世界の賀川(7) アメリカでの毀誉褒貶

 1950年、太田俊雄という牧師が、イリノイ州ネイバヴィルに留学していた時の有名なエピソードがある。近隣のオーロラの町では「賀川豊彦来る」が大きなニュースとなった。
「トシオについて行けばカガワに直接会えるかもしれない」
「トシオ紹介してくれよ」
「あのチビの巨人(Tiny Giant Kagawa)と握手させてくれ」
「おまえ日本人やろ。賀川の話を聞きたいから何とかせえよ」
 みんなでオーロラの講演会場に向かうと、道路は車の大渋滞。ようやくたどり着くと会場は満杯だった。第2会場が設けら、その会場となった教会に向かうと「もうバルコニーから地下室までいっぱい。ただ一つあいているのは聖歌隊席の最前列中央」といわれ、会場正面に階段式に作られたクワイヤー席の最前列に案内された。聖歌隊席だけでも100人分以上ある大きな教会だった。
 賀川がようやく来た。第2会場はマイクを通じて彼の話を聞くことになっていたが、さすがに申しわけないというので、賀川は講演の前に第2会場に顔を見せた。太田牧師が聖歌隊の下にもぐっていたら、賀川は太田牧師さんをみつけて、「太田さん、お元気ですか」と握手してくれた。
 講演の後、太田牧師は友達に聞いた。
「賀川の話はどうだった」
「いや、すばらしかった」
「どこがすばらしかった」
「いやよく聞こえなかった」
「おまえ、握手しただろ。おれにその手を触らせろ」
 こういうようなことが、いろんなところであったはずだ。賀川を神格化するつもりはないが、賀川のアメリカでの人気は今からは想像できないほどのものだった。
 もちろん人気者への反発も強かった。「賀川は社会主義者だ」「アカだ」と賀川の行く先々で反対キャンペーンが起こった。新聞が反対キャンペーンを書き立てた。「この町に、あいつが来てもらっちゃ困るんだ、来させるな」といったキャンペーンは茶飯事だった。反賀川キャンペーンも生半可なものじゃなかった。しかし、反対キャンペーンはさらに賀川信奉者たちによってたたかれ、結果的にメディアへの賀川の露出度は嫌がおうにも高まった。
 ここら辺の話は賀川の旅行記『雲水遍歴』と『世界を私の家にして』に詳しい。