海豹の53 赤ん坊の頬ぺた

  赤ん坊の頬ぺた

 三日の間、沼津署に留め置かれた七人は、その儘、静岡市の未決監に送られることとなった。村民は皆心配して、斯波勝三の父と、仁田祐男の二人に頼んで、僅かばかりの差入物をした。然し、可哀さうなのはマリ子であった。マリ子はもう出産が近かった。それで勇に会ふために静岡へ行きたいのは山々であったけれども、腹の子供を心配して、さうすることを控へた。然し、村に居ても、彼女はぢっとしてはゐなかった。朝はいつもの通り早く起きて、掃除万端を済ませ、八時から午後三時まで、相変らず村の子供を託り、午後三時からひとりで、囚はれてゐる者の家庭を一軒々々訪問して、その家の用事を何に限らず、どしどし手伝ってあげるのが彼女の日課であった。
 それで村の人は皆、マリ子を信頼して、弁天様の生れ変りだといひ出した。
 マリ子の出産したのは、勇が静岡の未決監に移されて、恰度一週間目の十二月四日の朝早くだった。静岡の未決監に電報を打って、無事出産したことを報じてやると。勇は、満二年前の今頃、支那海南島のほとりで、海賊に撃ち殺された卯之助のことを思ってゐたが、村上海南といふ名を獄中から送って来た。
 マリ子が、お産した時は彼女に一文の金さへなかった。持ってゐた四十円足らずの金は全部、刑務所に入った七人の差入物のために費してしまってゐた。
 勇が海から帰って来た時には四百円の金があったが、それは村に副業を指導するために、山羊の種を買入れたり、いたぼがきの種を求めるために二百円以上を使ひ、また農林大臣に陳情に行ったり、禁酒運動の宣伝書や規則書を印刷するために少なからざる金を費したからであった。
 それに折々は少しづつでも資金を融通してくれた井原俊子も、七月の騒動があってからずっと村に現れて来なかった。しかし、マリ子はそんな事では屈しなかった。辛うじて赤ん坊の産着だけは作ってゐたので出産には差支へなかったが、次の日から食ふものが無かった。然し、それと知った村の人々は、マリ子の家の縁側に、一升の米を新聞紙に包んで黙って置いて行ったり、大根二本を裏口から抛り込んでそっと逃げて帰ったり、予言者エリヤを鳥が養うたやうに、決してマリ子と赤ん坊の二人を餓ゑ死にさせなかった。
 マリ子が寝てゐる間、彼女に世話になってゐる子供等の母親が、代るがわる見舞ひに来て、あれこれと世話をやいてくれた。そして、マリ子のなほ感謝したのは、村の産婆さんの小泉文子が、親切にも、やっと匍ひ出した百合子を自分の家に連れて帰って、彼女がまた健康になるまで託ってくれたことであった。正月の三日間を産褥で送ったマリ子は、一月五日にはもう起上ってゐた。彼女は産婆さんから金を借り、赤ん坊の海南を連れて未決監を訪問した。
 未決監の面会室で窓を隔てて勇と会ったマリ子は、涙一滴だに出さなかった。
『ねえ。喜んで下さいよ、こんないゝ子が生れたんですよ、重さも八百八十匁あるんですよ。みんな西田のお父さんによく似てゐるといって噂してゐるんです。この子もセーラーにしませうね。おほほほゝ』
 と、至極陽気に夫を慰めようと努力した。傍にゐた看守もその陽気なのに面くらったらしかった。
『まあ、一遍抱いてごらんなさいよ』
 さういって、マリ子は赤ん坊を受付口のやうに開いた窓の台の上に置いた。然し、勇の両手には大きな手錠が入ってゐた。それを勇は台の下に隠してゐた。勇の手に手錠があるとは気付かないマリ子は、
『ねえ、勇さん、ちよっと抱いてごらんなさいましよ』
 と再び繰返した。然し、勇はまだ妻に大きな手錠を見せる勇気はな
かった。マリ子が、それを見て悲しむと思ったからであろた。台の下で勇は両手をもぢもぢさせながら、上眼瞼を下に伏せて赤ん坊の顔だけを見つめてゐた。
『ねえ、海ちゃん。早くお父さんに此処から出て来て貰って抱いて貰ひませうね』
 マリ子は、あまり勇の手が出るのが遅いので督促した。それで彼
は大胆に、隠す必要はないと思ったので、手錠の入った両腕をぽんと台の上に置いた。
『おや、お父さんのお手々には手錠が付いてゐたんだわ。これぢゃ、抱いて貰へませんわね、海ちゃん、抱いて貰ふのはまたこんどにしませうか?』
 マリ子が、さういふと手錠の入った儘、勇は身体を斜にして、右手で赤ん坊の頬ぺたを撫でてやった。それを見るに見かねた表の看守は、『内側にゐる看守にいへば解いてくれますよ』
 と注意してくれた。
 子供を抱きたかった勇は、看守に懇願して、その手錠を解いてもらふことにした。
『看守さん。お願ひですが、これを少しの間はづして下さらんでせうか?』
 看守は沈黙したまゝ大きな鍵を鉄の手錠の穴にさし入れて、それをはづしてくれた。
 それで勇も怖るおそる手を伸ばして、赤ん坊を取上げようとした。その時内側にゐた看守が、
『おい。赤ん坊を抱くのはいゝが、未決の方へ入れてはいかんぞ!』
 と慌てていった。そのいひ振りがをかしかったので、マリ子も勇も、表側の看守もどっと吹き出した。
『ぢゃあ、看守さん、未決監の方へ赤ん坊の胴体を入れないやうにして、敷居から向ふで抱くやうにすればいゝのですね』
 さう勇がいふと、
 『うム、ふふゝゝゝ』
 とうとう内側にゐた看守も笑ひ出した。浅黄色の未決の筒袖を着せられた勇は、身体をかゞめて両手を伸ばし、赤ん坊を抱いて頬ずりをした。去年の一月三日の朝、三島の天幕で拾った棄児の百合子とは違ひ、まるく肥った美しい子であった。黒い髪の毛が。長く伸び、頬ぺたが丸くふくらんで、小さい顎が団子のやうにくっついてゐた。
 生れて初めて自分の子といふものを見る勇には、何ともいへない或る感激を覚えた。
『目許はあなたにそっくりよ』
 マリ子は拇指と人分指で、二つの頬ぺたを、撫で上げながらさういうた。勇は瞬きもしないで、赤ん坊の顔を眺めた。ある時は頬ぺたを、ある時は引締った二つの唇を、ある時は小さい鼻を、或時は大きく開いた二重瞼の目を、そして耳を、そして顎を、
『可愛いもんだね……然し不思議だなア、こんな赤ん坊が生れて来るといふのか、全く不思議だなア』
 勇が抱上げようとしたけれども、窓口が狭いので、赤ん坊を内側に入れなければ抱上げることが出来なかった。一分間以上も、勇はぢっと赤ん坊を台の上に置いたまゝ、左手を赤ん坊の頸の下に廻して、一生懸命にみつめてゐた。が、もう辛抱しきれなかったと見え、そっと両手を伸ばして赤ん坊を未決監の方に引き入れ、ぐっと抱〆めて頬ぺたに接吻した。すると、内側の椅子に腰かけてゐた看守が、サーベルをがたつかせながら、つと立上り、
『そんなことをしちゃいけない!』
 さういって、無理にも赤ん坊を母親の手に返させた。看守があまり大きな声を出したので。赤ん坊はびっくりして泣き出した。それで母親のマリ子は胸を拡げて、赤ん坊に乳房を与へた。すぐ赤ん坊は泣き止んだ。勇は、マリ子の白い皮膚と、やゝあから味をおびた赤ん坊の顔の色と、乳房のふくらみと、赤ん坊の頬ぺたのまるみが、何ともいへぬ諧調をなして小さい窓の向ふに見えるのが、この上もなく嬉しかった。その時まで、未決監が悲しいとは思はなかったが、妻の乳房と赤ん坊の顔を見た時に、急に悲しくなった。そして、早く自由な身になりたいと思ふ一念で胸は一杯になった。
『何も困ることはないたらうね?』
 勇が、さうマリ子に尋ねると、マリ子は快活に答へた。
『いゝえ、少しも』
『百合子はどうしてゐるの?』
 勇が尋ね返すと、
『村の産婆さんが、親切に少しの間世話してゐてくれるんです』
 さういった時に、内側の看守は窓口を閉めてしまった。窓口は閉められたけれど、マリ子はなほ表でいうた。
『未決に入って居られる同志達はみな達者ですから御安心下さい。皆に一冊づつ聖書を入れて瞰きました』
 さう早口でいうた時に、勇はまた手錠をはめられて、奥の方へ引張られて行ってしまった。