伴武澄が語る「甦る賀川豊彦の平和思想」(7)

 なぜユヌスさんとか、プラティープさんの話をしたかというと、振り返れば70年前に、80年前に賀川豊彦が同じようなことを行っていたからなのです。そのことを忘れて、「おお、ユヌスさんは偉いな」と言っているのです。ユヌスさんは確かに偉いですが、わが日本には、もっと前に偉い人がいたんだと感じてもらいたいのです。

 問題はここからですね。先ほど、原先生の話にもありましたけれども、外国で賀川先生のことを知っている人はたくさんいます。本当にそうです。なのに、日本人はみんな忘れてしまっている。ここにおられる方は、多分、賀川先生の名前ぐらいは知っているでしょう。同志社の学生たちがもっと知っていたら、ここは満員御礼になったはずです。多分知らないから、ポスターがあっても、「誰やこの人?」としか思いません。

 賀川がどうして外国で有名になったかは先ほど紹介した、13年のスラムの献身的生活が、実はこれが逐一外国人の宣教師によって伝えられていたからなのです。アメリカのクリスチャン雑誌の『クリスチャンセンチュリー』とか、スイスの『ニューエイジ』とか、フランスの『ラ・ソリダリテ』に賀川のスラムでの貢献が多く書かれています。

 賀川豊彦1920年に『死線を越えて』というベストセラーを出します。数年後には、各国語で翻訳されて出版されています。多国語で翻訳されたのは出版社が「売れる」と思ったからです。賀川という名前は世界に知られていた当然でしょう。売れない本は出版しませんからね。ニューヨークでもロンドンでもパリでも。そう思いませんか。

 賀川が労働組合運動を始めたのもちょうどそのころです。1919年ぐらいから本格的に労働組合運動に取り組みます。一躍彼の名前を有名にしたのは、三菱・川崎造船の大争議です。3万人のストライキを打った。日本で初めての大規模ストライキ。これだけでも大変なことですが、彼の労働運動家として名を高めたとき、賀川の名前はすでに世界で知られていた可能性が高いんだろうと思います。