與謝野晶子が訪ねたスラムの賀川

 與謝野晶子は1920年4月に、夫寛とともに、神戸に賀川豊彦を訪ねている。
つぎの訪問記は「横濱貿易新報」(1920年5月16日号)に掲載されている。

 神戸の貧民窟を觀て

 私は今度の旅行で、神戸の葺合にある大貧民窟を見ました。案内して下すつた賀川豊彦さんの周到な説明を得て意外な知識を加へました。貧民窟の實状は其れに関した書物や寫眞だけでは決して解りません。百聞は一見に如かずと云ふことをつくづくと貧民窟に於て感じました。
 私は茲に貧民窟の光景を記述しようとは考へません。それは不可能です。その代りに、讀者に對して、どの都会にもある代表的な貧民窟を實見されることをお勧めします。
 かう云ふ不潔と病毒と窮苦との中に豚や犬と同じ生き方をして居る人間があると云ふことは、文明の國土に許すべからざる汚點です。人間が社會連帯の思想に目覚めて愛と人道とを説く限り、かう云ふ悲惨な境遇にある人間を放任して置くことは、萬人が互に負擔すべき一大罪悪だと思ひます。
 私は必ずしも姑息なる一時的の救済である慈善行為を奨励する者ではありません。それよりも根本的にかう云う貧民の發生を無くする社會組織の建設に就て萬人が注意して欲しいと思ひます。
 私は又かう云ふ事を思ひました。現にある貧民は施療と、救恤と、職業の紹介とで、目前の日送りを比較的緩和する事を計るより外に方法は無いにしても、せめて、その子供だけは生れるや否や、その生きながらの餓鬼道から隔離して人並の成長を取らせるやうに断然たる手段を講じられないものでせうか。若し其れが出来たら、その悲惨を親達たけで打切ることになるであらうと思ひます。
 現在の貧民の子供を隔離しても社會組織を根本的に改めない限り他の方面から新しい貧民が發生するのは勿論です。さうだからと云つて人並に生れて来た子供を不潔と、病毒と、無智と、窮苦との中に放置するのは、愛も人道もない、野蛮至極の事のやうに思はれてなりません。
 賀川さんが私達の先に立って貧民窟の細い路次を歩かれると、多勢の子供達が「先生」、「先生」と云つて取巻きます。賀川さんは一々その子供達の頭や肩を撫でてお遣りになります。子供達はすべて嬉し相にして賀川さんに撫でられて居ます。私は其等の子供達の持って居る人間の魂の美しさに涙ぐみました。其点は私達の子供とも、貴族や富豪の子供とも、魂に於て何の径庭もある譯は無いのですが、偶然にも貧民窟に生れた為めに、其等の子供達は悪性のトラホオムや、皮膚病や、親から傳染された梅毒やに罹つて、一人として完全な肉体を持って居る者がありません。何といふ不幸な子供達でせう。
 その親達も、狭い二畳敷の割長屋から首を出して、賀川さんと挨拶を交換して居ます。博徒も、窃盗も、淫賣婦も、すべて賀川さんの前では、美しい人間性を見せて居ます。それがどうして虚偽であろう。紳士や紳商の交換する笑顔の方がどれだけ醜いものであるか知れないと思ひました。

 或一つの路次では鉢植の花を作つて居る家が並んで居ました。「一軒の家の主人が花を作り初めたら次第に園芸熱が伝播して行ったのです」と賀川さんが云はれました。石版画を澤山に張つて楽しんで居る家もありました。襤褸で作つて押繪細工を額に飾つて居る家も澤山にありました。こんな境遇に居ながら、皆が皆、社會に敵意を持つことも無く、すべてが殺人罪を犯して自暴自棄す迷ることも無いのは、本来人間の魂が善であるからでもありますが、一つはかうして低級な藝術や迷信に由つてその魂を慰められて居るからだと思ひました。(『横濱貿易新報』 1920年5月16日)