海豹の50 荒壁御殿

  荒壁御殿

 希望の朝が明けた。昨日の雨はからりと晴れて、富士山の頂きには一点の雲さへ無かった。赤ん坊をまだ寝かしておいて、マリ子は新しく借りた家を掃除に行った。家賃二円の家でも住む気になれば、逗子の父の家より懐しく感ぜられた。四間に三間半の納屋のやうな不恰好な家には荒壁がついてゐた。流し場も便所も外にあった。長く掃除しないと見えて、台所の竃の上にも蜘蛛の巣が張りつめてゐた。然し、貧民窟を多く見てゐるマリ子は、そんなことには少しも吃驚しなかった。
 村の荒物屋から、箒とバケツと雑巾を買ひ求めてきて、一時間位のうちに兎に角住めるやうに、ざっと掃除をした。元吉の家で朝飯をよばれ、土鍋、七輪、バケツ、茶碗、お皿、箸、庖丁等を買ひ求めて、家に帰ったのは九時頃であったが、障子がないので家らしい気は少しもしなかった。あまりをかしいのでひとり笑ったが、障子を買ふ金がなかった。心配になるのは布団であった。元吉に余程布団を貸してくれといひたかったが、恥かしくて、その言葉が口に出なかった。それで彼女は、裏口に出て跪いて静かに神に祈った。
 裏口から再び家に入る時、三島の牧師の処に行って頼めば、布団と蚊帳が借りられるといふことに気がついた。それで彼女は早速三島に行くことにした。親切な三島教会の牧師夫人は少しも悪い顔をしないで、心持よく布団と蚊帳とを貸してくれた。沼津に帰ってきたマリ子は、大きな布