新川貧民窟の二十日 山室武甫

新川貧民窟の二十日   山室武甫

  新川行の由来

 其は大正十年で、今から約三十年前の事である。賀川先生の「死線を越えて」は、驚異的な賣行で、劇化され上演された。近刊の続篇「太陽を射る者」も凄しい賣行を続けてゐた。其夏神戸の川崎三菱の職工約三萬の大勞働争議に於ける先生の鮮かな指導振は全國に傅へられて、先生の名馨は一時に高くなった。その少し前東京の警醒社から黄色い表紙で四六判百頁程度の多分「自由組合論」といった先生の著書が出て讀んだ。神戸の大争議の際も、先生の思想は此書に記されてゐる通だから安心して可なりと、友人とも話し合った。

 常時私は同志社大學豫科二年生で思想的信仰的に動揺期に在った。其頃京都市七條の貧民窟(當時所謂「特殊都落」)に小林輝次といふ京大出身の法學士が一戸を借りて住み、京大大學院に籍を置きつつ、大阪の大原社会問題研究所に勤めて居られた。私は小林氏と親しくなり、チャールズ・ブースがやった様に一緒に此の地区を組織的に研究してはといふ事になり、同居しようとしたが、私が修道するとでも思ったのか近所の連中が反對して思はしく行かなくなった。御存知の通り彼等は悉く熱心な真宗門徒なのである。丁度其頃京都の公會堂で水平社の創立大会があり、私も出席した。喜田貞吉博士の部落に關する歴史的研究も刊行され、彼等に對する社會の同情と關心とが高まりつつある際であった。私は京都市内の部落は悉く訪れた。小林氏が私の事を賀川先生に話して下さったら、冬休に新川に来て見ないかといふ話があったさうだ。他方十一月五日大阪で催された全國社會事業大會で父軍平が先生と邂逅した際に、其の話が出て先生の快諾を得た。

  先生と私

 抑々私が賀川先生の名を初めて耳にしたのは明治四十三年の初頃であった。其年一月廿三日に東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町八四二番地(現在の渋谷區省線代々木驛附近)の私共の家が焼け、同町五三八番地に移った。其から間もなく或日の午後、京橋區銀座二丁目に在った救世軍本營に父を訪れると、「之は賀川といふ方からお前に下さったのだよ」と言って、新刊の賀川先生著「友情」一冊と、ネルの茶か青の縞のシャツとを渡された。「友情」は先生の處女作で、表紙や挿繪の水彩畫も先生の筆に成り、少年少女にダビデヨナタンの美しい友情を描いたものであり、警醒社發行であった。巻頭には父の序文があった。

 私は前年の夏休と冬作とを大阪の博愛社で過し、小橋勝野夫人(實之助未亡人、現社長)から賀川先生や姉上榮子さんの若い頃の噂を聞いた。叉、神戸の救世軍小隊で曹長を勤めてゐた宇佐早出彦氏宅でも先生の噂を聞き、「涙の二等分」も手にして見た。博愛社はや聖公會系統であるが、理事の一人なる名出保太郎氏や、博愛社教會や小學校を助けられた側垣基雄氏が牧して置られた大阪川口教會で賀川先生の講演があった。私も博愛社の職員の方と一緒に出席した。

 先生の講演中、三高から大學行を断念して救世軍士官となり、日本を救ひたいからとて三晩電信柱の下に寝た一宮政吉氏(後にホリネス派に轉ず)の話が出た。ブース大将は一億圓を投じたが、倫敦貧民窟の激化は仲々思はしく行かなかったといふ様な、貧民窟軟化の困難にも言及された。救世軍は間口を廣くして多くの人々に接するが、叉ぢきに行かれて了ふ。この川口教會の様に、奥まった處で深く養ふ必要がある。其點此間救世軍の矢吹中佐に會っ忠告した。といふやうな御言葉があった。勿論私が其席に在った事は、先生が御存知の筈はないし「雲の柱」の發行」迄に詳しい。

 女學生達は裏通の、先生が最初に住まれた家と他の二軒の壁を打抜いて一つにしたものに、賀川夫妻等と一緒に泊った。私に表通にあったイエス團の事務所の二階に寝泊りした。此處は階下が教會や診療所に充てられ、階上は一部屋程の事務室で、テーブルが二つ三つあり、先生の豊富な書棚があり、叉資料を分類して入れる抽斗が多数あった。

 私は窓寄りのテーブルの一つに腰を据え、殺到してくる多くの手紙を分類整理し、叉先生の御意嚮に従って返事を出した。煩悶相談、弟子入願ひ、貧民窟入り依頼、講演依頼、金の無心、寄稿依頼、筆蹟所望等々、種々雑多であった。又新刊の「イエスの宗教と其の真理」や、「雲の柱」創刊號の發送もあった「雲の柱」によってイエスの友會の存在が天下に發表されんとしてゐた。先生は會の五綱領につき、之ならば殆ど誰も異存はあるまいと話して居られたのを思出す。

 別に賀川夫人が主宰される覺醒婦人會の機関紙「覺醒婦人」の創刊號も出た。之には亡父軍平が、救世軍の母カサリン・ブースに就いて誌した一文も載ってゐた。

 訪問客も次から次へと、ひっきりなしに押し寄せ、その用件も手紙と同様に様々であった。先生は當時屡々「Notable(有名)になると悲哀を感ずるね」と言って、悲鳴をあげられた。そして遂に事務所の階段の脇に貼紙して、先生の面會日を定め、一時来訪者の應對や相談
は、宗教上―根岸蓮治、身上―植村龍世、婦人身上―小見山富恵、勞働―行政長藏と分擔が定められた。根岸氏は元救世軍士官で救世軍を出てから早大に學んだりされた。路傍傅道等にはコルネットを吹いて助けられた。賀川先生は、求道者や信仰を勤める相手には必ず、亡父軍平の「平民之福音」と、金森通倫氏の「信仰のすゝめ」とを與へられた。

 先生の知友や門下の来往も頻繁であった。改造社の山本實彦氏がこられ、母上が「死線を越えて」の劇を見た事を話された。印税の事に言及されると、先生は次から次へと事業上の必要があるので、幾らはいっても足りないと言はれた。杉山元治郎氏が来られた。日本農民組合か發足せんとし、機関紙「土地と自由」も創刊されんとしてゐた。麻生久氏が訪ねて來て夕食を共にし、私も紹介して頂いた。麻生氏は雑誌「解放」の同人であり、自傅小説「濁流に泳ぐ」で文才を顕し、叉足尾銅山の勞働争議のリーダーとして勇名を轟かした人であり、肥満して二十貫は優にある巨躯を擁してゐた。食事中の會話で、賀川先生が今年のクリスマスには貧民窟の子供等を賑う爲に一萬圓費ったと云はれると、麻生氏は「其だから社會主義者に攻撃されるんだよ」と言った。高山義三氏や日高善一氏も見えた。吉田源治郎氏と舊知であったが、一緒に連立って歩いた時、救世軍では何故消費組合をやらないのですか?」と尋ねられたのを憶出す。久留弘三氏、同志社大出身で、京都の友愛會幹部たりし東氏等も来られた。

 後に評論家として名を成した大宅壮一氏は京都の三高三年生で二學友と共に来訪した。彼は仲々の勉強家で、獨逸話の原書等を先生から借りて行った。三浦浩一、探田種嗣、杉山健一郎等の諸氏にもお會ひした。無名の勞働運動の闘士連もつめかけた。革命歌や勞働歌等が度々高唱された。叉、先生の書庫の書物をどしどし持出す。紛失するものも少くないので、先生は貸出簿を作って取締らねぱならないと言って居られた。

 賀川先生の二弟と、賀川夫人の母上と二妹とにもお目に掛った。現在の芝女醫はまだ女子醫専の學生であられた。馬鳥福氏は外遊中であったが、馬島夫人は教會の會合にいつも見えてゐた。

 先生の書棚には、救世軍發行の書籍は大抵揃ってゐた、亡母の傳「山室機恵子」もあった。亡父が扉に自著 して贈った、「聖書餘書』(後に「民衆の聖書」と改稱)のマタイ傳其他数冊もあった。書類分類戸棚の「名士の書簡」といふ抽斗を開けたら、亡父のペン書きの書翰のみが数通出て来た。亡父は不器用で、悪筆だからとて、ペンで色紙や書物の扉に書く以外は、絶對に揮毫の求めに應じなかったのであるが、賀川先生の美事な達者な揮毫には感心した。

  新川のクリスマス

 神戸のイエス團の年中行事たる古着バザーがある。女學生は出品する古着の縫直しや仕立に忙しく働く。私は他の一二の青年等と一緒に、荷車を曳いて山手の篤志家の宅を訪ね、寄附の品物を頂いて歸ったのを記憶する。 先生の恩人マヤス博士の宅は山手に在り、宏荘な見渡しのよい家であった。我々は先生夫妻と共にお茶に招かれて楽しい歓談の一時を過し、美しいクリスチャン・ホームの雰園気に浸り、記念撮影もした。マヤス夫妻並に御子女は大柄で立派な髄格の持主であり、夫妻は度量の大きい、温情に充ちた方々であると感じた。

 クリスマスの前夜私は先生と二人きりで電車に乗って、神戸の市中に出掛けた。併し私は當時虚無的な思想にかぷれ、信仰が動揺してゐたので、途中でも黙りこくって、さっぱり何も言はなかった。先生と一緒に丸善の支店に這入った。先生は多分 Everymeans Library で
あったと思ふが、一揃の叢書の科學に関するものを購求された。新川の家の近く迄釆て別れた。先生は其儘どこか海岸よりの方へ行かれて祈られたらしかった。

 クリスマス當日は未明に起きて、短い祈祷會の後、一同列を作ってまだ暗い貧民窟の街路の要所要所に立止り、「もろびとこぞりてむかへまつれ」の讃美歌を歌った。キリストによる新しい解放を告げる此の歌は、最も適はしく考へられた。先生の當日のお勤めは「マグニィフィカット」と呼ばれる聖母マリヤの歌(ルカ傳一・四六―五五)に基いたものであった。

 少し離れた大きな會館で二日續いて、貧民窟の子供等を招待しての盛なクリスマス祝會が催された。下駄を包む爲新聞紙が足りなくなって、先生宅から先生が參考資料用として保存して居られた古新聞の一部を持出して運んだのを記憶する。

 賀川宅と事務所の外に、今一軒相當に大きな建物を、先生は買収された。村島氏の記録によれば「刷子工場跡に作った児童會館」であり、事務所階下の集會所よりはずっと廣かった。前述の七名の女學生の中の一二の方々が、此の建物で、多分クリスマスの頃、先生から受洗した。

  先生の雄辨

 日曜日朝は日曜學校と禮拜があり、大人の集會には關係者や外部の人々も相當多く集った。夜は先づ救世軍式に路傍傳道があり、賀川夫人其他の短い體験に次いで先生の勸告があった。先生のバスの太い聲はよく響いた。屋内の會合も、多分に救世軍の救靈會的要素をもったものだったと記憶する。

 神戸YMCA會舘で、軍備縮小大講演會があり、、麻生久、賀川豊彦、鈴木文治三巨頭の演説があった。當時勞動運動の會合には警官が臨検して高壇の一角に座を占め、「注意」とか「中止」とか叫ぷのが例だったが、此時も署長が壇上に居り、麻生氏に統いて立たれた先生も二度程「注意」を受けられた。先生は米国で生物學を研究し、發掘された古代生物の化石により、巨大な體躯で争闘の器能のみ發建した生物が絶滅するに至った跡も學んだと語られた。次いで日本が國費の半額以上を軍備に充當する矛盾を指摘し、遂には軍備の撒廢迄叫ばれた。戸口では勞働運動關係の先生の小冊子が盛に賣られてゐた。後で先生は、「日本でも軍備撒廢を叫べるやうになった」と述懐された。

 新年に室内教會(長谷川敞牧師及初音夫人)で、先生の連續聖書講演があり、プリントが配付きれ、先生は例の如く図解され乍ら話された様に記憶する記憶する。

  其他の思出

 先生が祈る爲に時々行かれるといふ神戸の水源池に一人で行って、清い空気、静かな大地、美しい景色に接して、気分を新にした。居酒屋が繁昌し、街頭で賭博が行はれている騒々しい汚い貧民窟の雰囲気とは全く異ったものであった。叉或る一日は矢張一人で大阪の貧民窟を歩き廻り、釜ヶ崎方面の木賃宿に一泊した。

 東京女子大生小岩井ゆき氏が詩に注べてゐる××の兇暴の記憶も鮮かである。毎度の事であろが、酒気を帯びて無心をし、賀川夫人の頬を殴って倒し、ドスを以て先生に、殺すとて迫った。先生はいつも逃げて暫く姿を隠されるのが例であったが、此時は遂に賀川宅に追ひ詰め、久しく粘って怒鳴り散らした。「そんな事で大親分と言へますか」といふやうな言葉が彼の唇から迸り出た。「山室君、英語の原書は自曲に讀めるかね? Classicsを讀み給え。ブラントンのRepublicやアダム・スミスのWealth of Natrionsは讀んだかね?」とて、讀書の注意をして下さった。

 皮膚病が感染するといけないと云ふので、少々遠いが貧民窟を出外れた所にある風呂屋に通った。先生と何回か一緒に入浴し、背中を洗って頂いた。「海水浴に行ったのかね? 仲々色が黒いね」と言はれた。先生の背中を洗はうとしても、どうしでも許されたかった。

 先生は何時かの講演で亡父の説教から引用し、胃病で癇癪持の男の癇癪が次から次へと傅播して行くといふ例話を語られた。

 先生は新著[イエスの宗教と其の真理」其他を、自分の悪口をいふ人には送るのだと言はれた。私は大正十年夏を石井十次氏の遺業なる九州の茶臼原孤児院で過し、餘り遠くない「新しい村」を訪うた。武者小路實篤氏と話し合ってゐる中に、不圖氏は「賀川豊彦の繪は何だね? あんなものは書かない方がいいね」と言はれた。其を思ひ出して先生にお話しすると、「武者小路も悪口を云ふから、送らう」と答へられた。

 丁度其頃西田天香氏の「懺悔の生活」が百版以上を重ね、西田氏の名は天下に喧傳されるに至った。西田氏は綱島梁川等を通じて基督教の感化も多分に受けられた方である。私は友人に連れられて数回京都の一燈園を訪れ、西田氏のお話も拜聴したし泊ったこともあった。先生は消極的で経済理論を持たない一燈園の行き方を好まれなかった。植村龍世氏が讀みたいと言はれるので、歸洛後「懺悔の生活」を送ってお借しした。西田氏と同系統の人に宮崎安右衛門氏があり、矢張同じ頃「乞食桃水」やフランシス傳を出し、私は兩著とも讀んだ。
 歸洛して下宿に戻り、學校は始った。賀川先生に御禮状を出すと、自筆で巻紙に墨書した御手紙を頂いた。父の方へも私の精紳的状態を報告する手紙が届いたさうである。(完)

賀川研究
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    頒 價 第二冊一部郵税込百七十圓
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            賀川研究社

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