傾ける大地-40

   四十

 小学生の同盟休校が始まってから恰度一ヶ月目であった。職員会議を開いて、同盟休校を持続すべきか否かを決定することとなり、学校に関係ある者は皆、三上実彦の家に集ることになった。

 その日は恰度、新しく出来た競馬場で、始めて大きな競馬が行はれた。何でも総元締は、例の水道工事を請負ってゐる山田政吉とかで、馬券がうんと売れた為に、余程儲かったといふ評判であった。町内の噂では、之で斎藤と山田が仲直りして、工事が早く進行するであらうとの評判であった。杉本が、暮れ方、三上実彦の宅に行かうと、本町筋に出ると、競馬場から帰って来る大勢の人達に会った。

 彼等の多くは、本町を曲って、次郎助町の遊廓の方に這入った。その中に目立って見えた者は、「山政」の印半纏を着た山田政吉の子分達であった。彼等は、皆相当に酔払ってゐた。中には、ぐでんぐでんになって、仲間に世話をして貰ってゐる者もあった。杉本は暫く、競馬場から帰って来る群衆を眺めてゐたが、中には、優勝旗を持った儘、遊廓に這入って行く者もあった。

 それから杉本は、三上医師の宅を訪れて、高砂町の風紀が非常に悪くなったことを語ってゐた。その時何処からともなく、山田政吉の代理のものだと云って、電話がかゝって来た。そして今夜の中に是非、杉本に会ひたいと云って来た。で、杉本は三上の家で会ふと答へた。午後八時頃であった。八九人も居たらうか、大勢の者がぞろぞろ三上の家にやって来た。

 みんな相当に酩酊してゐた。然し、中には確かりしてゐる男もあって、乱暴するやうなことは無かった。表座敷に通して、ゆっくり話を聞いてみることにしたが、話は、仲裁の申込みであった。詰り無条件で、山田政吉に全部任してくれといふのであった。

 それに対して、杉本は『即座に答へ兼ねる』と一旦撥ねつけたが、『それでは幾日か待つから、仲裁をさせてくれ』とくどく出た。で、『衛生組合長なり在郷軍人会の人々と、よく相談して更に一旦町民大会を開いてみなければ、どうとも答へることが出来ない』と突き放したが、山政の子分達は、その言葉を聞いて憤慨し始めた。

『詰り山田政吉を信用せられんといふことなのですか? それならそれで此方も覚悟があります』

 半時間に亙る長い押問答の末、兎に角、翌日の晩迄には何とか返事をすると云ふことにして山政の子分を追返した。山田政吉の仲裁の申込は、更に小学生同盟休校の必要を痛感せしめた。その結果、此処二三週間、同盟休校を持続しようといふことになった。

 翌日、町内の衛生組合の幹部、在郷軍人団の有志者、青年団の幹部、それに黒衣会の代表者に農民組合の幹部も加はって、三上の奥座敷でまた協議会が開かれた。その中で、最も強固であったのは衛生組合の人々であった。

『あんな山田政吉のやうな無頼漢に、仲裁を任せることは絶対に反対です』

 さう云ったのは平常、至極穏健であると考へられてゐた、煙草屋の主人で、本町筋の世話焼きとして町内で、誰一人知らない者がない青木利八であった。この事に就ては、誰しも皆同じ意見を持ってゐた。或者は、『競馬で成功したものだから、もう一つ名を売らうと思って、生意気な考を出したのだ』と痛罵する者もあれば、『博奕の外は何も知らない男に、二万に近い大事な自治体の将来に関する事件を任すことは出来ない』と主張するものもあった。

 結局、或種の条件を付けて、山田に相談することになった。その条件の調査委員に五名の者が選ばれた。三上実彦、青木利八、杉本英世、倉地一三、堤幸蔵の五人がその選に這入った、五人の委員は、別室に退いて各種の条件に就て恐々審議した。その結果、大体次のやうな条件を先方に持ち込むことにした。

 一、水道工事完成後、五年間を限って事業一切を町営に移すこと』
 二、五年後に於て、町営に移す場合は、工事に要した費用一切を原価にて補償すること
 三、高砂町は町債を起し、補償金を五年間に水道会社に償還すること。

 以上三つの条件を、先方に対して持出し、若し聞かれなければ、税金不納同盟を飽くまで遂行することに議が纏った。特別委員が、本委員会に、それを報告すると、皆これに賛成した。その晩、山田政吉の子分がまた大勢でやって来た。それで杉本はこの三つの条件を持出した。

 杉本は白紙に墨で書き付けた覚書を、先方に手渡したが、山田の一の子分と云はれてゐる顔の平ったい、如何にも獰猛な顔をした定公が、それを畳の上に置いて、じろじろ眺めてゐた。

 やって来た七人の子分の中、二人は法被の上に縞の羽織を引懸け、他の五人は印半纏のまゝであった。坐り付けないと見えて足をもぢもぢさせてゐる。七人の中三人迄は、顔もよう上げないで、俯向いて許り居た。杉本に対手になってゐる定公は、相当に話が解るが、他の者は様々物も云はなかった。

『ではあなたの方は、この三つの条件を、是が非でも通さうといはれるのですな?』
 定公の言葉はきつい。まるで喧嘩腰である。

『是が非でもといふ訳ではないんですがね。これだけは是非聞いて頂かぬと、全く話にならないんです』
『いや解りました。帰って親分にさう云ひませう』

 土方の言葉は短い。さう云うたぎり、つと立上って帰って行って了った。
 それから三日目のことであった。山田政吉から電話が懸って来た。

『町長の方と水道会社の方は話がつきましたから、明晩是非、あなたの方の代表者も打合会に出て貰ひたいですな』

 と云ふことであった。

 打合会は、東洋亭の二階で開かれた。其処は、日本座敷になってゐて、六畳二間を打貫いた広い部屋であった。杉本英世は、何となく不安な気持で東洋亭に出掛けた。彼は三上実彦と二人で其処に這入ったが、最初に入った男は、服部政蔵であった。彼は、帳場に近いテーブルで、細見と二人で煙草を燻らせてゐた。女給のおきんがその傍に腰を下してゐた。お花はバアに寄り添うて、頻ってコップを拭いてゐた。おけいはどうしたか見えなかった。

 杉本は、服部に頭を下げて叮嚀にお辞儀をしたが、服部はそ知らぬ顔をして、煙草の烟を口からわざとらしく吐き出した。二人は二階に上ってみたが、まだ誰も来てゐなかった。愛想のいゝお花はお茶を汲んで来た。女給のおきんが座布団を運んで来た。

 十分位経って、青木利八、堤幸蔵、倉地一三がやって来た。然し、公民派の者は誰一人顔を出さなかった。彼れ之れ一時間も待ってゐたらうか漸く七時半頃になって、山田政吉を初め、高島町長、斎藤新吉、伊藤唯一郎、下島毅、樋口直蔵の面々が一度に這入って来た。暫くして岩本光顕、滝村喜一、桜内正彦の連中が這入って来た。少し遅れて、新聞記者の生方正之進が二階に上って来た。それに続いて、高等刑事の尾関が、酔払ひの細見徹と、同和会の服部政蔵と一緒に上って来た。
それでもう集が始まるかと思ってゐると、

『弁護士がまだ来ないから、少し待ってゐよう』
 と高島頼之と山田政吉が話してゐる。底気味の悪い沈黙が、この異様な会衆の間に統く。十分位して、助役の田島益吉が、姉路の弁護士、俵定輔を伴って上って来た。広い十二畳の間も、もう坐る所が無くなった。傲岸な山田政吉は、正面の床の間の中央に坐ってゐる。

 高島町長はその左側に、斎藤新吉はその右側に席を取る。三上実彦と杉本英世は、その恰度反対側に座を取った。黒色の厚司で通してゐる堤と倉地は、同じ側の隅っこに小さくなって坐って居た。女給のおきん、おきぬ、お花、おつたの四人が、交る交るにお茶を配り、お菓子を配って廻った。

 俵弁護士と山田の間に、簡単な挨拶があって、山田は如何にも親分らしい口調で、俵を高島頼之と斎藤新吉に紹介してゐる。
『この人はなア、私の兄弟分の人やうにしてゐる弁護士だんね。よろしく頼みますわ』
 杉本は、どんな形で話が始められるかと思ってゐると、山田と俵の間に押問答が始まった。
『君やって呉れ』
 鬼のやうな顔をした山田が、俵にさう云ふと、俵はまた、
『君が挨拶するのが当然だよ!』
 と云うてゐる。

『口不調法なんでな、人の前で物云うたこと無いんぢゃから、間違があると困るんで、あんたに来て貰ったんぢゃないかい。其処の処頼む・・・』凡ての人の視線が彼に集った。県の特高課の久野己之助が亦上って来た。俵に集めらてれてゐた視線は、瞬間的に入口の方に注がれる。久野は面目なささうな顔をして、仰向いた儘尾閣の傍に席を取った。

『山田君から皆様に御挨拶申上げなければならないのでありますけれども、私に代って挨拶しろと云はれますから、私は山田政吉の代理人として御挨拶申上げます。今夕御多忙の際、皆様ようこそ御集り下さいました。改めて感謝いたします。各方面に御相談申上げました如く、高砂町と致しましでも、水道問題でこんなにごたごたする事は、将来の発展上から申しましても余りおもはしくありませんので、是非皆様の寛容なる精神な以て一致協同の実を挙げて頂きたいと思ふのであります。それに就きまして、今夜は各方面の有志者にお集り願って、第一回の懇談会を開いたやうなしだいで御座います。どうか皆様打解けて御懇談の程御願ひ申上げます』

 さう云ひ終って俵は叮嚀にお辞儀をした。一同もそれに対して頭を下げた。部屋の中は、大勢が吸ふ煙草の煙で一杯になった。煙草を吸はないのは、床の間の反対側に坐ってゐる四人の者許りで、それが特別異様に見えた。山田政吉は、杉本が渡した覚書を懐から取出して、それを俵に渡した。俵は、斎藤にそれを見せた。不安な空気が室内に漲る。俵は、頻って山田と耳打をしてゐる。

 暫くして、俵は亦口を開いた。
『今夜は、皆様の忌弾なき御意見を承りたいのでありまして、兎角斯う云ふ問題は、遠慮してゐると却って、禍を後に残すことになりますから、どしどし御意見を吐露して頂きたいのであります』

 俵は、四十近い色白の優男で、セルロイドの大きな眼鏡を懸けてゐる。何処となく神経質の処があって、いつも着てゐる羽織の紐を気にしてゐるやうであった。髪を油でてかてかに撫で付け、何となしに厭味のある男であった。

 俵がさう口を切っても、発言するものは誰も無かった。で、彼は再び斎藤の手から覚書を受取って、会衆に向って云うた。

『実は此処に、高砂町の有志者から一種の党書が出てゐるのですがね。之に就て皆様の御意見を承ることが出来ると、非常に結構なんですが、どんなもんでせうか?』

 さう云っても答へる者は誰も無かった。余り飽気ないと思ったか
『私は之を一通り読まして頂きます』
 さう云って、俵はそれを大きな声で一気に読んでしまった。
『これに就て皆様の御意見を承れば、非常に善いと思ふんですがね、先づ杉本君の方から意見を吐かれると非常に結構だと思ふのですが、どんなもんでせうか。杉本君』
 名を指された杉本は頭を撫で上げて云うた。

『意見と云って別に無いんですが、それは、町内有志者の代表者会で決定したものでして、私一人の意見ではないのであります』
『するとこれは絶対的のものですか?』
 さう俵は、大きなセルロイドの眼鏡の縁をいぢり乍ら、杉本に尋ねた。総ての人の視線が杉本に集る。
『まあさういふことになりますね』
 俵は、町長の高島頼之を顧みて彼に尋ねた。
『あなたの御意見はどうですか?』
『町債を募集するといふことは頗る困難だと思ひますね。何か善い工夫はないもんですかなア』
 俵は更に斎藤を顧みて尋ねた。

『若しも町債募集に成功しなくって、毎年二割を返すことになってゐる、それだけの金額が集って来なげれば、どうなるかなア、それに金利が少しも考へられてゐないやうだが、金利はどちらが負担するのかなア』

 斎藤は如何にも事業家らしい口調で、俵にさう云うた。
 隅に坐ってゐた堤幸蔵は、元気な口調で、高島頼之に尋ねた。

『高島さんにお尋ねしますが、高砂町としては、之を町の事業として経営する意志がゐるのですか、どうですか?』
 高島は、如何にも落付払った態度を示して、堤に答へた。
『勿論、町の事業としてやるに越したことはないのですが、何しろ貧乏な財政なものですから、財政上今の処頗る困難ですね』
 彼は更に斎藤に質問を発した。
『水道会社では事業を町に渡す意志はあるのですか?』
『そりゃ勿論あります。元来が公益の目的を以て始めたものですから、町に於て引受けて下さるなら、いつでも此方はお譲りする覚悟で居るのです』

 県の特高課の久野は、頻って鉛筆を走らせて、ノートを取ってゐる。桜内と滝村は小さい声で私語を続ける。堤は更に斎藤に対(むか)って、町会の意見を尋ねた。それに対して、斎藤は町会は白紙であるとのみ答へて、陰険な眼付で滝村の方にもちょっと視線をそらせた。

 小学校長の岩本光顕は、癪に触ると云ったやうな口調で、杉本に向って質問した。
『同盟休校はいつまで続けられるつもりですか?』
『水道問題が片付く迄皆続けると云って居ります』

 細見と服部が、ひそひそ話を続けてゐる。中心の話題が切れた為に、あすこでも此処でも勝手な話が持上った。彼はどうした形で懇談会を纏めて行っていゝか、方法が付かないで困ってゐるやうであった。山田政吉は、胡坐を組んで、何も解らんと云った態度で、煙草を燻らせてゐる。

 其処へ、女給がお膳を運んで来た。その為に話は一旦杜絶した。今度はおけい迄が出て来てお酌を始めた。然し彼女は、杉本の処が余程気になると見えて、床の間附近に坐り込んで、杉本には顔さへ見せなかった。すると服部は大きな声を張上げて、

『おけいさん、向ふの方にもちっとお酌に廻らんかい』
 と、杉本の方を指した。それに対しておけいは小さな声で、
『厭らしい人!』

 と、云って杉本の方には振り向かうともしなかった。おきんは頻って、服部や斎藤の相手になる。おつたは高等刑事の連中にお酌をしてゐる。おきぬは入口に面して坐ってゐる桜内や滝村にお酌をする。お花は、三上の前に陣を取ったが、青木利八の他誰も酒を飲まないので、手持無沙汰で弱ってゐる。山田は頻って、おけいをからかふ。折々、おけいを中心として笑声が起る。
一時間余りはかうして過ぎてしまった。階下から東洋亭のおかみさんが上って来て、三上を差し招いた。急病人が出来たので、三上に帰って来いという使ひが来たのだ、三上が去るのを見た山田は、俵に注意した。俵はつと立上って、帰る三上に止まって貰ひ、次のやうな事を一同に対って云うた。

『折角集まって少しも話が纏らないと、非常に残念ですから、何とか片を付けたいのですが、どうでせうか、三上さんや杉本さんの方では、無条件でこの問題を山田政吉君に、一任して下さることは出来ないでせうか。町長の側に於ても、また水道会社に於ても全部一任するといふ御意見なのですが、若しもあなたの方で無条件で譲歩して頂けるなら、この問題はすぐに決るのですがね、どんなものでせうか?』

 その時三上は青木利八に発言せよと合図した。それで胡麻塩頭の青木は、お花のお酌で心持赤らめた顔を、真正面に坐ってゐる俵に向けて、こんな事を云うた。

『勿論町内のことですよってに、円く収まるならそれに越したことはございませんけれども、何分大事なことでございますから、吾々の一存でいけませんので、もう一度町内全部の衛生組合の幹部と相談して、お答へするより外、今夜の処即座にお答致し兼ねます』

 俵と山田は頻って私話してゐる。やゝ暫くして俵はまた、立上って大声に尋ねた。

『さうすると、何日その御返事を承る事が出来ませうね?』
『さうですね、明日の晩でも寄って、明後日の朝位でありますれば、何とか返事が出来ませう』

 俵はまた坐って、山田と小さい声で私語した。そして小声に『待つより仕方がないぢゃないか』。さう云ひつゝ彼はまた立上った。

『それではさういふことにお願ひいたします。何分千幾百名かの児童は同盟休校を続けてゐる状態でありますのと、町役場として、税金不納同盟が続きまして、吏員の俸給が払へないといふ哀れな状態になって居りますから、出来るだけ速かに御回答をお願ひいたします』

 さういって俵は坐り込んでしまった。それで三上はすぐに座を立った。堤はそれに続いた。倉地と青木も尻を持上げた。杉本は立上る最後のものだった。一言でも善い反省を求める言葉をおけいにかけたいと時機を狙ったが、彼は遂にその機会を失ったことを、名残惜しく思ひゝ、充たされない気持で、席を立ったのであった。五人が去って後山田はすぐ芸者を呼び寄せた。そして十二時近く迄みんなで大いに飲んだ。