『死線を越えて』についての疑問 鑓田研一

死線を越えて』は――正確にいえば、その前半の、初め『鳩の真似』という題で書かれた部分は、果たして「遺書」としての性質を持っているかどうか、というのが私の疑問である。
 私の書いた伝記小説『賀川豊彦』(昭和9年12月刊)に次のような一節がある。
 ある日の午後だった。八太がめづらしく遊びに来た。賀川は机にかぢりついて、右手にかたく筆を握ってゐた。そのそばには陶器の痰壷が置いてあった。
「何を書いてゐるんだ?」八太は机の上をのぞき込むようにした。
 賀川は答へないで突っ伏した。
「君、どうしたんだ? あまり真面目すぎるのも程度だぜ」と八太はきめつけるやうに言った。
 改めて机の上を見ると、なるほど、厚く綴ぢ合わされた原稿がおいてある。そしてその表紙に『鳩の真似』と書いてあった。
 これは想像で書いたのではない。材料の提供者は、文中に登場している八太という人である。
 八太の名は舟三といい、のちにアナーキズムの大立者になった人だが、当時は明治学院普通部に席を置いていた。神学予科の賀川にとっては、一種の先輩である。
「俺の生涯を書き遺すんだよ」という涙まじりの言葉は、真実だったに違いない。なぜなら、肺結核になって「死」と対決するという極限の状態が、それを虚構と見ることを許さないからである。
 一言でいえば、『鳩の真似』は遺書として書かれたのである。少なくとも、この処女作を書き出した動機は、自分の半生涯を描いて、遺書としてこの世に残すということだったのである。
 ところが、いま改めて『死線を越えて』(『鳩の真似』に重点を置いて)を読みかえしてみると、何よりの先に、フィクションがあまりに多いことに気づく。
 フィクションという語には、作り話とか作り事とかいう意味がある。小説をフィクションと呼ぶこともある。小説は事実と対立し、事実は素材としか言えないからである。
死線を越えて』の全編にわたって、事実とフィクションとのふるい分けをすることは、紙幅がないので許されないが、明治学院時代の賀川は、すでに出生地の神戸にも、少年時代をすごした阿波にも、帰るべき家を持っていなかった。父も故人になっていた。
 作者自身だと信じられて来た新見栄一は、悪徳の名の高い父を持っている。新見自身も、茶屋(待合)で二人の芸者に挟まれて川の字になって寝たりする。
 こんなフィクションで飾られた『死線を越えて』は、極限状況のきびしい雰囲気の中で書かれるべき、事実の追求を生命とする遺書とは言えないと思う。『死線を越えて』はあまりに小説的である。
 この作品が書き出されたのは明治40年で、この年の9月には田山花袋の『蒲団』が発表されたし、前年の3月には島崎藤村の『破戒』が自費出版された。醇爛な形式に最高の価値を求めた硯友社文学を否定して、最初の一歩を踏み出した自然主義は、早くも全盛期を迎えようとしていた。
 賀川は新鮮な自然主義文学に、どれほど広く、どれほど深く接触していたか、それを実証するに足る確実な資料を私は持っていない。しかしここで断定的に言えることは『死線を越えて』の表現技術は非常にリアリスチックであり、その限りにおいてこの作品は自然主義文学の系列に属するということである。(作家、=当時、『賀川豊彦全集』月報昭和39年2月)から転載