時、随分困りましたのよ。恰度いゝわねえ。愛子さん。牧師さんも一人男の人を頼んであげませうといっていらっした時ですから、村上さんに義勇的に働いていたゞけば、それに越したことはないのねえ』
勇はその次の朝から、一生懸命働いた。朝は二人の娘より早く起き、天幕の周囲を掃ききよめ、七輪に火をおこし、娘が顔を洗ふ前に、土鍋の御飯がもう出来てゐるやうに、準備した。それから天幕の中を片付ける時にも、隣のピラミッド型の天幕の中を整理する時でも、コツコツ狭い船の中を片付けるやうに、機敏に立廻って、ちょっと天幕の中にはいって来た人が見ても、感じのよいやうに凡てを整頓させた。
愛子はそれを見て、勇をほめた。
『船の人は。しょっちゅう、片付ける習慣がっいてゐるから、片付けるのが上手ねえ』
マリ子もそれに賛同した。勇はそれが嬉しかった。保育所の日課が始ると、勇はとぼとぼ焼けてゐない市街地迄、大工道具と木材を買ひに行き、子供の喜びさうな辷(すべ)り台を、米のはいってゐる天幕の中で造り始めた。大工の仕事は商船学校で教へこまれてゐたから、さう困難ではなかった。
昼すぎには、買へば二、三十円する辷り台が、ハウス天幕の裏側に据ゑつけられた。子供の喜びはたとへやうもなかった。
『村上さん、あなた随分、器用ねえ。びっくりしてしまひましたよ。ついでにシーソーと、船型の揺台と、出来れば、ちっさいブランコも造って下さいよ。材料費はこちらが出しますから』
西田マリ子が、勇の大工の手際のよいのに、つけ込んで、さういふと、勇もよろこんでそれに応じた。次の日一日かゝって、勇はマリ子の要求した三つのものを皆造ってしまった。
『これぢゃほんとの幼稚園に劣りやしませんよ』
愛子はうれしさうに勇にさういうた。遊び道具が出来てから、天幕の周囲は急に賑かになった。小学校の生徒までがやって来て、朝から晩まで、ブランコを奪ひ合ひした。
十二月三十一日の日も、勇は箒と、かんなと金槌とを離さなかった。朝早く箒で天幕の周囲を掃除した後は、叉うちらにはいって、いつもの通り整理を始めた。整理がすむと、鋸とかんなと金槌とをもって、天幕保育所に必要な積木をつくったり、書棚をつくったり、下駄箱をつくったり、仲々急がしかった。そして精力の旺盛な勇は正月の一日から、ハウス天幕の横にちっさい三畳敷の小屋を建て始めた。それは天幕の中が余り冷えて、マリ子と愛子が病気になることを恐れたからであった。勿論僅か一日のうちに建てようとする小屋であるだけに、それはまるでおもちゃのやうなものであった。
しかし、正月の休を利用して、愛子が横浜の両親の所へ帰って来る間に、クレオソートを塗ったちっさい家はもう出来上ってゐた。それは三畳敷のおもちやのやうな家であったが、南側にはガラスがはいり、北側には三尺に一間の押入れがついた、至極便利な家であった。マリ子は初めからしまひまで、この家を建築をする助手をした。そしてそれが出来上った時、自ら『雀のお宿』といふ名をつけた。
『勇さん。私達の家はこんな家でいゝのねえ――これで上等だわ。結構これで住めるのよ』
マリ子は意味あり気な口調で、勇にさういうた。夕方その家に茣蓙を敷き、テーブルを並べて、火鉢を囲んで落付いた時は、勇はその家の主人であり、マリ子がその家の主婦であり、愛子がその家の娘であるやうな気がした。
『まあいゝ家だこと、千万円出したって、こんな立派な御殿に住まれやしないわ』
マリ子は丸々肥った頬っぺたを林檎のやうに赤くしてさういうた。
『この家にポーチをつけたらいゝなア。明日はさうしてやらう』
勇は独言のやうに。戸口の方を見つめてさういうた。
雪の朝の棄児
『まあ! 棄児してあるわ!』
ピラミッド天幕から雪を踏んで帰ってきた北村愛子は、訝るやうな口調で、ハウス天幕の中を片付けてゐた村上勇にさういった。生れて初めて棄児といふものを実際に見る勇は、殆ど信じられないことだと考へながら、彼が毎日、仕事場に使ってゐたピラミッド天幕の方へ歩いて行った。斜になった天幕の入口を二、三歩中に入ると、北村愛子が報らせてきた通り、汚れたモスリンの冬着に包まれた赤ん訪が、すやすや眠った儘、箱の蔭に寝かされてあった。生れてまだ百日とは経たぬと見えて、顔の形は猿に似てゐた。その上栄養が悪いと見え、顔には光沢がなく、額には皺さへよってゐた。
『おや、ほんとに! 赤ん坊が天から降ってきたな!』
滑稽混りに勇は独言のやうにいうた。そこへ、西田マリ子も愛子と二人でやって来た。マリ子は、ながくひかれた美しい眉毛を釣上げて、心持ち微笑しながら天幕に入った。
『なぜ、こんな可愛い子を棄てる気になるのでせうね、生活難に困ったんでせうか? ……然し、交番所に早く知らさなくちゃならんでせうね。村上さん、あなたちょっと、交番所へ走って行って頂戴よ。棄児があったといって』
さういはれて勇はすぐ巡査を呼びに飛出した。
愛子は、マリ子が抱へ上げた赤ん坊を覗き込みながら、小さい声でいうた。
『枕許にちゃんと吸口のついた牛乳壜まで置いてあるのを見ると、乳が出なくて困ってゐた人かも知れないのね』
『然し、棄児する人も余程考へたんですよ。こゝは保育所だから、保育所に棄てて置けば餓死にはさせやしないと思つたんでせうね。……しかし棄てられてもこんな無邪気に眠ってゐられる赤ん坊は幸福ね。ねえ、愛子さん、この赤ん坊を巡査に渡さないで二人で育てませうよ。ずゐぶん手数がかゝるかも知れないけれど、私は馬鹿にこの子が好きになっちゃったわ』
それに対して愛子は別に返事をしなかった。それは手数がかゝることを恐れたからであった。巡査はすぐ飛んで来た。そして一々北村愛子が最初棄児を見付けた時の事情を手帖に書付けて帰って行った。
『なんだ、頼りない巡査だなア。赤ん坊をどうするともいはずにかへって行ってしまったぢゃないですか』
村上勇が笑ひながらマリ子にいふと、マリ子も微笑みながら答へた。
『あれはね、私達が世話することだと思ってゐるから。安心して帰って行ったんでせう。巡査も赤ん坊を引取ると煩さいものだから逃げるやうにして帰って行きましたね』
バラックの小屋に寝かしてあった赤ん坊が火のつくやうに泣き出した。
『おやおや、赤ん坊が泣き出したわ、きっとおむつが濡れてゐるのよ』
愛子がさういふと、
『さあ、大変! おむつの布片がない。さうそ。牧師さんの処にはきっとおむつの古いのがあるに違ひない、あしこへ行って貰ってきませうよ』
さういひながら泣きわめく赤ん坊を背中に負はせて貰って、マリ子は数町離れた教会まで飛んで行った。牧師の妻君は早速、古い行李の中からおむつを数十枚取出して、笑ひながらマリ子にいうた。
『西田さん、あなたもまだお若いのにお母さんになって御苦労様ですねえ』
『ほんとにいゝ経験ですわ、今から稽古してをれば、自分の子を生んだ時に困りませんからね。おほほゝゝ』
『西田さん、あなたがもしお困りでしたら私がお世話してもいゝですよ。いえ、ほんとに、大勢子供を預っていらしって、赤ん坊を世話するのは大変ですからね』
牧師の妻君は、ほつれた鬢の毛を撫で上げながらさういった。然し、気の立ってゐたマリ子は、ついでに牧師の妻君から子供を背負ふねんねこ絆纏と、兵古帯を借りて、おむつを換へた赤ん坊を兵古帯で本式に背負ひなほした。それから薬屋に寄って牛乳壜を掃除する器具を買ひ求め。牛乳屋に立寄って、朝晩二合づつ牛乳を配達するやうに依頼して来た。然し、帰ってみると、これはまたどうしたことだらう、十二、三歳の襤褸(ぼろ)を着た少年が、ぼんやりハウス天幕の入口に立ってゐるではないか――
『ちょっとあなた! 何か用事ですか?』
さうマリ子が尋ねると、少年は俯向いてしまった。そしてその少年は、マリ子と愛子と勇の三人が朝食を済ます間もそこに立ってゐた。それをあまり不思議に思った勇は、やはり震災に関係のある少年だと思ったので、叮嚀に事情をきいてやった。するとその少年は、沼津からあまり遠くない富ノ浦(仮名)といふ漁村から逃げてきたとぽつりぽつり話し出した。それを傍で聞いてゐたマリ子は、すぐ気が付いたらしく、
『ぢゃあ、あなたは今の家に貰はれてきたんでせう、ね? 今のお父さんは、あなたのほんとのお父さんぢゃないんでせう?』
さういふと、その少年は涙を拭きながら俯向いたまゝ頭を上下に振った。
『解りましたよ、村上さん、あのあたりはね、とてもひどいんですよ。自分の子は沖に出さないで、私生児を貰ったりして。その子だけは漁師に仕立てて、沖に出すんですよ。きっとこの子も貰はれてきて、今まで虐待されてゐた子供に違ひないですよ』
『ふむ、さうですかね』
勇は、今更の如く漁師の間に悪い風習の行はれてゐることをマリ子から教へられて驚いた。マリ子は、その少年の名を尋ねた。すると少年は、笠間幸次郎であると答へた。
『お父さんが、あなたをぶつの?』
マリ子が人をぶつ真似をして少年に尋ねると、少年は黙って頷いた。それで、その子供か保護してくれと、富ノ浦から逃げて来たことが解った。マリ子はまた、幸次郎少年を雀のお宿に連れて行って朝食を与へた。食事が済むと、少年は馬鹿に元気づいて、
『赤ん坊を負うてやらうか?』
とマリ子に奉仕を申し出た。背負ふ癖のついてゐる赤ん坊と見えて、下すとすぐ大声で泣き叫ぶ悪い癖があったものだから、引続き赤ん坊を背負ってゐたマリ子は、救上げた少年が早やもう役に立つとわかったので、何が幸福になるかわからないと、微笑を禁じ得なかった。恰度その日は、勇が船に帰る日だったので、別れを惜しんだマリ子は、村上勇を父に会はすといって、昼から、赤ん坊を背負ったまゝ勇と一緒に汽車に乗って、逗子の父の家まで彼を案内した。