海豹の54 天使の喪失

  天使の喪失

 それから一週間目に一回づつ、静岡の未決監の窓口にマリ子は赤ん坊を覗かせた。それが勇にとっては、どれだけの慰めであったか知れなかった。然し、裁判所の方は、なかなか取調べが進まなかった。刑務所の梅は散り、桜が咲く頃になったけれども、まだ取調べが済まなかった。
 備後灘の魚島の辺で彼の父が倒れた四年忌を、今年は監房で迎へた。父の遺言を守り、一生、海に行かうとした彼が海に行けないで、今暗礁に乗り揚げてゐることを悲しく思った。そして、なほ淋しかったのは、その日、静岡の未決監宛に送られた堀江卯之助の娘かめ子の手紙が来て、勇を非常に慕うてゐた万龍は、その後また眼病が重くなり、とうとう両眼ともに潰れて、眼病院に入院してゐるうちに、脳梅毒のために発狂し、僅か四週間足らずの患ひで死んでしまったといふことを報じた。刑務所でその手紙を読んだせゐもあったが、勇は特別に人生の薄倖を悲しく思った。
 そのうちに梅雨が来て、陰影な雨が、毎日獄舎の窓硝子を濡らした。勇は、クロポトキンの獄中記などによって、監房の生活は規則的でなければならぬと読んでゐたので、独房の生活も、つとめて規則的に送った。朝早く起きて聖書を読み、暇があると遠洋漁業のために使用する器具の改良や機械の発明について、いろいろ思を練った。それで、決して一日が長いとは思はなかった。
 然し、たゞ一つ気になったのは、梅雨に入ってから妻と赤ん坊の顔が、面会室の窓に現れて来ないことであった。そして、差入れる金も切れたと見えて、六月一目から刑務所の飯を食ふやうにと、看守が知らせてくれた。
 あまり心配になるので、はがきを出した処が、斯波勝三の父が面会に来てくれた。そして、マリ子も赤ん坊も二人とも病気で倒れてゐるといふことであった。
 幸にも、七月十日の日にやっと保釈の許可が出た。彼の胸は躍った。道々、赤ん坊がどれくらゐ大きくなってゐるかを想像しながら富ノ浦まで歩いた。マリ子に会ひたいことは勿諭であったが、実いふと、彼が『父』になったといふ不思議な因縁に就ての回想と、赤ん坊に対する珍しさ、懐しさが、マリ子以上に彼を惹き付けた。きりりと結んだ赤ん坊の口許、天国をまどろんでゐるやうな初々しい瞳、絹のやうに柔い頬ぺた、紅葉のやうな小さい掌――それが目の前に浮かんで、絶えず獄中でも彼を神秘の世界に導いてくれた。それが今、目のあたりに見ることが出来、その初々しい皮膚に接吻し、その小さい身体を抱きしめることが出来ると思ふと、耐へ切れない程、家に帰ることが急(せ)かれた。
 然し、彼の目算はすっかり外れた。世帯に疲れたマリ子は、百合子を背中に、痩せ衰へた赤ん坊の介抱を一生懸命してゐた。
『緑便が続きましてね、お医者様はもう助からねといはれるんですよ』
 さういって、いつも元気なマリ子が、浴衣の袖でそっと両眼を拭いた。その言葉を聞いて勇もがっかりしてしまった。
 そして可哀さうに。マリ子は一銭の金さへ持ってゐなかった。
『どうして生きてゐたんだね?』
 ときくと、
『毎日山羊の乳ばかり飲んでゐました』
 と笑ひ泣きしながら軽く答へた。それで勇は沼津まで飛んで行き、また下駄履を始めてゐた姉の夫、佐藤邦次郎から五円の金を借りてきてマリ子に渡し、その晩すぐ漁に出た。
 翌朝七時、浜に帰ってみると、斯波勝三が浜まで降りてきて、
『坊やは、ほんとに可哀さうだったな!』
 と、おくやみをいうてくれた。それで坊やが死んだといふことを勇は初めて知った。家に帰ってみると、いつも元気なマリ子が、坊やの死骸の傍で泣き倒れてゐた。勇もその傍に寄って、赤ん坊の顔をみつめたが、死んでゐるとはどうしても思へなかった。然し、皮膚にさはってみると、石のやうに冷たかった

  船底を焼く藁火

 船底を残らず藁の焔が、真紅に燃え上った。斯波と山上は長い竹の棹で、藁がよく燃えるやうに灰の中に穴をあけた。村上勇は、ペンキで表を塗ってゐた。船大工の真似の出来る青木は水槽を広くしてゐた。そこへ土肥と伊東と仁田の三人が発動機を荷車に稲んで勢よく浜に下りてきた。それを見た勇は、
『御苦労、御苦労! これで安心した』
 と嬉しさうにいうた。
 機械を見るために。十六人の漁村保育所の子供を連れて、マリ子が浜に降りてきた。船底を焼くことの終った斯波は、艫の方から勇に大声でいうた。
『村上さん、エンヂンはどういふ風にして船に据ゑ付けるんですか! 船の中へ持ち込むのが大変ぢゃなア』
 すると勇は簡単に答へた。
『なに! 僕がうまいこと据ゑ付けてやる』
 勇は簡単な起重機を船の帆檣(マスト)を利用して作った。そして、その日の午後二時頃、無事にエンヂンを、打瀬船の中に据ゑ付けることが出来た。傍で見てゐたマリ子はまづ第一感心した。
『なかなか手際がいゝのね。あなたは!』
 と褒めた。
『商売ぢゃからなア、これは』
 と勇がデッキの上から笑った。
 彼等は去年の十月の初めに決議した通り、遠洋漁業に出ようとしてゐるのであった。今日まで駿河湾の多くの漁民は、恵まれた近海漁業に馴れてゐて、逮洋漁業の方式を少しも知らなかった。それで勇に手引きして貰って漸く日本の海岸線を離れようと決心がっいたのであった。然し、貧乏者の彼等に、高価な快速力の機械船が買へる理由がなかった。それで勇は、中古の打瀬船を買はうといひ出した。
『打瀬船で充分南洋まで行けるから安心しろ』
 と皆にいうてきかせた。それでもまだ皆が彼の言葉を信用しなかったので、彼が最初南洋まで乗って行った白洋丸の話をしてやった。それでやっと、斯波も青木も、その他の青年も打瀬船に補助機関をつけさへすれば、充分南洋まで行けるといふ自信がっいた。然し、困ったことには、その打瀬船を買ふ金が無かった。
 その時、斯波は、
『中古でよければ、御前崎の親類の者が打瀬船を一艘遊ばしてゐるから、その船を借りて来ようぢゃないか』
 といひ出した。それに勇も賛成して、御前崎まで飛んで行った。そして、儲かった場合に五百円払ふ約束でその船を借りて来た。エンヂンの金がなかった。それに対しては、村中の年寄り、若い者、おかみさん、娘達の臍繰金を集めて、一種の産業組合を作り、利益があった場合に少しづつ、鞍分比例によって利子として御礼をするといふ約束で、四百円を作った。
 かうして出来たのが、みんなで修繕してゐた海南丸であった。然し、船は出来ても機械器具が揃はなかった。鮪の延繩だけでも、四十か五十の籠を準備しなければならなかった。それだけの金が無かった。それに南洋までやって行く重油を買ふ金は勿論のこと、餌を買ふ準備金が無かった。それで皆一致して、四、五百円の金を稼ぐことにした。ある者は蚕をやらうというた。またある者は鰻を飼はうといひ出した。然し、それにもまた資本金が要るので。結局みんなで揃って、『てんぐさ』を採りに行くのが一番いゝといふことにきめた。それで彼等は、毎日数時間海の底に潜って、『てんぐさ』を採ることにした。
 夏の海に入ることは何でもないけれども、冬に近い太平洋の海を潜って、海底に生えてゐる『てんぐさ』を採ることは容易ぢゃなかった。

  海豹の如く

 伊豆の西部海岸は、地震と陥没が作った物凄い数百尺の巌壁が、あちらにも此方にも、日本の他の処ではちょっと見られない絶景をつくってゐた。地層からいへば、富士火山脈の新しいものではあるが、水蝕作用によって大きな岩に多くの穴が穿たれ、その一々に海に住む幾干の動物が、よき住家を与へられてゐた。南から寄せた暖流は、一旦その海岸を洗って北に屈折し。駿河湾を東から西へと一巡するので、南の海でなければ成長しない『てんぐさ』が、岸近い海底に、多く密生してゐた。その採集は秋の初めに、志摩国から大勢の海女が雇はれてきて。海底に潜ってそれを刈り取るのであったが、金の欲しい富ノ浦の青年達は、海女の代りに自ら海の中に入って、南洋行きの資金を作らうといひ出した。
 今日まで海の上ばかりを走ってゐた村上勇には、海の下に沈むこともまたいゝ経験だと思ったので、喜んでそれに参加した。日の出る前に小さい船を三艘準備して。六人の青年と村上勇の七人が、元気よく櫓を漕いで、大瀬崎を南に廻った。そこは太古から駿河湾の幾干の漁師が、必ず年に一度は礼拝に来る漁師の霊場であっただけに、物凄い感じがした。大瀬崎を南に廻ると濤は高くなり、海の水
は黒さを増した。最初彼等は、戸田湾の入口でまづ錨を入れた。
『てんぐさ』採りに経験のある山上が、まづ裸体になって海の中に飛込んだ。次の船から斯波が水の中へ潜り込んだ。それで、その後から勇が笑ひながら踊り込んだ。思ったより水温は高かった。沈んで行くにつれて、銀色に見えた太陽の光線がだんだん青く見え、紫に見えそして紺色に見えた。船の底あたりに縞鯛が游いで行く。ちぬの群が走る。鯔(ぼら)が急ぐ。勇は『てんぐさ』を採るよりか、海の底の美しさに驚嘆して、たゞぼんやり海の神秘を瞑想する方に心を奪はれた。提灯のやうな恰好をした鰒(ふぐ)が目をくるくる廻しながら彼の方に近づいて来る。そして抵抗せずにぢっとしてゐると、彼の皮膚をこつこつと嘗める。小さい『べら』が群をなして彼の周囲にやって来た。人間を魚の一種類と思ってゐるらしい。彼を取巻いて、面白さうに遊ぶ。『てんぐさ』を採ることを忘れて、海底にうづくま
りながら遠くの方を見ると、奥は紫紺色に染まって、底知れぬ奈落の底に、つづいてゐるやうに思はれた。小さい『龍のおとし子』が藻の間を、中風にかゝった病人のやうに、ひょっくりひょっくり身体を振動させて動いて行く。
 大きな極彩色のランプのほや(ヽヽ)のやうな恰好をして海月(くらげ)が流れて行く。この次は何が出て来るだらうと、勇は『てんぐさ』を採ることを忘れて、奇怪な動物の姿に目を注ぐ。全く怖ろしくなってしまっ
た。そのあたりに沈没して死んだ漁師の骸骨ではないかしら? さう思ふと、ずるずる足にさはる藻草の肌触りが、水死人の顔の上を踏んでゐるやうに思はれた。
『おヽ、怖ろしい!』
 海の底で恐怖観念に襲はれると、もうぢっと海底に停って居れなくなる。毛孔が一度に立って、粟粒のやうなものが身体一面に出来、ぞっとして、『てんぐさ』を採る気も何もなくなってしまふ。急に呼吸が苦しくなってくる。空気が吸ひたくなる。ちょっと間違って水を吸ふ、さあ苦しい。海底を一蹴してはずみを付け、もがくやうに海面に踊上って行く。周囲に泡が立つ、一種の幻覚が伴ふ。海の底から鱶が大きな口を開いて、追っかけてくるやうに思はれる。もう一秒の間が待てない。
『そら! 鱶が来た! 足を食はれるなよ、縮めろ! とうとう食はれたかな!』
 さう思った瞬間に漸く海面に達してゐた。そらには太陽が輝いてゐる。空気がる。山がある、木が生えてゐる、急いで呼吸をする。
『やはり人間は空中に住む動物なんだなア!』
 とひとりで考へながら彼は大声に笑った。
『どうです! 採れましたか?』
 と、沢山の藻を下から運んで来た斯波が、冷笑するやうに村上に尋ねた。然し、勇は恐怖観念に襲はれて少しも採らなかったとはよう告白をしなかった。少しの間、舷側にくっ付いてゐたが、また沈んで、こんどは少し刈ることか出来た。然し、彼は、海底で労働してゐる間に、志摩の海女の人々に心よりの同情をすることが出来た。こんなにして一日僅かの賃銀を得てゐる気の毒な人々こそ、ほんとのどん底に喘ぐ人だと思うた。
 然し、彼はまた、海の底にもぐってみて、初めて、海は恐怖すべきものでないといふことを悟ることが出来た。
 十回、二十回、三十回と、海底に潜る度数を重ねる毎に、海が彼の故郷であるやうに思はれてならなかった。
『さうだ、こゝが俺の住居なのだ! 俺は海の仙人なのだ……』
 そんなことを考へながら、彼は急いで藻を刈って。また呼吸をするために海面に踊上って行った。
 彼はだんだん大胆になった。そして空中より海中の方が、彼に適してゐるのぢゃないかと考へ出した。彼は魚のやうに、鰭(ひれ)と尾が欲しくなった。
 度々海面に踊上る代りに鰓(えら)をくっつけて長時間海に沈んで居りたかった。彼は鯨になりたかった。鯨になれば、船をもって苦労する心配もなく、北氷洋南氷洋まで、思ったやうに回游が出来ると考へた。
『いや、鯨のやうに大きくならなくとも、せめて海豹の如く、自由自在に海を深く潜って、波濤も、海流も、鱶も、暴風雨も恐るることなき強いものになりたい』
 さう思ふと、もう彼は海豹になってゐた。二つの足が一つにくっ付き、両手が水かきに変り、顎が前方に伸び、白い口髭が頬の周囲に生えてきたやうに思はれた。
 さう思ふと海の恐怖は全くあとに消えてしまった。波が愉快になった。飛沫が頬にかゝっても何とも思はなくなった。水の中にもぐるのが愉快になった。大きな鱶でも両手で掴めるやうに考へられた……。
 かうして勇は、海の人になりきって、その日の海の労働を愉快に
続けた。
 長く係争中であった製紙会社の悪水路破壊事件も、村上勇一人が懲役一年半の有罪に決定し、それも三年間の執行猶予となった。他の六名は全部無罪で、裁判長も漁村問題に少からざる同情を示してくれた。
 会社側も、新聞が大きく書き立てたものだから、少し反省するものがあったと見えて、硫酸の濾過装置を作ったり、溜池を拡大したりして改悛の情を表した。それでまた、そろそろ富ノ浦川が澄んできた。富ノ浦の漁民は漸く安堵した。川の入口に鰻の養魚池を作らうといひ出した。