野坂参三が見たスラムの賀川豊彦

 1914年、後に共産党員になる野坂参三は神戸の葺合新川に賀川豊彦を訪ねる。野坂は賀川より4つ若いから22歳の時である。慶應義塾在学中と思われる。野坂は後に書く自伝『風説のあゆみ』の中でその時の驚きを書いている。以下『風説の<あゆみ』の記述である。
「賀川は、そのころ、神戸葺合の新川に住んでいた。彼はそこで、キリスト教の伝道をしながら、単身、困窮者の救済にあたっていた。・・・当時神戸で、新川といえば、市内最大の細民街を意味するように、いつのまにかなっていたのである。一年中乾くまもない低湿地帯だったこの辺は、すこしの雨でも、たちまちあたり一面水浸しになった。そうした不衛生な自然の環境に、畳が一戸あたり二畳から四畳ぐらいしかない棟割長屋が庇(ひさし)と庇をくっつけて幾十と並んで、その戸数は約2000戸(明治末)あったという。だから、狭い家には、一日中、陽があたらず、つねに暗く、2メートルもない狭い路地には、浅い溝から汚水があふれ出て、ところどころ水溜りをつくっていた。
 そこには、何らかの労働災害で不具になり、働き場所から放り出された人たちや、失業者、寡婦、事業に失敗した人たち、生活能力を失って転落して来た人たち――つまり、資本の残酷な原始的蓄積過程で、その犠牲になった人たちが、さまざまな差別をうけ、何の保護もあたえられずに住みついていた。彼らは、にわか仕込みの技術で、たとえば、履物直し、皮革職人、手伝い、掃除夫、葬式人夫などをやって飢えない程度に糊口をしのいでいた。マッチ工場の職工や沖仲士のように、職のある者はいい方である。大半は、その日その日をようやくしのぐ生活であった。明治末年で約8500人ほど住んでいたといわれる。その後、新川の住人は、日増しにふえていったようだ。」
「若いクリスチャンであった賀川は、1909年からこのスラム街に飛び込み、棟割長屋の一軒を借りて、彼らと同じような生活を送り、そのめんどうをみ、行路病者を助け、彼等のよき相談相手となっていたのである。賀川は、不意に訪ねたわたしを喜んで迎えてくれた。」
「・・・彼は、さっそく、わたしを街のなかに案内してくれた。アメリカ留学が決まり、近いうちに渡米の船に乗るので、その始末やらその準備でいそがしい、と、人なつこい近眼の目をしょぼしょぼさせながら笑った。街の奥にはいると、半裸ではだしの子どもたちが、わたしたちのあとをついて来たが、むき出しの腹はふくれ、頭は吹き出物がジクジクしており、目やにをつけたのが多かった。賀川はその子どもたちに何か話しかけ、頭をなでてやると、汚れた顔が邪気に笑った。賀川は、ここの住民のほとんどが眼病(トラホーム)を病んでおり、わたし自身しょぼしょぼさせるのも感染して困っているといった。事実、わたしは、彼の眼病の奥の目の縁が赤くなっており、しょぼしょぼさせるのも、眼病のせいだとわかった。
こんな環境のなかにはいれば、こんな病気になるのも必定だと知りながら、勇敢に飛びこんでいったヒューマニスト賀川の真剣さに、私は頭が下がる思いがした。庇がくっつきあって、トンネルのような暗い路地に、幽鬼のような老婆や、痩せ衰えた老人が出て来て、賀川にあいさつしたが、彼はすでに、この住民の信頼をえているようであった。」
「ひとまわりして彼の家にもどり、わたしたちは、かなりの時間話し合った。わたしは、彼の勇気と献身に、素直に敬意を表すると、彼は、私はキリスト教者だから、これは当然やるべきことなのだといい、ここから出ることのできない悲惨な住民の生活と、政府や県の対策の貧困さを語った。・・・新川の周辺には、マッチ工場がかなりある、ここの子どもたちもやはりマッチ工場へ働きに行くのか、とたずねた。賀川は六ツ七ツだけでなく、五ツぐらいからはたきに出ている子どもがおり、ここでは、就学年齢に達した子ども100人のうち、まがりなりにも学校へかよえるのは、わずか数人にすぎない、といった。そして、新川の人口は日に日にふえ、長屋にはいれない人たちは、周辺の木賃宿に住んでいる。そこにもはいれず、行場のない病人の何人かは、わたしの家に引き取って世話をしていると、語った。
 わたしは、彼の行為に敬意を表しつつも、しかし、個人の力には限界がある、何か抜本的な考えかたをもっているか、と聞くと、彼は、まったくそのとおりだ、働けるものには定職をあたえ、病人には治療をうけさせ、子どもたちには学校へかよわせるようにしてやりたいのだが、政府や県庁はまったくあてにできないで困っている。いまは、自分の力がすこしでも強くなることを祈っているが、君には何かいい考えがあるか、と反問してきた。」
「わたしは、新川の人口がふえているということは、労働者がたえず転落してきているということだ、まずそれを防がなくてはならぬ、そのためには、まず労働者が、ほんらいもっている力を自覚し、資本家と対等の立場をきずき、みずからを守るために団結するのが先決問題ではないだろうか。わたしは、友愛会という労働者の組織に入っている。友愛会は、まだ労働組合ではないが、労働者が力を発揮するには、ほんとうの労働組合にしなければならない、というようなことを、考え考え語ったのを覚えている。彼は、年少のわたしの言葉を、黙ってうなずいて聞いていた」