『医療組合論』第二章 防貧策としての医療組合

第二章 防貧策としての医療組合
職業と疾病

昭和五年、静岡県が県内一般に調査したものに依ると、同年十月現在に於て、人口千に対し平均十七人の患者があったことになってゐる。その内比較的少いのは農業及水産業であって各十二パーミル(千分比をこれより先はパーミルと呼ぶ)商業がそれに次ぎ十八パ―ミル、交通業は二十二パーミル、工業は二十五パーミル、家事使用人は二十六パーミル、公務自由業は二十七パーミル、鉱山労働者はそれ等に比較して倍に近く、四十六パーミルの比率をもってゐる。又驚くべきは無職と云ふものに千人の中六十五人の病人があることである。これは恐らく小さい時から病人である為に初めから仕事の無かった者も這入ってゐるだらうし、病気の為に失業してゐる者もあらう。それに反して、その他有業者と云ふものには僅か千人の中五人しか病人が無い。患者総数を総人口に比例すると十七人位になってゐる。
この統計表に於て注意したい事は都市の労働者の方に疾病率が非常に高く、農村が割合に疾病率が低いことである。業態別に考へて、この統計表は正しいものと考へていゝと思ふ。然しそれにも拘らず農村の死亡率が非常に高いことは、私が今まで、度々注意した処である。
最近或る医者が青森県の凶作地に無料診察に廻った処が、或る人は一生の間に始めて医者を迎へたと云ふ人があったといふ。業務の性質から云って、病気の少い筈の職業に病気の多くなる理由は、治療が充分出来ない為であると私は考へる。悲しいことには、治療が出来なければ更に病気が重くなり懸る筈の病気も癒らずに、その儘死んで行くのが農村の現状であると私は思ふ。
最近、斉藤内閣が全国の地方官を集めて、農民救済の研究をした時に、君島香川県知事の如きは、農村窮乏の一原因に病人の多い事を指摘してゐた。その救済の一方策として、医療組合の必要を力説して居た。実際自力更生の方法が有りとすれば、疾病から来る貧乏を救ふのには、医療組合を措いて他に途は無い。

疾病からくる貧乏の救済

いくら政府が巡回治療班を作るにしても、財政には制限がある。さればと云って、この不景気に多額の寄附金をする富豪は見当らない。三千万に近い農民の為に完全な保健運動をするのは、一時凌ぎの施療事業位のもので間に合はす事が出来ない。どうしても、永久的の方策を立でなければならぬ。
或る人は云ふかも知れない、医療国営が一番よいと。然し私の考へでは医療のやうな心理的親切さを含むものは、自治的機構の上に国家的要素が加はらなければならぬことであって、それは市町村が自治体であると同じ意味に於である自主基礎を持たねばならぬものである。経済的自治体の単位は産業組合である。医療組合の徹底は搾取に基く階級の分裂を防ぐことである。農村に於て、医者がますます富み、生産者である農民が増々窮乏するといふことは決して、合理的な社会ではない。医薬に投ずる金は、消費的の性質を含んでゐるので、生産事業のやうに、元来が利益を中心として治療を始むべきものではない。人間の健康に関するものは凡て、人道的精神を基礎にしなければならない。それであるから、医療といふものは、必然的に社会化して行くのは、あたり前である。その社会化の方式を慈善事業でやるか、互助組合にゆくか、二つの道があるが、今日のやうな経済状態のもとに於て、互助組合的にゆかなければならないことは誰でも気がつくことであらう。

極貧者の医療組合

慈善は悪いことではない。しかしもしも大金持が私財を投じて、大病院を経営するとしてもその財源は貧乏人を搾取した金を蓄積して慈善事業をするのであるからその資本は必ずしも感心した金ではない。それで搾取なき社会に於ける社会事業は、どうしても互助組合によるほか道は無い。即ち、これを社会的に見ても、国家的に見ても、人間の生理的欠点を救ふのは、医療組合のやうな形式をとる外道はない。そしてこの上将来若しも健康保険組合が加味されてくれば、鬼に金様である。
私の知ってゐる或る地方の医療組合病院の如きは地方の極貧者が結合して、組合病院を結成してゐる。彼等はあまり貧乏であるために、医者が嫌って来てくれなかった。然し、彼等が組合病院を設立するや、医学博士が喜んで村に来てくれるやうになった。そのために村の健康は増進し罹病者率は減り、したがって、村の生産力も増加して来た。
もし日本に於て、最も生産力を殺(そ)いでゐるものがあるとすれば、それは肺結核及び結核性の病気であらう。

結核と貧乏

結核性の患者は、日本に於て恐らく百二十万人を下らないであらう。一旦結核性の患者を家に抱へるならば、ご家族の収入は全部その方に食ひとられてしまふ、その家は見るみるうちに貧乏してしまふ。一日百二十万人の人々を養ふだけでも大変である。若し医師がこの人道問題に目が覚めてくれるなら、卒先して医療組合を作り、搾取的な立場をとらないで実費でこれらの人々を助けるべきものだと私は思ふ。
聞く処によると、ドイツは疾病金庫によって、二万七千に近い結核患者の病床を持ってゐるといふことである。まことに羨ましいことである。然し二万七千からの病床を持たうと思へばどうしても医療組合のほか持つことは出来ない。これは梅毒に就いても、また精神病に就ても同じことがいへるだらう。

医療組合と貧乏救済

都会の貧民の間ほど病人の数が多く、都会の貧民ほど肺病患者が多い。それで、貧民を救ふのは今は病気を救ふに越したことはない。恐らくこの事実は、農漁村民にもあてはまることだらう。農村及漁村の病人を救はなければ、貧乏を除くことは出来ない。然しこの夥しい病人を、どうして僅かの資本しかない無料診療所や村の税金でやることができるだらうか。これはどうしても自力更生による医療組合のほか道はないのである。そしてもしこの医療組合に政府が補助を与へ、市町村が少しでも援助を与へることが出来るならば疾病から来る貧乏は全く根絶されるわけである。
数年前、私は岐阜県岩村の人にきいたことであるが、ある一家族が全部チブスで入院した。丁度田植時であった。もしもその年田植が出来なければ、そのご家族は一文も収入がない上に医薬費だけ負債になって一生借金に苦しむはづだった。それを知ってゐる青年団員九十余名は一致して一町にあまる田を一朝に犂(す)いて一朝に植てしまった。かうしてその人は疾病からくる貧乏を青年団の親切によって免れた。
防貧策としての医療組合は、組合員相互間の連絡によって将来はこの程度にまで発達しなければならない。実際、病気のためにはどれ位多くの人が貧乏してゐるか解らない。それは二重の貧乏を意味してゐる。即ち、生産力がなくなるための貧乏と医療費に使ふ費用の増加するための貧之である。我々は今の処に於て、生産力を充填するだけの協力組織を持ってゐない。しかしせめて医療による搾取だけは免れたいと思って医療組合を組織するのである。