貧民窟10年の経験 賀川豊彦

 賀川豊彦は『人間苦と人間建築』の中で「貧民窟10年の経験」を次のように書いている。

 最初の印象−−私の第一の驚きは貰い子の多いことでした。私は最初の年に、葬式をした14の死体中、7つ8つ以上はこの種類のものであったと思います。それは貧民窟の内部に子供を貰う仲介人が有って、そこへ口入屋あたりから来るものと見えます。そしてその仲介人を経て、次へ次へと貧民窟の内部だけで、4人も5人も手を換へて居ります。それで初めは衣類10枚に金30円で来たとしても、それが第二の手に移る時には金20円と衣類5枚位になり、第三の手に移る時には金10円と衣類3枚、第四の手に移る時には、金5円と衣類2枚位で移るのであります。之と云ふのも現金がほしいからで、それが欲しい計りに、段々いためられてしまった貰い子を、お粥で殺して、栄養不良として届出すものです。
 病人の世話−−最初の年は、病人の世話するなど気はありませんでしたが−−(中略)1ケ月50円で10人の食の無い人を世話することに定めて居たのでした。然し来る人も来る人も重病患者であることには全く驚きました。私は病人の中に坐って悲鳴をあげました。
 賭博−−博徒と喧嘩はつきもので、私は「どす」で何度脅迫されたか知れません。欲しいものは勝手に取って行きます。質に入れます。然し博徒と淫売婦とが、全く同じ系統にあることを知って驚きました、淫売の亭主が、その女の番人であるには驚きます。そそてその亭主は朝から晩まで賭博をして居るのであります。
 淫売の標準は芸者で、博徒の標準は旦那であるのだ。芸者も、旦那も遊んで居て食へる階級である。もし貧民が遊んで反社会的なことをして悪いと云ふなら、芸者と旦那を先ず罰せねばならないのである。此処になると、社会の罪悪が今日の産業組合の根底にまで這入って居ることを思うので・・・、説教をする勇気を持た無いのである。