傾ける大地-41

   四十一

 浜の小屋に帰った杉本英世は、東洋亭の佐野けいに宛てゝ、一通の手紙を書かうと、原稿用紙にペンを走らせてみた。然しおけいが尋常四年しか修業してゐないことを思ひ出して、二三枚書いたその手紙を引き裂いてしまった。そして改めて、片仮名許りで手紙を書いてみた。が、それも気に入らないで、くちゃくちゃにして棄てゝしまった。彼は唯、別府の一夜に神聖なる人生を棒に振ってしまったやうに考へて、その夜の衝動を取返したく思った。彼の神聖なる煩悶を、どうかしておけいに伝へたいと、彼は独り苦しみ悶えた。彼は三度目手紙を書かうと今度は平仮名で書いてみた。然し、それも気に入らなかった。今度は、仮名を振った手紙を書いた。それは次のやうに書かれたものであった。

 佐野けい子様

 私は、是非二度あなたに会って、心から相談したいことがあるのです。私は、あの晩、あなたと契ったやうに、仮令あなたが今冷淡になってゐられても、私は、あなたの外、私の一生の妻は無いのです。私は今くどくどしく手紙を書きません。然しお願ひだから一度ゆっくり話させて下さい。どうかこの手紙を反古にしないで、是非何処で会ってくれるか必ず返事して下さい。私は白状しますが、あれから以来、毎日のやうにあなたのこと許り考へてゐるのです。それでどうか一日も早く、返事を下さい。お願ひします。
                         五月十日午後十二時  英世

 英世は、それを封筒に入れ、心の変らぬ中に投函しようと、橋の袂にある郵便箱まで持って行った。勿論彼は、それがおけいの手に這入らなくて、服部か滝村の手に渡るかも知れないといふ懸念もあった。けれども彼はそんな事を考へてゐる余地がなかった。それで、勇気を出して投函してしまった。

 翌日彼はまた朝早くから浄光院に出て、小学校の授業に携はった。新聞紙には、『文部省が愈々高砂の無産小学校の解散を命ずる決意をした』といふ大きな記事が出てゐた。授業を済ませて後、彼は角丸商会に廻り、帳付を済ませて、三上医師の宅に出掛けたが、其処にはもう大勢集ってゐた。彼が下駄を脱いで、座敷に上らうとしてゐると、堤が出て来て急に彼を押止めた。

『杉本さん、隠れて、隠れて!』
 さう囁くやうに云うた彼は、無理に戸口の外側に杉本を連れ出した。

『今夜は鬼政が暴力団を使うて、無理にも我々を屈服させようとしてゐるらしいのです、皆日本刀を持って乗込んで来てゐましてね。あなたを探してゐるやうです・・・詰りなんですね、無条件で鬼政が調停してみたいといふ意向ですな、どうも、今朝の新聞が余程効いてゐるやうです。なかなか鼻息が荒いんですよ。それであなたは今晩、此処に顔を出さねがよいと思ひますな』

 堤は無理に、杉本が何処かに隠れるやうに勧めた。併し杉本はそれをきかなかった。

『暴力がなんだ。殺すなら殺さしたらいゝぢゃないか。此方は真理の把持者だ。暴力で正義を蹂躙し得るならやらしてみようぢゃないか』

 さう云って、杉本は一旦戸口まで出たが、また玄関まで後戻りをした。堤は、その決断力に恐れて、杉本の為るが儘に任せた。英世ば、下駄を脱ぎ捨てたまゝ、至極落付いた態度で奥の間に通って行った。中の間に居た倉地一三は、沈黙のまゝ両手を振って、奥座敷に這入るなと合図をした。然し、それを聞かない振りして、杉本は襖を開けて奥の間に這入った。其処にはいつも来る鬼政の一の子分で、乱暴な顔付をしてゐる定公が、日本刀を傍に置いて青木と談判してゐる。他の六人許りの者は、銘々日本刀を片手に持って、示威的態度を示してゐる。彼等は杉本が這入って来たのを見て、ちょっと驚いた様子であった。

 杉本はお辞儀もしないで、青木の傍に黙って坐った。

 定公は拳を畳に擲き付けて呶鳴り散らす。
『一体君等は生意気だよ。町長も水道会社の社長も無条件で譲歩するといってゐるのに、君等だけが譲歩しないと云ふのは、俺達の顔を踏付けたやり方だよ、全く』

 定公は気狂のやうだ。それに対して青木は、苦笑を洩らして、『そんな無茶を云ったって、道理は通らぬ』
『何が無茶や。貴様の方が無茶ぢゃないか! 町民の多くは、早く同盟休校などは収まるやうに希望してゐるぢゃないか! それを阻止してゐるのは君達ぢゃないか!』

 青木は低い声で独言のやうに答へた。
『それは誤解ぢゃ!』

『誤解ぢゃない。現在労働組合の服部などでも、皆揃うて生徒を学校に出してゐるぢゃないか。滝村もげ桜内も、斎藤と仲直りをしたぢゃないか! それを君等が其処に坐ってゐる売名家の杉本に煽動せられて、無闇矢鱈に引延ばしてゐるのぢゃないか!』

 青木は、存外冷静に構へ込んで、眼尻に沢山な皺を寄せ乍ら、にたにた苦笑を続ける。青木が対手にならぬものだから、定公は鋭鋒を杉本に向けた。

『こら杉本、貴様が居る許りにこの町はこんなに乱れるのぢゃ。町民はみなさう云ってゐるぞ。貴様が居るから皆が円くいかないのだって。お前一人が居らなくなれば、町制は円くいくのぢゃ。いゝ加減にすっ込んどれ!』

 杉本は、沈黙のまゝ端坐して、定公の顔を見つめてゐた。
 定公は、それが余程癪に触ったと見えて、

『俺を呪みつけるといふのは何だ! お前の眼力で、俺の身体を溶かすことが出来るか出来ないか験(ため)してみろ!』
 さう云はれても杉本はまだ姿勢を崩さないで、巌然として坐ってゐた。

『癪に触る、遠州、彼奴を殴ってしまへ!』
 さう定公が云うと、彼から三番目に坐ってゐた、石川五右衛門のやうな面をしてゐる「遠州」と呼ばれる男が、つかつかと杉本に歩み寄って、彼の左の頬ぺたを右手でうんと殴り付け、左手で杉本の胸倉を摑み、前方に引倒して、矢庭に拳骨で彼の頭を三つ四つ撲った。静かに瞑想を続けてゐた杉本は、それを別に痛いとも感じなかった。彼は静かにまた起上り、沈黙の儘端坐した。青木は下顎を撫で廻し乍ら云うた。

『こんなこっちゃ、話も何も出来やしない。まるで無茶や』
 それに応じては杉本は青木を顧みて云うた。

『喧嘩を買ひに来たのですね。この人達は』
『うム、喧嘩を買ひに来たのぢゃ。それが何が悪いんぢゃ。貴様等が喧嘩を売ってゐるから此方は喧嘩を買ってやるんぢゃ。俺達は今夜、てめいを片付けてやるつもりでやって来たんぢや。貴様は幾ら偉いか知らないが、高砂町から云へば謀叛人だ。いや日本から云ってもお前は国賊だ。俺達は国賊を征伐に来たのぢゃ・・・喧嘩買ひに来た? よくもそんな生意気なことが云へるなア!』

 杉本は余程黙してゐようと思ったが、余り之等の人が解らないから、説明するつもりで口を開いた。
『私は国賊でもなんでもないんです』

 杉本の前に坐った遠州は手持無沙汰で困ってゐる。遠くから定公が大声で罵る。
『貴様は国賊だい!』
『あなたがさう云はれるのは勝手ですがね。私は高砂町のことを思うて、いろいろな事をしてゐるだけなんです』
『思うて? 糞生意気な!』
『あなたにも良心があるでせう? 少数の者が一万五千の町民を苛めることが善いか悪いかは、少し良心があるなら判るでせう!』

 定公はその良心といふ言葉が癪に触ったとみえて、
『俺に良心が無いと云ふのか? ぢゃ貴様は良心を持ってゐるのか?』
 杉本はその言葉に勢を得て、大声に云うた。

『うム、俺は良心を持ってゐる、俺は高砂町の良心だ。貴様等が俺を煙たがるのは、良心を煙たがるのだ。そんな錆びた刀で、俺を嚇すなら嚇してみろ、さあ殺すなら殺せ。良心が殺せるか、殺せぬかやってみろ!』

 杉本は着てゐる黒の厚司の胸を開いた。
『何!糞生意気な、俺の刀が錆びてゐる? ぢゃ見せてやらう?』

 さう云ふなり、定公は傍に置いた日本刀には手を触れないで懐中に持ってゐた白鞘の九寸五分を引抜き、つと立上って杉本に近づいた。それで杉本もつと立上った。大勢の者も総立ちになった。青木が定公を止める。堤も倉地も飛込んで来た。定公は、杉本の胸を左手で摑んで、一撃の下に杉本を突き刺さんとした。刀が白く光る。杉本は覚悟してゐる。電燈の光が刃先に映じて、虹のやうに光る。一秒、二秒、三秒、五秒、定公はまだそれを打下さない。

 その手を青木が支へてゐる。来てゐる連中の一人に、
『兄貴、もう堪忍しとけ』。さういふ者もあった。

『糞生意気な!』。倉地は頻って杉本を保護しようと、定公の左手に抱き付いてゐる。杉本は定公を、ある一定の距離に保たうと、彼の法被の胸倉を捕へて、彼の右腕に持った刀が、自分の顔面に落ちて来ないやうに警戒してゐる。

 大騒動の物音を聞いて、三上が診察室から駆け込んで来た。そして青木が支へてゐる定公の右手から刃を奪ひ取った。余り無茶をすると悪いと思ったか、定公も容易にそれを離した。定公が刃を捨てたので杉本も彼の胸からその手を離した。

『これぢゃ話も何も出来んぢゃないかい!』
 さう三上は叫んだが、定公は猶も杉本を殴り付けようと、右腕を振上げた。然しそれは倉地が二人の間に這入って居た為に成功しなかった。堤と倉地は動かうとしない杉本を、無理矢理に奥座敷から表に引出した。倉地は玄関口まで彼を見送り、堤はそれを受継いで彼を戸口の外迄送り出した。

 少しも昂奮してゐない杉本は、無理にも堤を帰して、ひとり農民組合の初田伊之助の家へ遊びに行くことにした。
 彼は、行く道々、如何に社会の良心であることの困難であるかを考へた。彼は、良心を無視して、真正の政治が決して存在しないことを、つくづくと考へるのであった。古き政治に於ては勿論のこと、新しき無産政党に於ても、良心を腐らせた服部の如きは、全然役に立たないことを痛感するのであった。

 それから彼は、平気を装うて、初田伊之助を訪問し、農民組合の最近の情勢や、農民消費組合の事情を一々聞いて、秋に行はれる町会議員の総選挙などに就て打合せをした。