傾ける大地-42

   四十二

 翌日杉本は、浄光院に行って、堤から昨夜の様子を委しく聞くことが出来た。そして遂に、無条件で、鬼政に調停を依頼したことを杉本は知った。その結果、五月十一日限りに無産小学校は解散し、税金不納同盟を元に返し、今夜また東洋亭で手打式をやることになってゐると云ふ話を聞かされた。

 彼は手打式に出席することを好まなかった。で、彼は小屋に引籠って、フランス語で書いた、互助組合論に読み耽ってゐた。するとまた堤が、

『是非出て呉れなくちゃア困ると云ってゐるから、出てやってくれませんか?』

 と云って来た。そねで彼は黙って、堤の後から従いて行った。其処には二晩前の会衆が皆来てゐた。大勢の者が、鬼政親分の音頭で手を打った。杉本は、余程手を打たずに置かうと思ったけれども、何だか黒衣会の連中が可哀相になったので、渋々手をを打った。

 みんな『お目出度う』と云った。彼は黙って居た。盃が廻った。然し彼はそれを受収らなかった。いつに似ず服部は気を利かして、お花に命じて、サイダーを運ばせた。皆目出度い目出度いと云って酒をがぶがぶ呑んだ。青木は、席を立って、町長を初め公民会の連中に頻って献酬してゐる。鬼政は、おけいを呼んで、杉本英世に、

『この盃を持って行ってくれないか』

 と依頼した。親分の言葉に逆ふことの出来ないおけいは、座敷の端から端迄歩いて来て、顔も見ないで目を伏せた儘、山田の盃を杉本に突出した。三上と話に夢中になってゐた彼は、それとは気が付かなかった為めに、彼女は物を云はないで暫くの間それを差出してゐた。

 三上に注意せられた英世は、衝動的に然し沈黙のまゝそれを受取った。おけいは気まり悪さうに、決して英世の顔を見なかった。運悪くその辺りに酒の燗徳利が無かったので、おけいは遠く迄それを取りに行った。彼女は燗徳利を持って再び帰って来たけれども、相変らず物を云はなかった。で、二人の間に沈黙が続いた。然し彼女が杉本の盃に酒をつがうとした時に、杉本は初めて唇を開いた。

『おけいさん、手祇を見てくれたかい?』

 それに対しておけいは一言葉も答へなかった。そして、酒をなみなみと盃の上に注ぐとすぐ滝村の方に立去ってしまった。唖然として、おけいの後姿を見送った杉本は、それが誰の盃であるかわからなかったので、暫くの間そのまゝ膳の隅に捨てゝおいた。すると、床の間の方から大声で、鬼政がおけいを呼んでゐる。

『杉本の旦那から盃を返して貰ってくれ』

 おけいは、仕様ことなしに亦やって来た。そして、初めて杉本の顔をぢろっと見て、

『済みません』
と云ったきり、また盃を持った儘、床の間の方に帰って行った。余りの冷淡さに英世は憤慨した。然し、彼は黙って凡てを忍んだ。そして、便所に立つやうな風をして、東洋亭を抜け出した。

 外には五月雨がしとしとと降り、街路は三ヶ月近くも掘り起されたまゝ、打捨てられてあるので沼のやうになってゐた。傘の用意をしてゐなかった英世は、その泥濘の中を濡れ鼠になって、また浜の小屋まで舞戻って来た。裏には相変らず、馬がことんことんと、蹄で床板を蹴ってゐた。