『医療組合論』第三章 都市無産者と医療組合

第三章 都市無産者と医療組合

都市医療組合の必要

私が解しかねてゐることは、医師会の幹部や、ある人々が、農村の医療組合に賛成して、都市の医療組合に反対することである。それらの人々の考へでは、医療設備の完備してゐる都会、また医師の沢山集まってゐる都会に於て、何故医療組合を作る必要があるかといふことを疑問にしてゐる。
それらの人々の考へに於ては、医術と、医事経済とを全く混同して医術のある処には医事経済方面を無視してもいゝといふ考へを持ってゐることである。私の繰返した如く、いくら医術が発達しても中産階級がどしどし無産化してゆく間、都市無産階級は、無料診察所にも行けず、さればといって開業医にかゝるだけの金がない。
(開業医は診察券を買はなければ見てくれず、薬代を前納しなければみてくれない。これは都会に於て特に甚だしい)かく考へると開業医がいくら多くても、都市の無産者には医者がないのと等しい。
いくら都会に数千の医者が集まっても、無産者の友としての親切な医者がなければ、無産者はその死亡率を減退し、罹病者を減らすととは出来ない。
都市の無産者は何故医者のみが文化的生活をして衛生人夫が貧民窟に住まなければならないかといふ理由を疑ふのである。

統制経済と疾病の関係

都市無産者は、実費診療だけに満足はしてゐない。実費診療を看板にかけて儲けてゐる医者もあると聞く。都市無産者は、かうしたインチキ的な医療設備に耐えきれないのである。都市無産者は、自分だけが安い治療を受けただけで満足しない。多数の同胞が、一人の狡猾なる医術家のために、冨を集中されることを恐れてゐるのである。

都市無産者と罹病率

なぜ無産者に病気が多いか? もしもていねいに研究せられるならば、すぐわかるだらう。死亡率は収入に反比例し、また、その家の坪数に反比例し、畳数に反比例し、一里平方の人口に正比例してゐる。即ち、無産者が、都市に於て過群生活を営めば営むほど、死亡率は高まり、罹病率は激増し、労働街と住宅街に於ける死亡率は数倍の差を持つやうになる。数年前の統計であるが、神戸市などに於ては、上流階級の住んでゐる山本通街では、千に対する死亡率がわづかに七乃至十位しかないに拘らず、労働街に於ては千に対して三十乃至四十といふ率を持ってゐた。これは東京でも大阪でも略同じ傾向を持ってゐる。
即ち、富が一部特権階級に集中することによって、この無産者の死亡率と罹病率を対個人的の臨床医学だけでは救ふこ とが出来ない。医者が個人的に患者を診断してゐて、冨を集積し、患者がいつまでも、労働街や貧民窟に居る間は労働街は中産階級以上に医療費を払ひつゞけ、医師は中産階級以上に無産者よりその医療費を取り続けるであらう。かうして、医療を社会化しない間は、無産階級の生理生活の安定は、永久に望まれないのである。即ち個人的に医療設備をなす間、医者は儲けるには非常に便利であるが、無産者は医療債を通じて儲けられる立場に置かれる。

都市無産者と死亡率の研究

個人医学の人々が、社会医学の問題を軽視する傾向があるから、少し煩しいけれども無産者が、如何に、社会医学を要望しつゝあるかを統計をもって掲示しよう。
都市の貧民の死亡率程恐るべき大きなものは無い。千九百六年倫敦市フィンスビュリー区医療局のニューマン氏が、同区全体に就て研究した処によると、

 家族の室の数     一室    二室   三室   四室
 千人に対する死亡率 三ニ―三九  二二  一―四  六・四

と云ふのであるが、一室に一家族住する人達は、一家族で四室以上持って居る人達より五倍以上の死亡数を有すると云ふことを知って今更の如く驚くのである。またグラスゴーのチヤルマース氏の手によっても同市の貧民死亡率統計の発表があった。(一九〇一年)即ち之によれば、四室の持主は三分の一の死亡率で足ることになって居る。


       死亡率     死亡実数    住民実数
一室の家  三二・七    三、四〇五   一〇四、一二六
二室の家  二一・三    七、四一八   四三八、七三一
三室の家  一三・七    二、〇八一   一五一、四五四
四室の家  一一・二    一、五三三   一三六、五一一

伯林市でも矢張り同一の結果を発表して居る(一八八五年〉。然し之はグラスゴーあたりより貧富の間に死亡率の間隔が余程甚だしい。

       一室の家  二室の家  三室の家 四室の家
死亡率千分率 六三・五  二二・五   七・五  五・四

即ち此統計によれば、一室の家は、四室の家の殆ど十三倍の死亡率を持ってゐることになってゐる。グラスゴーの四倍である。此外マヨ・スミスは猶多くの統計をあげて貧民長屋の不幸を語って居る。(『社会統計学』遠藤氏訳、一九九―二〇一)
比外労働者貧民間に死亡率の高いことは実に多くの例がある。リヴァプールは湿地の上に立った貧民窟を有して欧洲に於ても類の無い高い死亡率を有する都市であるが、近来大に改良したが、それでもまだ、

              一般死亡率  嬰児死亡率
富裕地セフトン街付近死亡率   九・七    九・〇
貧民窟取引所附近死亡率    三一・三   二六・〇

と云ふ有様である。(一九〇六年?)
之によって如何に今日に於ても猶貧民窟と富裕街との間に三倍以上の死亡率の相違あるを知るのであるが、世界に於ける統計はまだ之だけでは尽きては居らない。世界の凡ての統計は矢張り貧乏人は可哀相なもの、脆いものであることを説明し尽して居る。少し古い統計ではあるが、

ダブリン市、 一八八一―一八八六年間平均小児死亡率
 上流     中流    上等職工    下等貧民
二〇・五二  五八・二五  五八・二五  一〇八・七三

と云ふ数字を示して居る。英国労働者の生計状態は充分此方面の事実を挙げて居らぬが、唯、此事実のみは指摘して居る。即ち日く『一九〇三年より一九〇六年までに於て、労働者の住するベスナル・グリーン・ステフアニーは死亡率に於ても出産率に於ても、全倫敦の平均数より多し、殊にステフアニーは、倫敦二十八区中の最高に位して居ると』(英国労働者生計状態一三六―一三八頁、一八三頁、二一七頁)
事実は斯の如く明瞭である。貧民の生命は実にガラスの如く脆いのである。然し日本に於ては嘗て此種の研究の正確な統計が無い。唯明治四十三年六月の統計集誌に石黒男爵が多少此種の研究をせられたと云ふことを一寸見ただけであるが、その後正確な研究を見ない。
で、私は神戸市役所の衛生課に就て、死亡届の原簿を借覧して、神戸の細民部落の統計だけは自ら作って見た。結果はかう云ふ風である。

神戸市細民部落死亡実数及死亡率
       死亡実数 嬰児死亡数  人 口  千分率
荒田一丁目   一五六   四八  五、〇七一 三七・六
荒田二丁目    七二   一二  二、六九九 二六・六
荒田三丁目   二三四   八四  四、五六五 五一・二
荒田四丁目    八〇   二六  二、九八〇 二六・八
宇治野町    一〇六   四九  一、五八九 四〇・八
宇治川町     五六   二〇    六〇八 三五・二
南本町四丁目   一一    三    六〇八 一九・七
南木町五丁目   一一    六    四六八 二三・五
本町六丁目   二三    九    九五四 二四・一
北本町二丁目    七    三    二六九 二六・〇二
北本町四丁目   一二    七    二九二 四一・〇
北本町五丁目   三二   一二  一、〇四四 三〇・六
本町六丁目   四九   一八  一、二一二 四〇・四
吾妻五丁目    一三    四    五七一 二二・七
吾妻六丁目    四九   一四  一、二二一 四〇・一
日暮三丁目    一二    二    四三六 二七・五
日暮六丁目    一三    三    四三五 二九・九

之によって見ると荒田三丁目の五十一人二分と云ふのは、一番高いのであるが、荒田一円の貧民窟から見るならば多くは無いので三五・五位になる。宇治野町の貧民窟は嬰児死亡率に於て神戸第一であるが、荒田三丁目を除いて、一般死亡率も神戸第一である。然し之を貧民窟の一般から云ふならば、矢張り、北本町の貧民窟などは死亡率の多い方だと云はねばならぬ。
が、之だけの死亡率表を掲げたゞけでは面白味が少い。之を神戸の比較的富裕な市街に比較して見て初めて面白いのである。
で、私は下山手通中山手通、山本通、元町通の死亡率を取って見たが、その結果は次の如きものである。

        死亡実数 嬰児死亡率  人 口  千分率
下山手七丁目   一三    六  一、八〇七  七・一
下山手八丁目   四四    五  二、二三九 一四・九
中山手六丁目    九    三    八六三 一〇・四
中山手七丁目   五九   一三  二、五八〇 二二・四
元町四丁目    一二    二    九六七 一二・四
元町五丁目    二三    六  一、一九六 一九・二
元町六丁目    二二    五  一、一一三 一九・六
元町七丁目     五    二  二、八二一 一七・六

即ち中山手六丁目と北木町六丁目などゝ較べるとその死亡率は丁度四倍程違ひ、また北本町六丁目だけをロンドンの一室定住者の死亡率と比較すると一〇・一から北木町の方が多いことになって居るのである。叉、日本全国の死亡率と北本町六丁目とを比較すると二倍に当る。
東京市役所の乳児死亡率の研究が大正十五年に発表された。それによっても、畳数によって、乳児死亡率に変化があることがよく判ってゐる。即ち貧しき者ほど乳児死亡率の高いことは、全く驚くほどである。
昭和三年七月神戸市役所の発表した神戸の乳児死亡率の研究によっても同じことがいへる。それで参考のためにその統計を下に略記する。

   居住状態別乳児死亡数
    一室    七〇七
    二室    六九五
    三室    二九九
    四室    一六一
    五室以上   九八
    不明     四五
     計  二、三〇五
   (小石川、下谷本所区合計実数。大正十五年五月東京市社会局発表)

医療社会化による死亡率の低下

斯くの如く、都市無産者の死亡率が、社会経済的影響をうけてゐるために、いくら個人の医学が発達しても、社会経済的改造連動を断行しなければ、都市無産者の死亡率を減退することは出来ない。
それで我々は、個人医学より社会医学へ、民族治療の運動を押進めなければ、日本の死亡率を減退せしめることは出来ないと思ってゐる。最近辛うじて工場労働階級の強制健康保険により、我国の死亡率を千分の二位低め得たけれども(その他にも多くの理由はあらうが)もし、農民及び都市一般の市民に対して、医療の社会化が実行出来るなら、無産階級の社会経済的方面が余裕をみるために、日本の死亡率は、たちまち千分の七乃至八を低下することは火を見るより僚かである。

個人医より社会医へ

親切な医者は、個人医学より社会医学に目覚めて、都市無産者の死亡率と罹病率を減退するために、医療行政の個人主義的経営を排して、医療国営の方向に進み、医療財政の統制経済化に組織されるように目覚めなければならない。さうすれば、労働者階級の過群生活は減退し、それによって起る死亡率の減退、罹病率の減退を見ることが出来る。今日までの医者はあまりに病人個人と医師個人との関係のみを考へて、社会医学といふことを考へなかったことが認識不足であった。我々の産業組合法による医療機関の必要を説く理由は、この医療の社会化を考へてゐるからである。医療国営といふものは、国家が市町村の自治体によって組織化されてゐる如く医療系統の自治体を組織化しなければ出来るものではない。医療組織の自治体が即ち医療組合である。
これはドイツの例を見てもわかる通り、国家が強制健康保険を設ける場合でも、自治医療機関と連絡をとって施行されるものである。

医療国営の基礎

医療組合といふのは、この医療国営の基礎工事に当るものであって、我々が組織してゐる医療組合は、直ちに、将来日本に出来る国営健康保険の基礎にならないまでも、その教育機関乃至準備機関になることだけは確かである。都市の無産者の間に於て医療組合運動とても、この将来に来る国営健康保険の基礎的準備機関になることは勿論のことである。
いや、農村に於ける医療組合の必要と共に、都市無産者の医療組合を速かに作らなければ、都市の過群生活から起ってくる医療の社会運動は出来ないのである。

医療の合理化

協同組合を通しての医療組合運動は、市民の無産化から起ってくる疾病を防止しようとする社会政策的計画である。私は今迄度々論じた如く、自由競争による無計画な、個人主義的開業医制度は、医師相互にとっては、浪費と競争と無用な投資を生み、国家的にこれを見るならば、無用なる医療費を国民全体としては消費してゐるのである。この無用なる医療貨の出費を節約して無産者の保険運動にあてようといふのが、医療組合の根本精神である。即ち医療の合理化といふものが、医療組合のみを通して行はれることになる。或医師はいふ。医療組合の加入金を納め得るものは比較的裕福なものであり、開業医にくるものは、医療組合にすら診て貰へないものだけが多くやってくるであらうと。これはその主張者に非常な矛盾がある。我々は加入金をすら最も容易に払ひ得る程度に下げたいのである。医師会の反対上止むを得ず高めてゐるのであって、我々は開業医諸君の生活を脅かすために、医療組合運動をしてゐるのではない。我々は実費診療所とちがふから、剰余金があれば、無料診療を会員に施すことが出来る。
それで、もしも治療費の払へないやうな組合員があれば、組合の会計に余剰があった場合、無料診療の機能も充分発揮し得るのである。その点は、開業医のやうに、他人に恩をきせる必要はない。組合の根本精神は互助運動であるから、無料診療が一種の保険運動として考へられ得るのである。
或人々は都市医療組合の発達によって都会の医者が失業することを恐れてゐる。勿論それは考へられねばならぬことである。王政維新の際、徳川幕府が失業したことは気の毒ではあったけれども、また止むを得ない。医療の合理化のために、非合理的な浪費の多い個人主義的関業医制度を廃止することはやむを得ない。然し徳川第十六代将軍は、貴族院議長として、蘇った。個人開業医も、組合医として復活する可能性はある。然し、もはや昔のやうに、彼は征夷将軍ではなく、自治体に選挙せられたる議長である。かく考へると、都市に於て、医療組合制度を発達させなければ、国家非常時に於て合理的な医療制度を持つことは出来ない。農村に於て医療組合が必要であるのみならず、都市の無産者も、大いに医療組合を持つ必要がある。