海豹の48 海上の奴隷

  海上の奴隷

 案内してくれたマリ子の父の家といふのは、頗る堂々たる別荘風の邸宅だった。海岸から少し離れてゐるのが難点ではあったが、庭の植込みは、冬でも家が見えないほど立籠り、文化風に建てられた洋館は、狭くはあったが手をこめて造られてあった。マリ子が赤ん坊を背負って、玄関から黙って奥に入ると、年寄った女の声で、
『まあ、どうしたの? マリちゃん』
 といふのが聞えた。さういひながらマリ子と二人で出て来た婦人は、明治時代によく貴婦人が結うた揚げ捲きの髪を結ひ、お召しの着物に、黒朱子の丸帯を締めてゐた。
 勇が叮嚀にお辞儀をすると、マリ子は、
『わたしの叔母でございます、どうかよろしく』
 と紹介した。応接間に通されると。そこにはマリ子の父、西田海軍中将と、大蔵省の事務官だといふまだ年の若いこざっぱりした洋服姿の青年が二人椅子に腰をかけてゐた。マリ子の叔母は、その青年に村上勇を紹介してくれた。それで勇が、彼の名刺を差出すと、彼も、上衣のポケットの中から名刺入れを取出して、大蔵事務官田中茂雄と印刷した大型の名刺を彼にくれた。
 話はまづ、マリ子が貧弱な赤ん坊を拾ひ上げたことから始まった。マリ子の父はしきって、赤ん坊を可哀さうだと繰返す。マリ子の叔母は、棄児をするやうな女親の気持がわからぬと、母親の薄情を攻撃する。大蔵事務官の田中茂雄は、
『マリちやんにはよい経験ですよ』
 と笑ふ。それに対してマリ子は。
『何といはれても、他に育てる人がゐないのだから仕方がないわ』
 と見得をきる。それからマリ子は引続いて富ノ浦の漁師に虐待せられてゐた少年を世話してゐることを父に話した。そのあたりの事情に精しいマリ子の父は若い大蔵事務官に漁村の悪習を物語った。
『実際、あれは何とかしなくちやいけませんなア、あのあたりには、昔からあゝした悪い習慣があるやうですが、体裁のいゝ奴隷制度ですね』
 田中はそれを聞いてびっくりしてゐる様子だった。
『今時にそんなことがありますかね……成程、海を恐れる者には、さういふやうな傾向かありませうなア、昔から、板一枚下は地獄だと船乗はいってゐますからね』
 さういって田中はシガレットの灰を軽く指先で払ひ落した。
『いや、海上生活は実に不自然ですね、今日のやうに一万噸二万噸の大きな汽船や軍艦が出来てゐてさへ、少し長い航海に出ると、四ケ月も五ヶ月も妻子の顔が見られないんですからね。ましてあの小っぽけな和船を漕いで沖へ出る漁師が、海を怖れるのはあたり前でさあ』
 西田海軍中将は、白くなった口髯を左手で撫で下しながら伏目勝ちにさういった。マリ子は赤ん坊の乳を溶くために。台所の方に立去った。叔母の中川せい子も、マリ子について応接間を出た。勇は、海軍中将と大蔵事務官の会話を黙って聞いてゐた。
 太陽はまばゆいほど南側のガラス窓から射し込んでくる。雀が、軒の樋を伝って、『チ、チ、チ』と嗚いてゐる。煙草に燐寸で火をつけ直した田中は、西田中将と話を合はした。
『この間、国際汽船の大福丸が沈没した話を聞かされたが、あんなことは有り得るものでせうかね?』
『いや、私もあれにはびっくりしてゐるんですがね、小麦を下手に積むとあゝなるんです。船艙の中に板で仕切りをして小麦を詰めれば、あんな結果にならなかったでせうが。僅か二、三千円の金を始末して板で仕切りするところを節約した結果、あゝなったんでせうね、小麦などは一旦波で舷側に片寄ると、なかなかもとに復帰しないものでしてね、暴風雨に遭ふと、あんなことになるんですよ。全く船長の不注意でせうなア』
 海軍中将は技術家らしいことをいふ。
『成程! そんなもんですかね、この間も船舶保険の関係で難船の統計を見ましたが、一昨年に三千百九十七件ありましたよ。その中、確か動力なき漁船の遭難にあったものが二千五百七十八件だと記憶してゐますが、ずゐぷん海難っていふものも多いものですね。その中、長崎県の漁船が最も多く遭難してゐますが、あれはどういふわけですか?』
 田中があまり精しい統計をよく知ってゐるので、西田将軍も話に気乗りしてきたらしかった。
『あなたはなかなか委しいことまで注憲していらっしゃいますなア。私も今、水難救済会の理事をしてゐる関係上、そのことに就て心配してゐるんですがな……長崎県に海難の多いのは、あれは全く島の関係ですね。(西田中将は村上勇の方を顧て。尋ねるやうにいうた)さうでせう、君、長崎県は島が最も多いから漁船には都合がいいけれども、島を廻る時に風にやられるんでせうなア、あれで』
 海軍中将にきかれて多少面目をほどこした勇は、去年の春第十一福徳丸を五島列島に回航した時、あちらで聞いた話を思出していうた。
『実際、長崎県は不思議な処で、一年中、漁のある処ですってね。島蔭を応用して、ぐるぐる風を避けて漁をして居れば、毎日出漁出来るんですが、島蔭を廻る時にやられるらしいですな、そして、また長崎県には小さい漁船が多いですな。日本であしこが一番多いでせう、漁師は』
 田中はそれを聞いてすぐ西田中将に問ひ返した。
『大蔵省でもある一部の者は、早く小さい漁船のために船舶保険をつけてやれといふ意見もありますが、どうも私の考では出来さうもないですね、あまり危険が多いです方今ね。まあ、今の処ぢゃあ。毎年、漁船百隻に対して一隻位難破してゐる率になってゐますがね、そんな高い率に対して、貧乏な漁民はよう保険金を払はないと思ふんですが、あなたはどんなにお考へですか?』
『さあ困ったことだね、私には保険制度のことは全くわがらぬが、どうにかしてやりたいが、金持ちにいうても汽船の方であれば、海上保険なども大分乗り気になってくれるけれども、漁船の方は誰も相手になってくれんから、私も全く見当がっかんですなア』
 海軍中将がさういふので、勇は余程意見があったけれども、新参者として黙って謹しんでゐた。田中はまた巻煙草の灰を皿に捨てる。西田中将は、ヨットの税金の話から、漁民が税金に困ってゐる話を始める。
『ありゃ、田中君。少しはどうにかならんのかね。漁民はみんな重税に苦しんでゐるやうだが、もう少し税則を簡単にしてやるわけにいかんのかね? 伊豆あたりの漁民なども、税金が四重五重にかゝってくるものだから弱ってゐるらしいね』
 それを聞いた若い事務官は、話が専門のことに立入ったので、
『そんな事はないと思ひますがね』
 と、相手の瞳を見直した。
『然し、君、漁民は定置漁業権で税金をとられ、専用漁業権で税金をとられ、船でとられ、市場でとられ、所得税でとられ、魚々のちがった綱の漁業に対して税金をとられてゐるらしいね。ありゃ、僕の考へでは、所得税一つにして済むやうに思ふがなア。あんなに四重五重にとらなくてもよいのぢゃないかね』
 さういはれたけれども、テーブルの上で財政学ばかり研究してゐる田中には、ちょっとその話が呑み込めなかった。それで、西田海軍中将は、村上勇に説明してあげてくれと要求した。話をきいて田中は解ったらしく、
『成程! 聞いてみると気の毒ですなア。それはどうにかした方がいかさねやおうに思ひますね』
 さういっただけで別に名論も持ってゐなかった。それで勇は、
『最近のやうに不漁の年が続くと、税金のために貧乏するものが沢山あるんですよ。あれが所得税であれば払はなくて済むものを、船の税金とか、専用漁業とか定置漁業権といふものは、たとひ一文も収入がなくても、税金を払はなければならんですからね。漁民はその課税に耐へ切れないといふ訳ですね、例へば、最近、鳥取県島根県の如きは、鰯が少しもとれないですからね。鰯をとる船や網を遊ばしてありますが、税金だけはかゝってきますからね、全く可哀さうですよ。所得税で払ふのであれば、都会の労働者のやうに何百円も収入があっても、一文も税金を払はなくて済むですが、年僅か一戸あたり百円位しか収入のない漁師でも、税金だけは八円も九円も出してゐるといふ始末ですからね。全く可哀さうですよ』
 さう聞かされて、大蔵事務官も多少驚いてゐる様子だった。
 叔母のせい子が、ココアを運んできた。マリ子がまた子供を抱いて入って来た。赤ん坊が可愛い目を開けて外を見てゐる。海軍中将は冷かし半分に、
『その子をまた漁師の村にやればいゝぢゃないか、マリちゃん」
『お父さん、この子は男ぢゃなくて、女ですの。男だったら貰ひ手もありませうが、女だから棄てられたんですよ』
『あ、さうか、頭を剃ってゐるからわからないなア。ハヽヽヽヽヽ』
 一時間位、西田海軍中将の応接間に腰かけてゐた勇は、中将と田中の二人があまり相手になってくれないので、日の暮れないうちに帰ることにした。勇が玄関に立った時、送り出して来てくれたのは、マリ子一人であった。勇が玄関の石段を下りた時、マリ子は、
『村上さん、私も、停車場まで行きますから、ちょっと待って下さいな』
 さういって。子供を勇に抱かしておいて、奥へねんねこ絆纏と、兵古帯を取りに戻ったが、再び出て来たマリ子は、不機嫌な顔をして沈黙したまゝ赤ん坊を取返しにきた。
『叔母さんが用事かあるといひますから、もうこゝで失礼しますわ』
 さういって、赤ん坊を抱き取って叮嚀なお辞儀をした。その態度があまり変ってゐるので、勇はすぐ、マリ子の叔母が二人の交際をあまり喜んでゐない、といふことを直感した。表に出ると、変り易い冬の空が、真昼の輝かしい太陽を隠して、どんよりした曇り日になってゐた。街路には羽子板を持って面白さうに遊んでゐる娘達もあった。別れる間際にあまりに打萎れてゐるマリ子の姿を見てきた勇には、その光景ばかりが目の前にちらついて、どこをどうして逗子の停車場まで辿りついたか、それさへ見当がつかない位だった。

  日向の油津

 南に向いた宮崎県油津の陽気な馬蹄型の港湾には、築港せられたばかりの突堤に、幾百艘の遠洋漁業船が、舳先を並べて着いてゐた。港の人口には大きな島が三つ四つ斜に沖の方へ並んでゐた。その中最も大きな大島は、明津の浜の方へ片寄って半分しか形を現してゐなかった。七つばえ、おぶし鼻の斧で削りとったやうな日向独特の景色が美しく、日本で有名なこの漁港を飾ってゐた。ふしぎなほど海は滑かで、太陽は風のない港の青い海面を、水銀でも塗ったかのやうに照らし付けてゐた。遠洋漁業船のあるものは、真紅に染めた昭和四年度の漁獲物最高の優勝旗を掲げてゐた。水産組合の波止場はV型に港を二つに分けて中央に飛出してゐたが、勇は油津に入る度毎に三浦半島の三崎の港と日向の油津の漁港が少し似てゐる処があるやうに思はれてならなかった。水産組合の市場とそれに連続する倉庫は、東に向いた港湾の方に立ってゐた。その関係上、第十一福徳丸も東の港に錨を下してゐた。
 日向へ勇が来るのはこれで七回目であった。その度毎に勇は、油津の漁港が好きになって、そろそろ日向弁が使へるやうになってゐた。然し、勇が油津が好きになった理由がもう一つあった。それは、船が油津に入る度毎に、必ず水産組合から、組合気付で送られた西田マリ子の手紙を、受取ることが出来たからであった。マリ子は大抵毎日、彼に宛てた手紙を書くと見えて、時によると。四通位一度にくることがあった。そんな時には、勇も昂奮して受取ったが最後、すぐ読まなくては気がせけて辛抱が出来なかった。それで鮪の荷役をしてゐる時などでも、便所に行くことに、かこ付けて、そこで四通とも読んでしまふのが習慣であった。
 手紙の内容は、満足なものばかりであった。その冒頭はいつも
『愛する勇様』といふ文字で始まってゐた。その「愛する」といふ文字が勇にはとても気に入った。水産組合の事務員がにやにや笑ひながら、
『村上さん、えらいこんどの手紙は重いですね』
 と冷かすと、
『そりゃ当りまへだよ。女房からの手紙だからなア』
 と平気で答へた。
『だけど、あなたの姓と変ってゐるのはどうしたんです?』
 とつっ込まれると、
『内縁の妻だからなア、姓は違ってゐるさ』
 と答へるのがいっものことであった。実際勇は、自分の部屋に彼女の写真をフレームに入れて正面に掲げ、誰に尋ねられても、
『これは僕の女房です』
 と答へるのがいつものことになってしまった。それ位、勇はマリ子を信じきってゐた。陸と海と数百哩離れてゐても、勇もマリ子も距離を超越してゐた。それで、船長の永松五郎を初めとして、殆ど乗組員の全部が油津に着くとすぐ女を買ひに行くことがあっても、勇は三島の天幕幼稚園に保姆として働いてゐるマリ子に手紙を書くことによって。勇敢に海員の陥る誘惑から免れることが出来た。然し、第七回目の航海が終って、第十一福徳丸が油津に着いた時には、マリ子の手紙が勇を失望せしめた。それは、こんな文句で綴られてゐた。
『………勇さん、三月末にこの天幕保育所は一旦閉鎖することになるのです。北村さんもまた小石川の保姆伝習所に帰られるさうです。それで私も逗子の父の家に帰らうと思ったりしてゐるんです。たゞ困ったことは、叔母がどうしても夏にならない前に結婚した方がいゝと勧めることなんです。その後も田中茂雄さんが度々逗子へいらっしゃいまして、父との了解はよほど進んだらしいのです。叔母の言葉によると、田中さんは西田家に養子に来てもよいといって居られるのださうです。父はそれを非常に嬉しがって、田中さんを養子に貰ふ気でゐるらしいのです。つい一週間程前も中川の叔母が三島までやって来まして、父のいふ通り早く身を固めて三月二十一目の彼岸の中日に日比谷の大神宮で結婚式をしてはどうかといひに来たんですが、私ははっきりいったんで
す。お父さんに孝行はしたいんだけれども、恋愛のことだけはお父様に従へないから、まだ結婚する意志はないと答へたんです。その時、叔母は、あなたとの関係をきいたものですから、私ははっきり叔母に答へました。「私がもしも結婚することがあれば、村上さんと結婚します」って。すると叔母は非常に腹立てて、海員なんか品行の正しい者は一人もないから、海員に娘はやれないとお父様がいっていらっしゃるといはれたので、私は叔母にいうてやったんです。「そのやうな気の毒な海員であればこそ、私は慰めてあげたいと思ってゐるんです」って。すると叔母は、冷かし半分に月給はいくらかと尋ねますので。「六十円しか貰っていらっしゃらないんです」と答へますと、「それぢゃ食っていけんぢゃないか」といはれましたので、「いゝえ、それで充分です」と答へて
やったんです。私はその叔母の態度に憤慨してゐるのです。
 父も叔母もあなたの身分があまり低いことを気にして、やれ海員がいけないの、やれ月給が少いの、やれ教育が足らぬの、と煩さいことをいふのです。しかし私はもう腹の中で、あなたの他に一生夫を持たないと決心してゐますから、父があまり喧しくいふなら、家に帰らないで、伊豆のどこかの漁村に入って、哀れな漁民のために一生奉仕しようと思ってゐるんです。今の処大丈夫ですけれど。どれだけ私が愛のために生き得るか、私はそればかり考へてゐます……』
   二月二十八日
                     清き抱擁もて
                        マ リ 子
     愛する勇様

 この手紙を読んだのは、三月三日の節句の日であった。勇は誰もゐない操舵室の左舷のレールの傍でこの手紙を読んだ。
 その時、魚市場の前で大勢の漁師がよって、何かしら異様な『鬨の声をあげてゐた。それで勇は、半泣きになった彼の顔を水で冷やして、人に見られても恥かしくないやうにもう一度操舵室に帰ってきた。すると水兵服を着たクォーター・マスター(四部交代の舵取り)の増田弥吉がやってきた。
『チーフメート、(汽船では一等運転士のことをさういふ)魚市場の前で騒いでゐるのをお聞きになりましたか? 鹿児島県の串木野の連中が、魚問屋の分引が高いといって反対してゐるんです。実際可哀さうですなア。県内の者は優遇されてゐるのに、県外の者は一割からとられるんですからね、不公平といへば不公平ですよ』
 『あゝ、例の問題が爆発しちゃったんだな。ありゃ、増田君、やはり国家で市場を経営してやらぬといかんなア、油津のやうな日本的な魚類市場は、土地の人間が魚を売りに来るのぢゃなくて他府県の者が此処に売りに来るのだから、県の内外を問はず、取扱は平等にして、国家が完全な市場を経営するのがほんとだと思ふなア。僕は、鹿児島の漁民の連中が怒るのはあたり前だと思ふな』
 さう勇が答へると、
 『串木野の連中は、もう来年から明津の方へ別に市場を建てるといってゐますよ。土佐の清水港では大分県の連中が同じ問題で騒いでゐるし、釜石でも、銚子でも、三崎でもみんなぼつぼつ他府県の漁船がいってゐるんだから、こりゃ思ひ切って国家が漁政庁でも設けて国営市場でも建設してやりますかな』
 操舵室の上から見てゐると、魚市場の前の騒ぎを気にもとめないで海岸の白砂の上で薪を割ってゐる漁師もあれば、小さい網を繕ってゐる者もあった。そちらの方を眺めながら村上勇はいうた。
『それぢゃあ、今日は荷役は出来んのかな。弱ったなア。然し、増田君、一番可哀さうなのは漁師ぢゃなア。免に角俺達が積んで帰る鮪を一生懸命沖で漁って、仲買人に叩かれ、問屋に絞られて、東京に俺達が持って帰ると、価格が油津で買ふ三倍から五倍になるんだからなア。儲けてゐるのは問屋だなア。国家としちゃあ、可哀さうな漁民を救ってやらなくちゃいかんなア、君は、どう思ふか?』
 増田はすぐ答へた。
『私もさう思ひますね。免に角、問屋がうんと絞らなければ、漁民は充分養って行けますね。これは一日も早く全国の水産市場を国営にして、問屋には賠償金を支払ひ、漁民の救済をしてやらなかったらば、日本の漁民の浮かぶ瀬はありませんよ』
 増田の意見に感心した村上は、
『君は誰からそんな議論を聞いてきたんぢゃ。なかなかうまいこといふぢゃないか』
 と冷かすと。
『神戸の海員組合で聞いて来たんです。あしこにはなかなか解った人が居りますからなア。漁師が困ってゐるといったらば、「そりゃお前魚市場を国営にしたらいゝぢゃないか」と、うまいことを教えてくれたんです。然し、鹿児島県の漁民たちで、そこまで徹底して考へてゐる者はないやうですな』
 さういってゐる処へ、船長の永松五郎が葡萄酒の壜を一本ひっさげて操舵室に上ってきた。
『村上君、一杯飲まうぜ、今日魚市場の前で鹿児島の漁民が騒動やってゐるので荷役が出来ぬって』
 さういってまた下に降りて行った。船長の持ってゐた葡萄酒の壜に目のついた舵取り(クオーター・マスター)の増田も、すぐ船長の後を追っかけた。それで、村上勇も操舵室を下りて自分の部屋に帰り。頼信紙に、
『三ガ ツハヒシバ ウラニツクアヒタシイサム』
 と電文を綴って、すぐ部屋を飛び出し、上陸してひとりで電報を打ちに行った。郵便局から帰り途に漁師の生活を見ようと裏通りを歩いてみたが、どの漁村にも見られる同じ悲惨が、この輝かしい太陽の光る日向の油津にも見受けられた。で、勇は淋しい気持で船には帰らず、物思ひに沈みながら梅ケ浜まで散歩した。人生の悲惨に反して、そこには自然の壮観な戯曲が見られた、そこいらは、世界に珍しい砂岩層が畑の畝のやうに規則正しく並んで、地球の寿命を物語ってゐた。それを見た勇は、急に元気を取返して、また日の入らぬ中にと船に帰った。