2012-03-01から1ヶ月間の記事一覧

傾ける大地-49

四九 十一月の末に彼は、南米に行く準崎をしてゐた。然し彼の父は『俊子の結婚式が十二月の初にあるから、それを済ましてから行くやうにしろ』 と勧めた。従順な彼は、父の云ふ通りに従った。それに彼はまた俊子の結婚をも祝福したかった。二見町から来る俊…

傾ける大地-48

四十八 そんな事があってから間もなく、新議員によって成立した第一回の町会が開会せられた。そして加納兵五郎呼戻しの話が出た。然し結局それもものにならず、助役の田島を町長に据ゑることになった。水道会社買収調査委員会が出来た。その委員長に桜内が推…

傾ける大地-47

四十七 茶褐色に焼けた浜の砂地が、眼を射る。思起された芋畑のひからひた蔓が、高く積まれて厭な臭気を放ってゐる。初めから理想的な所とは考へなかったが、もう少しどうにか出来ると思って、小屋を建てたものゝ、杉本英世が、占有し得た地域は、唯小屋が建…

傾ける大地-46

四十六 開票のあった翌日、カフェ東洋亭を自分の家のやうにしてゐる細見と服部は、いつものやうに日暮れ方、東洋亭に足を向けた。そしていつに似ず、二階座敷の賑やかなのに気が付いて、女給のお花に尋ねた。 『今日は何ぢゃね?』 さう云ひながら服部は、二…

傾ける大地-45

四十五『おい、杉本が妙なことをやりよるぜ』 カフェ東洋亭の、ドアを押して這入って来た細見徹は、おきんを対手に、ウヰスキーをちびってゐた服部政蔵にさう云った。『また碌な事せんのだらう、彼奴のこっちゃから』 服却はけげんな顔をして、細見にさう云…

傾ける大地-44

四十四 表に水を打って、店に這入った時、英世は、父が打沈んで帳場に思案してゐるのを見た。 英世は、父の悲観してゐる理由をよく知ってあた。この六月七月の二ケ月間、殆ど商ひが無かった。それは英世の名が新聞に多く出る毎に、田舎の小商売人は、杉本の…

傾ける大地-43

四十三 小学生は全部復校した。税金不納同盟は解散してしまった。そして屈辱的な調停に手打式を挙げた町内の有志者は、町制が変ることを予期して、町長及び町会に向って翻した反旗を一先ず巻くことにした。然し、長雨の関係でもあらう。五月一杯、とうとう水…

傾ける大地-42

四十二 翌日杉本は、浄光院に行って、堤から昨夜の様子を委しく聞くことが出来た。そして遂に、無条件で、鬼政に調停を依頼したことを杉本は知った。その結果、五月十一日限りに無産小学校は解散し、税金不納同盟を元に返し、今夜また東洋亭で手打式をやるこ…

傾ける大地-41

四十一 浜の小屋に帰った杉本英世は、東洋亭の佐野けいに宛てゝ、一通の手紙を書かうと、原稿用紙にペンを走らせてみた。然しおけいが尋常四年しか修業してゐないことを思ひ出して、二三枚書いたその手紙を引き裂いてしまった。そして改めて、片仮名許りで手…

傾ける大地-40

四十 小学生の同盟休校が始まってから恰度一ヶ月目であった。職員会議を開いて、同盟休校を持続すべきか否かを決定することとなり、学校に関係ある者は皆、三上実彦の家に集ることになった。 その日は恰度、新しく出来た競馬場で、始めて大きな競馬が行はれ…

傾ける大地-39

三十九 四年目毎に行はれる衆議院議員の総選挙がやって来た。新聞紙は毎日のやうにそれに就て報道した。憲友会も民憲会もをさをさ準備を怠ってゐない様子であった。本当から云へば、杉本英世なども無産政党の味方をして、大いに働かなければならない所だらう…

傾ける大地-38

三十八 英世はやっとのことで終電車に間に合った。愛子は泊って行けと、外套の裾を捕へて放さなかったが、無理にも振り切って電車に飛び乗った。 英世が、彼女に残した最後の言葉ははっきりしたものであった。 『夫が監獄に這入ったから、その間に逃げ出さう…

傾ける大地-37

三十七 毎日の新聞は、磯部川事件を大きな活字で書き立てるやうになった。そして志田義亮が愈々収監せられたことを報道した。それから間も無く、正親町男爵が取調を受けてゐることを三面記事は伝へた。 その記事が出てから三日目であった。俥夫が、達者な女…

傾ける大地−36

三十六 メーデーが近づいた。高砂労働組合の幹部は、是非今年は盛大な労働祭な挙行したいと意気込んだ。そしてそれには、無産小学校の児童も全部参加させたいと云ふ意嚮(いこう)まで洩した。杉本はそれに異存はなかった。然し、服部政蔵が、第三インタナシ…

傾ける大地-35

三十五 女給のおけいが、しげしげ店に顔を出すやうになってから、妹の俊子と父の理一郎は、英世に対して余り好い感じを持たなくなった。妹はいつも兄と顔を合せないやうに努めてゐるやうに見えた。父の理一郎は侮蔑の言葉をさへ彼に浴びせかけた。 浜の小屋…

傾ける大地-34

三十四 延び延びになった第二審も、判決の結果有罪と決定した。そして罰念二百円の云渡しがあった。杉本英世は、直ちに大審院に上告することにしたが、弁護士連中は全く悲観的であった。神戸地方裁判所の大きな階段を下りる時、小前博士は彼を顧みて云うた。…

傾ける大地-33

三十三 本町筋は掘り起された儘もう一ヶ月も其儘になって居た。それは姫路の鬼政と呼ばれる山岡政吉が、斎藤新吉を苛める一つの手段であった。その為に愈々三月一日から税金不納同盟が始まった。高島町長は青くなった。さすがの斎藤も多少悄気込んで仕舞った…

傾ける大地−32

三十二 第一審で有罪に決定したとは云へ、英世にはまだ県会に出る資格があった。それで二月廿一日に開かれた臨時県会に彼は出席することにした。通常県会は十二月一日に開かれたが、九月末の総選挙で改選になった議員八十六名の中、憲友、民憲両派が相半ばし…

傾ける大地−31

三十一 杉本英世が有罪に決定したのを新聞で見て喜んだのは、高島頼之であった。杉本が資格を失へば、次点の高島が県会議員になれると思ったのが、その理由であった。高島は、県会議員選挙に落選して後は、大いに悄気(しょげ)て、毎日のやうに斎藤の家へ窺…

傾ける大地−30

三十 英世は、多少安心してゐた。と云ふのは、最早や、県会議員に当選した以上、そんなに意地悪く、敵方も追究して来ないであらうと思って。 それで彼は、久し振りに阪神地方に出て、応援に来てくれた新見栄一や、村田賢二などを御礼廻りの意味で訪問してゐ…

傾ける大地−29

二十九 第一回の公判は、二月六日に聞かれた。杉本は、検事の論告に対して、猛然と復讐し、論告の誠に無意味なることを五ケ条に亙って反駁した。 第一、立候補の推薦は彼自身の志望より出たものではなく、全く農民組合、算盤工組合及び、高砂町黒衣会及青年…

傾ける大地−28

二十八 その日、高島頼之は、朝飯も昼飯も食はずに、電話で知らして来る開票の成績を、自宅で聞いてゐた。そして愈々落選と決まった時に、彼は奥の間に這入って泣いた。 杉本は四千九百二十三票の最高点で、美事(みごと)県会議員に当選した。当局の圧迫も…

傾ける大地-27

二十七 其処へどやどやと、六人連れの一行が這入って来た。『いらっしゃい!』 と細見の傍に腰を掛けてゐたおきんが、疳高い声で叫び乍ら、入口に近いテーブルに彼等を導いた。彼等は、演説会の帰りと見えて、話は選挙の事ばかりであった。『全く乱暴だね』 …

傾ける大地-26

二十六 狭い部屋の中は、煙草の煙と、白粉の薫と、酒の香と、コーヒーの厭に焦げたやうな勾ひで一杯であった。煙草の烟を通して、乳色の光線が鈍く流れた。 女給等は正月だと云って、本町筋の呉服屋から、月賦で着物を買ひ整へ、皆きらきらした衣裳を着けて…

傾ける大地-25

二十五『杉本の演説会は、いるも盛んださうだね』 モーニングを着て町長の椅子に納まった高島は、高等刑事の尾関に、椅子を勧めながらさう云うた。『実際、うっかりしよると、憲友会は負けてしまひますよ。何しろ、無産政党の方は、口の立つ者ばかりでせう。…

傾ける大地-24

二十四 農民組合の初田伊之助は、各支部と連絡をとる為に走り廻った。高砂労働組合の常任書記藤本達一は全郡に散ばってゐる。算盤工組合を訪問して廻った。青年団の幹部会は倉地を中心にして開かれた。漁業組合との交渉は榎本が受持った。 そして暮近い十二…

傾ける大地-23

二十三 十二月の第二の木曜日の晩でゐった。木枯が浜の松を強く揺がせて、平面的に拡がった高砂の町には、宵の口から人通りも絶えてゐた。その晩祈時会の帰りに、英世は三上実彦と一緒になった。三上はつい愛子が明石の親戚に監禁せられてゐるといふことを、…

傾ける大地-21

二十一 加納町長が辞職の声明をしたのは、志田義売が水道敷設権の許可が下りたと云ふ報告をもたらして帰って来た前日のことであった。斎藤新吉は如何にも嬉しさうに、さうして亦加納町長に対する当付けから、志田から来た電報を持って、町役場に行ってそれを…

傾ける大地-20

二十 加納町長が辞職の声明をしたのは、志田義売が水道敷設権の許可が下りたと云ふ報告をもたらして帰って来た前日のことであった。斎藤新吉は如何にも嬉しさうに、さうして亦加納町長に対する当付けから、志田から来た電報を持って、町役場に行ってそれを見…

傾ける大地-19

十九 小さい港には瀬戸内海の各方面から集る帆船で一杯になってゐた。多くは京橋地方に捌けて行く野菜類を岡山、香川、徳島、淡路、扨(さて)は広島辺りから積んで来たものであった。港の水は青く澄んでゐた。紙会社に運ぶパルプが勢よく揚荷せられてゐた。…