2009-02-01から1ヶ月間の記事一覧
2月28日、賀川豊彦献身100年記念事業の記念礼拝とキックオフパーティーが青山学院大学のベイリーチャペル、青学会館で行われ、関係者160人が参加した。記念事業実行委員長の阿部志郎氏はあいさつの中で「賀川先生は遠い先を照らす灯台のような人だ…
富樫雄太(明治17−昭和31)西荒瀬村(現・酒田市)の旧家の生まれで、小地主だった富樫雄太は明治40年10月17日、日本基督教団酒田教会で洗礼を受け、熱心なキリスト教徒となった。雄太が鵜渡川原村立町に住む酒田教会の三浦牧師宅を訪問した際、肥桶をか…
ユヌス氏は1983年のグラミン銀行設立後、ソーシャル・ビジネスを矢継ぎ早に設立する。著書『貧困のない世界を創る』の中で、その多くで成果を上げていると自負している。ソーシャル・ビジネスは出資者に対して配当しない「企業」である。多くの企業家は…
2006年度のノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏は1940年、チッタゴンの宝石商の子供として生まれた。フルブライト奨学生として米国に留学、バンダービルド大学で経済学博士号を取得した。在米中に東パキスタンが独立運動を起こし、バングラ…
企業組織に人間性をもたらし、考え方を啓蒙する一つの試みとして協同組合運動がある。そこでは、労働者と消費者が、全員の利益のためにビジネスを所有し、経営に参加するのである。 ロバート・オーウェン(1771−1858)はウェールズ人で、イングラン…
日本の労働運動発祥の地である港区芝にある日本労働会館。その中にある友愛労働歴史館で、4月から特別展「賀川豊彦と労働運動」展が開催される。この地にはかつて基督教ユニテリアン教会「惟一館」があり、大正元年(1912年)8月1日、鈴木文治ら15…
神戸プロジェクトのシンポジウムが近づき、遅まきながらムハマド・ユヌス氏の著書2冊を読んだ。10年ほどまえの『ムハマド・ユヌス』と昨年出版されたその続編ともいえる『貧困のない世界を創る』。ともに猪熊弘子が翻訳し、早川書房が出版した。 読み終え…
昭和23年11月、時計づくりが始まった。素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのだから、夢多きスタートといっていい。野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになった。工場長のようなものだった」…
戦後、賀川豊彦が埼玉県桜井村に創業した農村時計製作所は、曲折を得てリズム時計に発展する。この会社には技術者養成機関として「時計技術講習所」があった。全国から農業青年を集めて、時計製作の技術を学ばせ、それぞれの故郷で時計工業を興す夢があった…
1935年の訪米で忘れてはならないのは、ニューヨーク州ロチェスター大学での講演だ。「Brotherhood Economics」と題した講演で、日本語では「友愛経済」「兄弟愛経済」とでもいえばいいかもしれない。この経済学の講演は直ちにニューヨークで出版され、1…
1950年、太田俊雄という牧師が、イリノイ州ネイバヴィルに留学していた時の有名なエピソードがある。近隣のオーロラの町では「賀川豊彦来る」が大きなニュースとなった。 「トシオについて行けばカガワに直接会えるかもしれない」「トシオ紹介してくれよ…
1935年の訪米は賀川にとって4回目のアメリカだった。1929年のニューヨーク株式市場の大暴落を引き金とした大恐慌が吹き荒れて、まだ収拾していない時期だった。一方で1917年のロシア革命が世界に広がり、資本主義の対抗軸として社会主義が台頭…
賀川は1924年から25年にかけてアメリカとヨーロッパを訪問するが、賀川がアメリカに到着したのが1924年2月だった。アメリカで排日移民法が7月に成立していた。これ以上、日本人を増やしてはいけないという風潮が高まってきた時期だった。賀川は…
賀川豊彦は1914年、初めてアメリカの土地を踏む。プリンストンへの留学だった。マヤス先生らキリスト教の恩師たちの力添えによって実現した。片道切符だけの留学で、授業料は免除されていたが、アルバイトをしながら3年間アメリカで過ごした。アメリカ…
1月から賀川豊彦の著作の写真と簡単な紹介文をこつこつとブログにため込んでいる。ほとんどアクセスのないブログであるが、ここらで宣伝させてもらいたい。本来は2月28日、青山学院の青学ホールで開催される献身100年のキックオフの集いまでに完成さ…
賀川豊彦は『人間苦と人間建築』の中で「貧民窟10年の経験」を次のように書いている。 最初の印象−−私の第一の驚きは貰い子の多いことでした。私は最初の年に、葬式をした14の死体中、7つ8つ以上はこの種類のものであったと思います。それは貧民窟の内…
與謝野晶子は1920年4月に、夫寛とともに、神戸に賀川豊彦を訪ねている。 つぎの訪問記は「横濱貿易新報」(1920年5月16日号)に掲載されている。 神戸の貧民窟を觀て 私は今度の旅行で、神戸の葺合にある大貧民窟を見ました。案内して下すつた賀…
『死線を越えて』は――正確にいえば、その前半の、初め『鳩の真似』という題で書かれた部分は、果たして「遺書」としての性質を持っているかどうか、というのが私の疑問である。 私の書いた伝記小説『賀川豊彦』(昭和9年12月刊)に次のような一節がある。…
1914年、後に共産党員になる野坂参三は神戸の葺合新川に賀川豊彦を訪ねる。野坂は賀川より4つ若いから22歳の時である。慶應義塾在学中と思われる。野坂は後に書く自伝『風説のあゆみ』の中でその時の驚きを書いている。以下『風説の 「賀川は、そのこ…
『乳と蜜の流るる郷』1935年、改造社 『幻の兵車』1934年、改造社 賀川豊彦『颱風は呼吸する』1937年、第一書房 『幻の兵車』は資本主義を批判しつつ、農村経済の窮乏を暴露し、協同組合精神を強調する。『乳と蜜の流るる郷』は農村問題の解決に…
「グローバル化時代が求める社会運動の国際連帯」 マグサイサイ賞を受賞し、「スラムの天使」と知られるタイのプラティープ氏を招聘して、21世紀における社会運動の国際連帯について理解を深める。神戸プロジェクトがアジア・ボランティア・センター(AV…
賀川豊彦と友愛社会の未来 賀川豊彦がスラム入りして100年。経済的豊かさでは大きな進歩があったかもしれないが、人間性という面では貧しくなっているかもしれない。「寛容の再生」をテーマに共に生きることの重要性をあらためて論議したい。東京プロジェ…
「愛する人のためにあなたは自分を越えられますか。」賀川豊彦の生涯を描いた映画「死線を越えて」の上映会が各地ですでに始まっています。先月は千葉大学で行われました。賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会ではこの映画のDVDの貸し出しを行ってい…
世にはエライ立派な人は少なくありません。しかし、そのような人で心から好感のもてる人はそうざらにあるものではありません。徳冨翁が同時代の日本人の、しかも対照的な内村・賀川の両先生を讃えたことは特筆すべきことでありますが、私には両先生こそ最も…
賀川豊彦シンポジウム −新時代の<友愛>と公共的知識人− 千葉大学では賀川豊彦の多面的な社会活動に対して<友愛>や<平和>といった観点から「公共的知識人」として再評価を試みてきた。本シンポジウムでは賀川の思想や実践の可能性を論じるとともに、現…
もう一つ、エピソードを話そう。昨年春、賀川豊彦記念松沢賀川資料館の杉浦氏から「伴さん、こんなDVDをもらったんだけれども、ちょっと見てください」といわれた。オーストラリア人がつくった「フレッチャー・ジョーンズ物語」という1時間ほどのドキュ…
韓国の大邱新聞オピニオン欄で李根民氏 (大邱大学校リハビリ科学大学教授)が賀川豊彦に言及している。韓国では意外と賀川豊彦が知られているのかもしれない。神戸のイエス団や東京の松沢資料館に韓国人団体の訪問が増えており、賀川の著書のハングル訳も少な…
賀川豊彦の評伝、韓国語版出版 現地牧師翻訳、「日韓の懸け橋に」 社会運動家賀川豊彦の生涯を描いた評伝「阿波の偉人伝 時代を超えた思想家賀川豊彦」の韓国語版が出版された。林啓介さん(75)=鳴門市大麻町板東、阿波の歴史を小説にする会会長=の著書…