2015-02-23から1日間の記事一覧

海豹の56 永遠への通過

永遠への通過 マリ子が火焔の中から救出したために、線香の火ほども火傷してゐない棄児の百合子を託かった産婆さんの小泉文子が傍に坐ってゐたが、ハンカチを出して。マリ子の両眼から涙を拭ひ取った。父の中将はマリ子の言葉が終るや、 『マリ子よ、弱いこ…

海豹の55 海女の子等

海女の子等 海に生れて 海に逝く 海女の子供は 今日もまた ひねもす舟の ゆりかごに ゆられゆられて なみの上 勇と六人の同志は、毎日こんな歌をうたひながら少し波のある口にも斯波はてんぐさ採りに出掛けた。六日目の昼飯時であった。 『村上さん、もう飽…

海豹の54 天使の喪失

天使の喪失 それから一週間目に一回づつ、静岡の未決監の窓口にマリ子は赤ん坊を覗かせた。それが勇にとっては、どれだけの慰めであったか知れなかった。然し、裁判所の方は、なかなか取調べが進まなかった。刑務所の梅は散り、桜が咲く頃になったけれども、…

海豹の53 赤ん坊の頬ぺた

赤ん坊の頬ぺた 三日の間、沼津署に留め置かれた七人は、その儘、静岡市の未決監に送られることとなった。村民は皆心配して、斯波勝三の父と、仁田祐男の二人に頼んで、僅かばかりの差入物をした。然し、可哀さうなのはマリ子であった。マリ子はもう出産が近…

海豹の52 大臣室と漁夫

大臣室と漁夫 彼が兵庫県から帰ってきた日の朝、富ノ浦の人々は。また三吉の店先に集って皆昂奮したゐた。それは豆駿製糸の悪水のために昨夜から今朝にかけて。また生簀の魚が死んだためであった。 『ど畜生! 井原の野郎、県会議員を買収しやがって! 我々…

海豹の51 飲み残したる苦杯

飲み残したる苦杯 その日の最後の歌がうたはれて、子供等は家に帰った。そのあとから、井原俊子も淋しさうに帰って行った。家の中が静かになったので、叔母はマリ子が思ってゐた通り、父の家に帰るやうにと、すかしたり、なだめたりして、繰返し繰返し同じこ…

海豹の50 荒壁御殿

荒壁御殿 希望の朝が明けた。昨日の雨はからりと晴れて、富士山の頂きには一点の雲さへ無かった。赤ん坊をまだ寝かしておいて、マリ子は新しく借りた家を掃除に行った。家賃二円の家でも住む気になれば、逗子の父の家より懐しく感ぜられた。四間に三間半の納…